哀しみを乗り越えるために、ひそやかに唄を歌おう。

この世界に違和感を持ちながら、アウトサイダーとして人生を生きるものは、日常という現実に満足することができずに、非日常的な何かを求めて渇望の日々を生きる。

その根底にあるのは、怒りか、怖れか、哀しみか。とにかく苦しくて仕様がないのだ。

他者に理解され得ないという哀しみが、ぼくの心を縛っているのだ。

ぼくなど存在しないと分かったところで、それが何の救いになろう。

そこで哀しみが何かを縛っていることには変わりないのだ。

哀しみも無常だと知ったところで、それが何の救いになろう。

何かがやってきては結び目を作り、何かが何かをそこでは縛り続けているのだ。

結び目を嫌うことをやめれば苦しみはなくなるのだと知ったところで、それが何の役に立つだろう。

それが一体、何の役に立つというのだ!

ところが不思議なことに、嫌うことをやめれば苦しみがやむという真実を、この体で実感することができれば、それは実際役に立つのだ。

だからぼくの心は今、少しだけ楽になったのだ。

脳脊髄液に満たされた狭苦しい空間に浮いている、脳髄に尻尾がだらりとぶら下がったような奇妙奇天烈な姿をした神経組織の上で、今この瞬間にも無数の反応が湧き上がって、生化学の唄を歌いながら、心身一如の夢を踊り続けている。

その渾沌として哀しみに満ちた踊りが、ふと風に吹かれて、ひょいと方向を変えて、静かに螺旋を描きながら不思議の不動点に向かって奇跡の軌跡を辿り始めたのだ。

外側の世界では今も、日常が続いている。ある場所では今も、嵐が吹き荒れている。他の場所ではこの瞬間も、地獄の惨劇が演じられている。

けれども無闇に現状を嘆くことは、解決につながらない。

抑えきれない怒りを放出するだけでは、世界は変わらない。

臭いものには蓋をするだけで、いいときだってあるのだ。

耐えられない現実から、避難する時間も必要なのだ。

心の底の哀しみを、ゆっくりとしっかりとじっくりと、抱きしめてやる時間が必要なのだ。

心の波立ちが最後の一つまで落ち着くように、十分に時間をかけて、時間など忘れて抱きしめて、いたわりの気持ちで満たしてやって、そうしてその手を放すときになれば心は、軽々としてぬくもりをいだく羽毛の雲となって、体中に広がり、部屋中に広がり、大空一杯に広がって、自分が世界と一つだったときのことを思い出す。

ええ、そうなんです。母の腹の中でぬくぬくと、自分が自分だとも知らずに生きていたあの頃、自分が世界で世界が自分だったあの頃のことを思い出すために、ぼくは今日も唄を歌い続けているのです。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 108

いつもサポートありがとうございます。みなさんの100円のサポートによって、こちらインドでは約2kgのバナナを買うことができます。これは絶滅危惧種としべえザウルス1匹を2-3日養うことができる量になります。缶コーヒーひと缶を飲んだつもりになって、ぜひともサポートをご検討ください♬