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[全文無料・掌編小説] さめぎわのバラード

[2 - 3 分で読めます]

 どことも知れぬ薄暗がりの空間の中、ひんやりとした空気に包まれていた。

 肌寒さを感じる一歩手前の、清冽な風を感じて振り返ると、きみがいた。

 髪を短くしてボーイッシュな装いのきみは、いつものように白いシャツの第二ボタンまでを開けて、17歳のまばゆい胸元を見せびらかしている。

 ぼくを見て、少し照れるように微笑み、首を傾げるきみのいつもの仕草に、体のなか電流が走った。

 あれっ? 君とはもう、別れたんじゃなかったっけ?

 その思いが伝わったかのように、きみは顔には笑みを浮かべたままで、首を横に小さく振った。唇の左端が少しだけ釣り上がって、さみしさの気配をたたえていた。

 それで、ぼくは思い出したんだ。きみが抱える悲しさのことを。自由に生きることを選んだために、孤独を道連れにすることになった、きみの人生の重荷。幼かったぼくには、きみのそんなしんどさのことなど、想像することもできなかった。

 きみの口元が、何か言いたげにゆっくりと動いた。けれど、声は聞こえなかった。

 きみがどこかに行ってしまいそうな気がしてぼくは、「ちょっと待って」と言おうとしたが、口の中は乾ききって、舌は重くもつれた。あごはやっとの思いで少しだけ動いたけれど、言葉を発することはできなかった。きみの方に手を差し伸べたかった。でも、筋肉はこわばり、関節もさびついて、体はいうことをきかない……。

 緊張で首筋に汗が流れた。

 するときみは、ゆっくりと滑るようにぼくに近づいてきて、ぼくを抱くように両手を上げた。身動きできないで立ちすくむぼくの両腕に、きみの冷たい指先が触れたとき、ぼくの左の目から涙がひとすじ流れた。

 遠くから音楽が聴こえてきた。

 ゆったりとした調べは穏やかで、けれど、力強さを感じさせるバラード調の音の粒が広がって、ぼくの全身を、悲しさと安らぎの振動で満たしていった。

 気がつくとぼくは、きみの熱い抱擁の中にいた。ぼくはきみに抱かれて煮えたぎる熱さに身もだえしているのに、ぼくが抱きしめるきみの背中は大理石のようにひんやりとしていた。

 バラードの調べがやさしく、もう時間がないことを告げていた。

 魔法の時は永遠には続かない。

 そのときは確かに永遠にしか思えないのに、どんなことにもやがて終わりがやってくる。この瞬間がいつまでも続けばいいのに、そう思った瞬間に、確かに掴んでいた永遠の感覚を、ぼくらは手放してしまうことになる。

 夢の意識の中でぼくは、彼女をしっかりと抱きしめ、その冷たい体と一つになって暖めようとしていた。けれども意識の片隅では分かっていたんだ。ぼくには彼女を暖めることなどできやしない。

 彼女との恋が、ぼくの初めての大人の恋だった。

 三十年前の夏の日、ぼくは彼女と結ばれ、そしてわずか数ヶ月で、その恋はちりぢりに破れて散った。

 彼女と過ごした魔法の時間が、戻るはずなどないことを十分に知っていながら、それでも心の奥底では彼女を諦めることができないままに、ぼくは今日まで生きてきたのだ。

 美しかった調べが、いつもの目覚ましの音に戻りはじめていた。まだ指先に彼女の背中の感触を味わいながら、ぼくは思った。

 ずいぶん久しぶりに彼女の夢を見たな。まだ、彼女を忘れられないでいたんだ。でも今日の夢は、今まで見てきた夢とは違う。彼女は最後のお別れを告げにきてくれたんだ。

 少しだけ切なかったが、ぼくは自分の中に次の一歩を踏み出す準備ができているのを感じていた。

 そうだ、過去の呪縛から解かれて、新しい一歩を踏み出そうとしているぼくに、彼女は最後の挨拶に来てくれたのだ。

 そのとき、左肩がぽんと叩かれた。

 十分さめた意識の中で、きみが叩いた肩の感触を確かめながら、ぼくはまだ目をつむったまま、新しい一日の始まりについて想いを巡らせていた。

 左目から、また一筋、涙が流れた。

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