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ツイッター始めて12年、その変化と執筆意欲の低下、面倒くささの壁を越えていけチャンネル

どうも、とったんです。

先日、ツイッターを始めてから12年目になった。らしい。
ツイッターくんはぼくがツイッターを始めた記念日を覚えてくれているらしい。
それはもうスティグマなのでは?ことあるごとに記念日にしたがるカップルじゃあるまいし。

今年からツイッターはXに名前を変えてしまった。なんとも馴染まない名前だなと思う。
未だにツイッターはツイッターだし、ポストよりツイートの方が耳にも目にも馴染んでいる。馴染みすぎている。

ツイッターがXになったからといって別段変わることはないのだけど、ツイッターは当初のあり方に戻るべきだ、というツイッター原理主義な主張をするつもりもない。

ツイッターはガンジス川のごとく、貴賤ごちゃまぜの情報が流れていくだけで、流行り廃りが高速で展開されてるだけだ。今さら「○○なう」や「ほかってくる」の時代には戻れないのだ。

ふと思ったが、死語ってなんて乱暴な言葉だろうか。人の都合で勝手に使わなくなっただけなのに言葉を殺さないでほしい。逆に考えれば言葉は使っていかないと死んでしまうのかもしれない。

それはさておき、ツイッターを始めて12年。小学生が卒業するくらいの年月がたっている。
大槻ケンヂと絶望少女たちの「あれから」という曲では10年経ったことに気づいた「俺」は成長してるんだろうかと自問自答する。

成長、というより心持ちは大分変化した気はする。過剰に世の中や他人に恐れを抱かなくなった。そういう意味では少し生きやすくなったかもしれない。

ツイッター始めたてのころのぼくはまだガラケーでガラケー越しにツイッターを見ていた。起業系アカウントにやたらフォローされたり、ネガティブ寄りの同族同種の人を探してみたり、リプライに一喜一憂する日々だった。

ツイキャスをやるなんて当時のぼくからしたら考えられないことかもしれない。自分の声も自分自身も嫌いなので恥をさらしたくないと考えていたからなぁ。

精神的に安定してきている。
それはとてもいいことなのだけど、昔ほど執筆意欲が湧いてこない。創作意欲の源泉が枯れだしている。頼まれなくても作品のアイデアを考えられたのに今はからっきしである。

精神が不安定なときは現実逃避の一環で物語を妄想することがある。抑うつ気味になると謎の集中力を発揮して何かしらに没頭することがあるらしい。まあその没頭の仕方、睡眠時間をゴリゴリ削るからよろしくないのだけど…。

何かしらアイデアを思い付いても完成させることができない。構想だけして満足してしまって形にできてない。かといって完成させることに義務を課すとしんどい。別に誰も期待してないなら書かなくてもいいじゃないか。怠惰な感情が創作意欲を上回る。

そして社会人になると脳内を占める割合に「仕事」や「生活」が一定数を占め始める。他のやりたいこと、惰性でやってるものと優先順位を争うとどうしても負けてしまう。
かといってコーチングやマネジメントをされると息苦しい感じがする。

すさまじく言い訳ばかりである。

見苦しい言い訳を続けるよりなんか作った方が有意義なのは違いない。

目標、というかどれくらいの規模感でやりたいのかあやふやなのがよくないのかもしれない。
期限がないと完璧(?)を求めていつまでもあーでもないこーでもないができてしまう。
むだに風呂敷を広げすぎて収集がつかなくなる。

短編掌編を乱造することで物語の型を体に(頭に?)馴染ませるのもいいかもしれない。

面倒くささの壁を越えるのは難しい。
若さがあれば勢いや熱意で突破して(例え駄作だとしても)形にすることができるが、ある程度歳や知識がついてくると自分のやっていることに対して変に冷静になってしまう。
シュールや不条理なギャグは下手に冷静になると書けなくなるのだ。恥や知識が余計な贅肉になって書く手を止めてしまう。

とにかく、形にするところまで持っていくのは難しい。形にできた人は持っていけただけ何も形にできなかった人より上だ。

言い訳をつらつら重ねるより、習慣がどうより、まずは一歩進むのが先決だと思う。
というわけでこのnoteがその一歩、ということにならないだろうか?

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