12 無我の境地に遊ぶ - 辻潤と高橋新吉に触れて

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無目的にまったく漂々乎として歩いていると自分がいつの間にか風や水や草や、その他の自然の物象と同化して自分の存在がともすれば怪しくなって来ることはさして珍しいことではない。自分の存在が怪しくなってくる位だから、世間や社会の存在はそれ以前に何処かへ消し飛んでいる。そんな時に、どうかすると「浮浪人の法悦」というようなものを感じさせられる。
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-- 辻潤「浮浪漫語」

こういう辻の言葉を読むと、ああ、彼は確かに「悟りの境地」を垣間見ていたのだなと感じます。

彼は、翻訳家とか作家とか、あるいは評論家などと紹介されるのですが、むしろ市井の思想家であり、哲人であり、仙境に遊ぶ風流人という言葉が似合う人だなあと思います。

辻潤と並んで日本のダダイストとして知られる詩人・高橋新吉の場合は、辻のようなゆるい生き方ではなく、もう少し硬質な感性を感じますが、その人生において、ある種の「悟りの境地」へと向かった点では共通点があります。

高橋は座禅を通して道を求め、次のような見性体験をしています。

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廊下には雲水たちが、参禅に入室するためにならんでいた。老師の居間で、鈴の音がすると、喚鐘の小さな吊鐘をたたいて、順々に入ってゆく。

私の番が来たので、小さな木槌をとって、私は二度たたいたのであった。その吊鐘の音を耳にしたとき、私ははじめて、無我の何たるかを知ったのであった。鐘のひびきはこころよく、私の鼓膜に流れ入った。私はいく度この音に触れたかもしれない。けれどもその時の音響とはちがったものとして、私の耳朶(じだ)をいたずらに打っていたに過ぎない。鐘の音は余韻を漂わせて、高く青い空に消えて行った。私は私自身の存在の本質にやっとそれで気がついたのである。
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-- 高橋新吉「虚無」

このようにして高橋は「自身の存在の本質」が無我であることを体感したのです。

さて、「自分などというものは本当は存在しない、無我である」などと言っても、多くのみなさんは、「はあ、そんなことも言えますかねえ?」といったくらいの、はなはだ曖昧な感想しか持たないかもしれません。

そして、そんな境地が一体何の役に立つのかと問われれば、「別に特別は何の役にも立ちませんよ」というのが、正直なところです。

ブッダは偉い、釈迦は尊い、と言ってみたところで、それは一つの精神修養的立場を共通にする人たちの間でのみ通用する「物語」でしかなく、毎日そこそこに楽しく生きていられりゃそれでいい、と思うような方には、まったく縁のない話です。

とはいえ、人生至るところに落とし穴が待っていたりもしますから、地震雷火事親父、津波に原発事故にテロ戦争といった災難にいつ襲われるかは、分かったものではありません。

そんないざという場合に備えて、いつでも平穏な気持ちを保つためには、日頃からそれ相応の練習をしておいて、悪い理由もないでしょう。

そういう気持ちのある方ならば、無我という考え方には十分意味がありますし、それを体得するための一つの方法を編み出したお釈迦さまは、あなたにとって命の恩人になるかもしれません。

おまけに、ぼくのような普段から軽い躁うつのような、何だかかんだか低空飛行の人生を送っていて、しかも現世的な価値にはさほど興味を持てない人間にとっては、ともすると人生の意味がつぶれてぺちゃんこになって、「あー、もう生きるの面倒」となってしまったりするのですから、そんなときには、慌てず騒がず、
「今この身に『生きるの面倒』という想いが起こったな、けれどもそれは別に『ぼくが生きるの面倒』と思ったわけではないのだ、そもそも『ぼく』などというものは、そういうものが存在していると、習慣として考えているだけのただのフィクションに過ぎないんだ、ゆっくり深呼吸でもして、この『面倒』という気分が体にどんな感覚を起こしているか見てみよう、いつものように腰に緊張が来てるな」
などなどということを、考えるまでもなく、すっと心の中で直感的な認識が働くところまで日頃の練習が準備できたとすれば、たとえ強い情動に心身が揺さぶられたとしても、その動揺を厭(いと)うことなく、押さえ込むことをせず、ただ『ここに動揺がある』とだけ意識するとき、そうした動揺もやがて収まってゆき、そうした動揺が起こること自体も少なくなっていく……。

これが禅や瞑想と呼ばれるものの練習の一つのあり方であり、その大もとにある基本的な考えの一つが、ふだん自分だと思っている自我とかエゴとか呼ばれるものは実はフィクションに過ぎないので、いわゆる我(が)を落としてしまえば、いつでも落ち着いたフラットな意識で生きることが可能なのだという、無我の境地ということになります。

自分がないならば、自分のものという考えもありません。

自分のものがなければ、人に物を壊されても盗られても、怒りの感情は起こらないでしょう。

自分がないのだから、余計な自尊心もなく、人にばかにされても不愉快にならず、人に褒められても得意になりもしません。

いつでも落ち着いた気持ちでいられるのですから、感情に振り回されて間違った判断や言動をすることもありません。

もちろん、そんな立派な境地に至ることは簡単にできることではありませんが、「無我=自分はない」という、初めは突飛にも思える考え方を身につけることができれば、少しずつ以前よりは落ち着いた心のあり方も身についてくるということなのです。

とまあそんなことで、今日は辻潤と高橋新吉を種にして、無我の話を少しばかりいたしました。

お別れに自由律の俳人、尾崎放哉の句を掲げることにしましょう。

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何か求むる心海に放つ -- 放哉
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それではみなさん、ナマステジーっ♬

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