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ああ‥凡庸。
自分の書くことに何の価値も意味もないことは自覚している。誰のニーズもないことも。
世間的には透明人間のような自分だ。地位も名声もない私のような人間には誰も関心がない。
そう思ってひたすら虚無感に浸ってきた。
でも、悲しいかなこんな老いぼれにも五分の魂がある。虫けら並みの自我は残っている。ずっと心の呼吸を止めてもいられない。だから、何かしら思ったことを少しずつ吐き出そうと思う。
私は凡庸な人間だ。若い時からそのことに気づいていたが、年を重ねるごとにつくづくありきたりの発想しかできないつまらない人間だと思い知った。
大学卒業を目の前にして、いきなり無謀にも漫画家を目指した。絵は下手だし、まともにひとつの作品さえを描いたこともないのに…。
そうしないと自分はきっと平凡でつまらないサラリーマンになる。ぼんやりとそんな恐怖を抱き、無理やり自分の背中を押すつもりで漫画の世界に踏み込んだ。
私の人生のテーマは、凡庸でつまらない自分からの脱却だった。
天才とか、すごいとか呼ばれる人にやたら憧れた。それ自体がものすごく凡庸な考え方であることにも気づかずに‥。自分には何かしら才能がある。みんなそう思う。それを見つけようとする。そして、もがきあがき悶える。
結論から言おう。私は結婚し、子供を三人授かり、平凡な人生‥いや、経済的には山あり谷ありの安定しない人生を過ごした。料理上手で、献身的な奥さんに助けられ、素直で賢く優しい子供たちとたくさんの楽しい時間を過ごした。でも、肝心の漫画では大成しなかった。
ジャンプやマガジンの新人賞にひっかかるまでは行けたが、連載はついに取れなかった。本誌での読み切りどまり。そして、その頃に痛感した。
オレはふつうの人だ。特別な才能なんてない人間だ。
才能のある人たちは自分とはまるで感性が違う。何かに取り憑かれたように漫画をかいてる。
ある特定の描きたい世界がはっきりと強烈にある。自分にはそれがない。
それを悟った時、「しまった!」と思った。
特別な人たちがしのぎを削る世界に自覚もなく足を踏み入れた自分の無謀さに気がついた。
そんな時に偶然飛び込んできた学習漫画の仕事は、溺れかけてる人間にとっての救命ボートのような存在だった。
地味な学習漫画の世界で、調べものをして取材をしてコツコツと与えられたテーマの仕事をこなす。キラキラした才能なんていらない。むしろ作家のこだわりなんて邪魔になる世界。
自分に合ってた。
我が強くない自分は学習漫画のその都度のテーマを人にどう伝えればいいかだけに専念できた。
ただ、その時も思った。「ああ…、つくづく自分の思考パターンってフツーだな」って。
自分の思考パターンの凡庸さをいつも呪った。普通すぎる発想を変えようとたくさんの本を読み漁った。科学、哲学、歴史‥そんなものに自分の凡庸な発想を変える手がかりを求めた。映画館、美術館、博物館にもよく出かけ、才能ある人たちに感化されようとした。旅行もした。人にも会った。でも、何も変わらなかった。〝ありきたり〟の奇抜さに飛びつき、〝ありきたり〟の感動、〝ありきたり〟の面白さしか作れなかった。
そして、思い知った。自分がいかに凡庸な人間かを。発想の飛躍もなく、気がつけばいつも常識的な思考に流される。学習漫画というジャンルではそれがマイナスには働かない。だから長く続けられた。でも、内心はおだやかではなかった。
自分が憧れた"すごい"人…じゃなかったんだなオレは。しごくノーマルでありきたりな人だったんだ…。学習漫画の読者のお子さんたちから届く手紙にお返事を書きながら、楽しんでくれてありがとうという気持ちと同時に、エンタメジャンルでは通用しなかった自分の世界線を意識した。
ある年齢まで達すると、嫌でも過去の自分が歩んできた実績が自分の平凡さを証明してしまう。非凡なところなど少しもない自分に気がついてしまう。背伸びして特別な人間の真似をしたりしても、自分自身はだませない。常識という重力に縛られた非力な人間である自分と日々向き合うことで、自分の凡人ぶりに納得してしまう。
挑戦はしたよ。そこそこ頑張ってすごいと言われる人間になろうとした。才能のある人になろうとした。そう‥。「なろう」としたんだ。本当に才能のある人たちは最初から「ある」のに‥。
才能が種(タネ)だとしたら、それは過去の遺伝子を受け継いだもの。それを育む土壌や水、光があって、さらには害虫や病気からも逃げ切ってやっと花開くもの。親の遺伝子、愛情、恵まれた環境、出会い、さまざまなラッキー‥。そんなものは自分じゃ選べない。もちろん、後天的な努力や工夫の道は誰にも開かれているが、それには限界がある。世間は〝努力〟を過信しすぎている。道徳にまで引き上げて美談にしている。おかげで多くの人は努力に努力を重ね、それでも目標にとどかない自分を責める。まだまだ努力が足りない‥と。
夢破れた者たちの自分に言い聞かせる言葉は決まっている。「ベストは尽くした」「精一杯頑張った」「昨日の自分より成長できた」。私も掃いて捨てるほどそんな参加賞の景品みたいな安っぽいセリフを吐き続けてきた。凡庸に。
63歳になって思う。最初から平凡を受け入れて生きてきた人は強い。無理せず、淡々とあるがままの自分で生きてる人は優しい。そして、幸せそうに見える。自分にも、他人にも寛容で、運命すら責めない。
平凡に生きることもひとつの才能だ。人生を全うすることが人の究極の目標だとするなら、むしろ平凡に満足して生きた人の方が天才やら偉人なんかよりもずっと上手くそれを達成している気がする。
しごくまっとうに生きるって"すごい"ことだよ。
大手柄をたてることだけが勲章じゃない。負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、破綻しない人生を歩むことは曲芸並みに難しいよ。
だから、凡庸である自分をひそかにそっとヨシヨシしてやるのさ。ヽ(´ー` )ヨシヨシ
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