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[0円小説] 三孔類と二孔類

猛暑の夏のとある日の昼下がり、オオオタ区カマッタ駅前図書館の冷房の効いた新聞閲覧席で、ジロウは今月の指令(ミッション)について考えている。

ジロウの人生はと言えば、ラクダの口をとらえ、船の上に生涯を浮かべたようなシロモノなのであるから、使命(ミッション)とか天命とかいう観点からすれば、画竜点睛を欠きまくり、船頭多くして船マチャプチャレに登る、そんなような事態ばかりが、無闇にあざなわれて生かされてきたのである。そんなジロウにとっては、ふた月に一度の指令の到着こそが、灰色の人生に彩りを添えてくれる素晴らしき神の恵みに違いないというのに、それを遂行するというささやかな努力さえ疎かにして、気がつくと月末の締切りは過ぎてしまい、今日は八月の三日ではないか。

カマッタはジパング皇国の帝都トーキアウの南方に位置する下町色の濃い鉄道ターミナルの街だ。ケヒヒントホホク線の駅ビルとトオオキュウの二線が乗り入れる駅ビルの二つが融合・一体化して、そこには十二分なまでに未来世紀ブラジル的な白く輝く魔窟が創り上げられている。駅前図書館はその東口を出て、南の方へ歩くこと数分のところにあった。
締切りはずずずいと過ぎ去ってしまったわけだが、それというのもいつも通りうっかりしていた上に、妻のムーコとともに西ジパングのココノシマから帝都にやってきて、セタタガヤノザーワの実家に滞在したり、そこから滞在先を変えてカマッタの安宿に移ったりしているうちに、指令の存在自体をすっかり忘れ果てていたのである。幸い指令の遂行はゆるい義務というほどのものであったので、今から取り掛かってもまだ間に合うはず。そうたかをくくって、ジロウは図書館の生物学の棚から本を一冊抜き出し、閲覧席に戻ってその中の一章を読み始めた。

  *  *  *

我々哺乳類は進化の高度に発達した段階にあり、中でも我が人類が属する霊長類は最高度に進化した存在であり、更にその中でも我らヒト属こそがその頂点に位置し、ゆえにこの地球自体の運命をも自在に操る任を担っている。
……というようなところが、西洋人の一般的な見方であろうか。
しかし、とジロウは思った。古来より中国では生き物を分類するのに西洋風の系統樹のような考え方を使うことなく、外見の似ているものを近縁としたのだという。つまり、ねずみも熊も四つ脚であり、毛皮を持っているからこれを獣として考える。また、イルカや鯨は海に棲み、ひれを持っているのだから、これは魚の一種である。
では、人間はどうか。人間は二足歩行で体毛がほぼない。古代の中国人は何とこれをウジ虫の仲間と考えたのだという。
そんな話をどこで読んだのだったか、昔のことなのでジロウはすっかり忘れてしまっている。人をウジと同類と考えて、そこからどんな世界観が広がりうるのか、科学全盛の現代からすれば奇怪としか言い様のないその中国的思想についてもう少し知りたいと思ったが、ネットでぱっと見る限りそれにつながる情報は見当たらなかった。老子や荘子が活躍する中国のことであるから、自己をウジ虫並みと見なすことから様々に豊かな想像が拡がることには間違いがないと思われた。

  *  *  *

形態の似ているものは同類として扱うということであれば、ヤマアラシとハリネズミ、そしてハリモグラはどれも仲間ということになるだろう。
この三種の獣はどれも体毛が変化を遂げて発達したトゲで体が覆われており、それによって外敵から身を守るのだ。進化の系統からすれば決して近縁の種とは呼べず、体毛のとげへの変化は平行進化と呼ぶべきものなのだが。
インドの西、ラジャスタン州の州都ジャイプルの近郊の山にある瞑想センターで初めてヤマアラシを見たときの新鮮な驚きを、ジロウはありありと思い出すことができる。あれは多分インドタテガミヤマアラシだったのだろう。
朝の四時すぎ、瞑想の練習をするためにパゴダへと歩いていったジロウは、入り口付近の灯りに照らされて、地面近くで何ものかがすすすと動くのを見た。丸っこい体のうしろのほうに立派なとげを生やした、猫か犬ほどの大きさの見慣れぬ生き物だった。ハリネズミという名前が頭に浮かんだが、いや違う、ネズミという名には大きすぎる、と思い直した。
ヤマアラシといえばヤマアラシのジレンマが思い浮かぶ。エヴァンゲリオンにも登場して多くの人たちに知られることになったこの寓話は、もともとはドイツの哲人ショーペンハウエルが語ったものだ。

ある冬の寒い日、ヤマアラシの群れが互いの暖かさで寒さをしのごうと体を寄せ合う。しかし体を寄せると互いのとげで刺し合うことになるので、また離れざるをえない。するとやはり寒いので再び身を寄せ合うが、またもとげで刺し合うことになり、再度身を遠ざけることになる。こうして寒さととげの痛さの二つの不快さを繰り返しながら、やがて丁度よい距離の取り方をヤマアラシたちは会得するというのである。
多くの人間は孤独であることを好まず、かといって親密になりすぎるとお互いを傷つけ合うことになる。したがって、孤独に耐えられない人間は、他者との適切な距離の取り方を学ぶ必要があることを、このたとえ話は説明するわけだが、これをフロイトが心理学の分野に紹介したことで一般に広まったのだそうだ。

ところでショーペンハウエルは、この寓話をヤマアラシ(英語ではポーキュバイン)の話として語ったのだが、英語ではなぜかハリネズミ(ヘッジホッグ)のジレンマという呼び方が一般的である。北米ではハリネズミのほうが親しみがあるのだろうか。それともヘッジホッグという発音の小気味良さが好まれたのだろうか。理由はともかく、ヤマアラシもハリネズミも生物学者以外には似たようなもので、細かい生物学的分類よりも背中にとげを生やしていることこそが重要ということだ。

  *  *  *

さて、ヤマアラシもハリネズミもげっ歯類であり、ネズミの仲間であることに変わりはない。しかしハリモグラは大いに違う。ハリモグラはモグラの仲間でもない。アリやシロアリを食べて暮らしているのでトゲアリクイという名で呼ばれたこともあったが、アリクイの仲間でもない。

ハリモグラはカモノハシの仲間なのだ。

カモノハシはオーストラリアに棲む卵生の哺乳類だ。卵を産む哺乳類だって? 動物のくせに葉緑素を持って光合成するミドリムシ並みの変態動物じゃないか。さらには哺乳類なのにくちばしを持ち、手足にはアヒルのごとき水掻きまである。オスの後ろ足には毒を出す蹴爪をも備えているというのだから、鵺(ぬえ)のごとき化け物の風格がある。
そう、ハリモグラはカモノハシと同じく単孔類に分類される、世にも珍しい卵生の哺乳類なのである。
単孔類のメスは卵を産むにも関わらず、その子に乳を与えて育てる。けれども乳首は持たない。乳腺からにじみ出る乳を子はなめて育つのである。

ところでこの単孔類という呼び名は何を意味するのだろうか。
生物について少し興味のある人ならば、鳥類は糞と尿を一緒にすることは知っているかもしれない。みなさんは駅などでハトに糞を落とされて悲しい事態になった経験をお持ちではないだろうか。鳥の糞があのようにべちゃべちゃと水分を多く含んでいるのは、尿も一緒に排泄されているからなのだ。つまり鳥類は哺乳類のように尿道と肛門が別々になってはいないのである。さらには卵を産むのも同じ一つの穴であり、排尿・排便・生殖の三つを一つの穴(孔)で済ませるのが爬虫類や鳥類に共通する特徴なのだった。
単孔類の名は、哺乳類であるにも関わらず、総排出孔が一つだけであることから来ているわけである。

  *  *  *

ジロウが読んでいる本は、黄色いカバーの目立つデザインで、図書館の本棚に並んでいる背表紙には小さくカモノハシの線画が白抜きであしらってあった。カモノハシか単孔類について書いてある本がないかと探していたところ、その背表紙が目に飛び込んできたのだ。
単孔類という名前の由来についてのその本の説明には、著者のおもしろい一言が添えられていた。カモノハシが単孔類なら、人間の男は二孔類、女は三孔類、したがって女が一番複雑で進化した身体を持っているというのだ。

つまり。

生物学的分類などというものを気にするのはやめて、穴の数でものごとを判断することにすれば、女と男は別の種と考えることだってできるではないか。「男は火星人、女は金星人」という本もあったが、女と男は身体・精神・行動の面で大いに異なる点がある。同じ人間だと思うから、自分の発想で相手を判断し、思うようには振る舞ってくれない相手に腹を立ててしまう。異性は別の種族であり、自分の価値観だけでは到底理解できないものなのだと割りきって初めて、狭まった思考の枠組みを広げ、相手の気持ちを当たらずといえど遠からずの範囲で想像することができるようになるはずだと、ジロウは考えた。

今自分が図書館で一人このように時間を過ごしているのも、妻のムーコの小さな嫌味に過剰に反応して腹を立て、捨て台詞を残して宿の部屋を飛び出してきた結果だった。
ムーコは自分とは別の種族に属する、容易には理解することができない存在なのだ。その種族にとっては軽い嫌味などただの挨拶くらいの意味しか持たないのだろう。今の自分にはそのように近くからとげを刺されることがかなりの苦痛だが、相手がとげを逆立てているのに気づいたら、さっと身を交わせばいいだけのことだ。
今日はうっかり相手のとげを見てこちらもとげを逆立ててしまったが、昔のようにその状態で言葉のやり取りを続けてお互いに刺し合って血を流すことなく、さっとその場を立ち去ることができたのだから、上出来といっていいくらいのものだ。
そんなことに思いを巡らせながらジロウは、単孔類について書くべしという指令をこれでどうやら遂行できそうだとほっと一息ついたのだった。

  *  *  *

カマッタに数日滞在したあと、ナナリタ空港からインドへ戻るムーコを見送るためジロウはナーリタに二泊した。
真白き未来都市カマッタからやってくると、ナナリタの街はずいぶんのんびりとしており、またナナリタ山シンショー寺の広々として静謐な雰囲気は心を大いに安らかにしてくれた。

ウジ虫の仲間たちが群れ溢れるトーキアウにはもう住めないなとジロウは思った。むろん自分もそのウジ虫の一匹でしかないのは他のみんなと同じことだ。同じことだが、街の中のウジ虫として生まれた身ではあるが、森の中のウジ虫として死にたいとジロウは実感したのだ。

ムーコを見送り、セタタガヤの実家に戻ったジロウは、その翌日は二孔類の旧友二人と飲み、さらに次の日は三孔類の音楽友だちのライブに出かけて都市生活を楽しんだ。
その合間合間に文章をつづりながら、年老いた母との心が通っているとは言いがたいが言葉のやり取りだけは確かにとにかくもしながら、そして、自分の来しかた行く末をうすぼんやりと感じ取りながら、ジロウは奇妙に心細い感情と戯れ続けた。
人はこの世に生まれ落ちて、しばらくの時間を楽しみ、そして苦しみ、やがて土に還る。その束の間の時間こそが人生のすべてなのだ。ウジ虫としての三億五千万年の、そして哺乳類としての二億二千五百万年の歴史の果ての人新世の時代に、この大地の上をふらふらとさ迷う二孔類のジロウは、自分が何者でもなく無名のままで、生きて死んでゆくことの幸せを噛み締めていた。

[東京世田谷・甲辰葉月]

#小説 #エッセイ #ネムキリスペクト #単孔類

☆有料部にはあとがきを置きます。投げ銭がてら読んでいただければ幸いです。

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