AGANAIとノマドランドの希望
地下鉄サリン事件の被害者でもある、さかはらあつし監督の映画「AGANAI」。アカデミー賞6部門ノミネートの「ノマドランド」。
いずれも共通するのはベースがノンフィクションということと、ロードムービーという表現スタイル。前者は監督が信者とまっすぐに対峙し、後者は17年発売のノンフィクションが原作です。そして、それ以上に通底するところがあって、考えにふける時間をもらいました。
タグライン「1995年3月20日、あの朝、私はそこにいた。」
AGANAIは気持ちがしっかりしたときに観たほうがいいかもしれない。Alephとしていまも信じ続ける広報部長の荒木浩氏の心の淵にふれたとき、ふっと温情のまなざしを向けてしまいそうになるんです。
それだけ荒木氏のパーソナルな部分に入り込んでいくドキュメンタリー。一歩ちがったら、自分もそうなっていたかもしれない。もちろん被害者にも、あるいは、一心不乱になにかにすがりつく人生にも。
この映画を作るに至った経緯など、けして豪華ではないけれど濃密なパンフレットから、背景がうかがい知れるので、映画のあと、よければ買い求めてみてください。
タグライン「あなたの人生を変えるかもしれない、特別な作品」
そして、ノマドランド。おどろくのは、本当にヴァンで暮らすノマドたちが本人として出演していること。途中、ある人物が息子の自殺を語るシーンがあって、台本にはなかったそうです。素を引き出すクロエ・ジャオ監督の手腕がすごい。
勤めていた企業が破綻して、郵便番号すら住んでいた町からなくなった主人公。亡き夫のことを心の端に宿したまま、ノマドとして季節労働を繰り返しながら生きていく。雄大なアメリカの風景が美しくて、どこかはかなげです。
しあわせの価値
しあわせとは何か、生きるとは何かを静かに問いかけてくる。ロードムービーの2つの映画に共通することです。けして答えはない。そこに描かれる人たちは、幸せにも見えるし、苦悩しているようにも見えます。掴みかけそうになっては消える希望は、手に取った砂浜の砂のよう。さらさらとほとんどが手から落ちて、わずかに残る。
そして、どちらの映画にも出てくるのは、背負っている過去。突きつけられる、過去が今をつくっているという逃れられない事実。連なりながら淡々と過ぎていく時間に抗えず、悶々と生きている本人は気づく由などない。後ろを振り返りながら、ゆるやかなアップダウンを進むしかない。
人生は数式のように美しくはないし、こんがらがって時計の針だけは進んでいく。
ノマドランドは、No Mad Landとも書けると気づいて、ボタンをかけ違えたまま突き進む、狂った社会へのアンチテーゼなのかもしれないと思いました。
自分にとってしあわせってなんだっけ、どちらも、いまを考えるきっかけになる2時間です。
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