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インドは旅行じゃないよ。冒険だよ。8.ガンガーの洗礼と魔法のオニオンスープ

早朝、朝日が昇る前に僕たちはガンガーの岸に到着した。
もう既に多くの人が朝陽を浴びたり沐浴したりしている。

僕たちも朝陽に向かって手を合わせた。
そんなことが自然とできる街なのだ。

そこには観光客はいない。
ガンガーに憧れ仰いで遠くから来た人たちや、僧侶たち。

そして、背負われたり、荷台に乗せられたりして来る死を待つ老人たち。
姥捨て山ではない。聖なる地で最期を迎えようとする人たちなのだ。
彼らは、「死を待つ家」で、残り僅かな月日を過ごす。

彼らに悲しみは見えない。
穏やかに微笑んでいる。

彼らの合掌は、見ていて心に響く。
胸が熱くなる。
ただ生きている、それだけで嬉しい。

彼らは太陽に向かって感謝する。
ただただ感謝する。
それ故、穏やかなのだ。

もし何かを願うとするなら、自分以外の「他者の幸せ」だと思う。


川沿いの通りを、なんだか賑やかな群衆がやって来た。
肩に、遺体を乗せた担架を担いでいる。

みな朗らかだ。
無事、天寿を全うした親族を祝っているのだろう。
遺体の周りに敷き詰められたカラフルな花々も微笑んでいるよう。

おめでとう・・・不意に口元に浮かんだ言葉に、僕は感動して泣いてしまった。
死はめでたい事だったのだ。

この人は徳のある人で、きっと大量の薪で組んだ櫓に寝かされ燃やされるんだろうなあ・・・いつの間にか僕は、その人を羨んでいた・・・・。


僕は、厳粛な雰囲気の中で行われている沐浴に惹き込まれた。
どうしても、どーしても、やってみたくなったのだ。

突然、服を脱ぎだした僕に、妻は唖然として呪詛のようにつぶやく。
寒いよ・・・冷たいよ・・・風邪ひくよ・・・汚いよ・・・・

これが彼女の役目なのだ。
彼女は、僕にブレーキをかけるために生まれてきたのだ。
そして僕はその試練を乗り越え、旅に出る。

派手なトランクス一丁で、ヌルヌルとした石の階段を降り、ガンガーに身を預ける。

乾季と言えど、早朝は肌寒い。
全身が鳥肌立つ。

腰の辺りまで入水すると、足が得体の知れない泥のような細かい粒子で出来たヘドロ状なモノの中に沈む。
正直、気持ち悪い・・・。

僕は、足元から這い上がって来る気持ち悪さを振り払い、その場で胸まで浸かり、手を合わせた。
不思議なことに、寒さも冷たさも感じない。
憧れのガンガーに身を浸す歓びに、胸が熱くなった。

興奮した僕は、そのまま川の中央まで泳いだ。
死体が流れ、イルカが泳ぎワニがいる川で僕は泳いだんだ。

その夜、ガンガーの洗礼が待っていた。
清潔な日本人が、ガンガーで沐浴すると受ける洗礼だそうだ。

原因は不明。水が口に入った訳ではない。
唯一考えられるとするなら、身体が冷えたから・・・それしかない。

40度近くの高熱に悪寒、脱力感、食欲不振・・・と言うか、腕を上げることもままならない状態に・・・・。

細い裏通りの路地にあるホテルの窓から、大音量のインド歌謡が流れてくる。
その侘しさと言ったら!

4千年の歴史のある印方の薬局で買ったインドポカリを作ってもらい、それを飲むしか手立てはなかった。
日本の薬はどれも効かず、ただただ死を待つホテルとなってしまった。

本当に死を覚悟した。
その時、僕は悟ったと思う。いや、悟ったんだ。

今まで許せなかった全ての事々・・・それらが一瞬にして下らないモノに見えてしまった。
絶対に許せなかった親父の裏切りさえ、微笑ましいものに思えたのだ。

人は死ぬと仏になる・・・その言葉は正しい。


正確には、死の間際、僕は悟ったんだ。
世の中の全ての物を、僕は許したんだ。

後で聞くと、妻は笑っている僕を見て、「」を覚悟したらしい。
寝込んでから三日、何も食べていない。
口にするのは、インドポカリだけ。
オ〇ッコさえ行っていなかった。

インドで知り合ったM君が見舞いに来てくれた。
英語を話せない妻を連れて銀行や買い物に行ってくれた。

その時の様子を、僕の枕元で興奮気味に話す妻に、僕は軽い嫉妬を覚えていた・・・・。

そして四日目の朝、いよいよか・・・そう思っていた僕を、妻とM君は無理やりベッドから引きずり出した。
「もういいよ。僕はここで死ぬんだ」
「何を言っているんですか、白石さん。まだ死なせませんよ。まだ聞きたいことがいっぱいある」
「私を一人残して逝く気!?」
目にいっぱい涙を浮かべて怒る妻。

靴を履かせられ、無理やり外に連れ出された。
久し振りのバラナシの繁華街。
ここが海外だということも忘れるぐらい、僕は街と同化していた。

連れて来られたのは、表通りにあるレストラン。
インドの中では、そこそこ高級なレストランだ。

魔法のオニオンスープ

運ばれてきたのは、魔法のオニオンスープ
「さあ、これを飲んで。無理やりにでも喉に流し込むんだ!」
M君と妻が怖い顔をしている。二人とも、真剣なのだ。

どうせ、受け付けないよ・・・そう思って飲んだ人生初のオニオンスープ・・・それは、とても優しく甘い不思議な味わい。

あ、美味しい!

またオニオンスープが運ばれてきた。
二つ目のスープも飲み干した僕は、急に元気がみなぎるのを感じた。

「あれ!? 元気になったかも?!?」
クスクス・・・二人が僕を見て笑っている。

その日、M君にインドのライ米に貴重な醤油で味付けしたお粥を作ってもらった。
その美味しさったら!!
醤油の偉大さを改めて思い知らされた。

僕は生き返った。
妻とM君の献身的な看護のお陰で生還した。

M君は言った。
「白石さん、インドを舐めてたらダメですよ。僕は水に慣れるのに二年かかりました。来てすぐにガンガーに入るなんて、死にに行くようなもんです」
「だから私も言ったでしょ!?」
「でもね、僕も同じことをやったんです。それで、今の師匠にオニオンスープを飲ませてもらい復活したんですよ。これは本当の意味での洗礼ですよ。インドを受け入れられるかどうかの・・・・」

インド旅行に来る日本人にはいくつかのパターンがあるという。
ひとつは、インドに来て、あまりの不潔さ混沌さに嫌気や恐怖を覚え、ホテルから一歩も出られずに帰る人。
ひとつは、僕らのようにインドが大好きなり、どっぷりはまる人。
そしてもう一つは・・・観光バスで観光名所とホテルを往き来し、お土産を買い漁るエコノミックジャパンと呼ばれる人たち。

インドは、混沌としていて奥深い。
それ故に、多くの若者を惹きつけて止まないのだ。

僕の受けた洗礼は、全部で三つ。
あと二つのが待っているとは知らずに、僕はすっかりインドに溶け込み、馴染んでいた・・・・。




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