見出し画像

我が自転車ライフ

 自転車事始め
 
 子供の頃から運動音痴で、足が地面を離れる運動はからっきしダメな私にとって、唯一楽しめるスポーツと言えば、自転車に乗ることだった。

 しかし、その自転車もどちらかというと「遅咲き」で、小学校4年生を目の前にした春休みに、親に買い与えられた子供用の24㌅の自転車に乗れるようになったため、それ以降は学区内から離れたところまで遠征するまでになった。

 私立の中学校時代は自宅から若干距離もあったため、雨降りの日はバスと電車を乗り継いでの通学となったのだったが、天気の良い日は自転車通学だった。親戚から中古自転車を貰い、それを通学に使っていた。中古と言っても、初めての内装三段の変速機付きで、それなりに嬉しかった。

 高校に進学すると、その高校は県立の新設校で市内郊外にあったため、原則全生徒が自転車通学を求められていた。1000人を超す生徒のための駐輪場は、片脚スタンドは許可されず、しかも贅沢という理由なのか三段以上の変速機は認められなかった。

 やっと4段変速以上の外装変速機タイプの自転車に乗れると勇んでいたのに、憧れのスポーティーな自転車がドン臭い姿に変容させられて、高校生活のスタートラインに立っていきなり出鼻をくじかれる思いだった。

 それでも嬉しくて卒業した春休みに、中学の友人と3人で富士宮まで初の遠乗りを楽しんだことが良い思い出になった。

 高校時代は、自分にとっては授業や剣道部の活動以上に朝晩の自転車通学に熱が入り、登校時には何分で学校に着いたか毎朝タイムを計って一喜一憂するほどに自転車通学に勤しんでいた。

 その後、大学時代は神奈川県相模原市に移住したため、殆ど電車移動になって自転車からは遠ざかったが、それでも相模原の荒野や厚木飛行場の周辺を「ブーンバイク」という小径を手に入れて、暇を見ては乗り回すことは忘れなかった。
 
社会人になって
 
 

 社会人になってからは早々に自動車通勤に転じたが、高校時代に使った自転車の変速機の具合が悪くなったので、それを外してシングルギアにして、たまには通勤にも使っていた。

 その後勤務するオフィスが街中に移ったのを機に、オフィスの近所の自転車屋に入り浸って、最初に買ったのが憧れのドロップハンドル車だった。

 それは「丸紅山口自転車」製の「ベニックス102A」でランドナーといわれる種類だったが、そんな知識もないままに初めてのドロップハンドルとフロント2段×リア5段変速に有頂天になっていた。

 しばらくして、その入り浸っていた自転車屋の店先に「片倉シルク」というロードバイクが陳列されているのを発見して、社長に値段を聞いたら、「今乗っているランドナーを店頭で委託販売するからその売れた金額との差額でいいよ」ということだった。

 あとから知ったことだが、当時「ベニックス」と「片倉シルク」は、国産車ではスポーツサイクルの双璧を成していたらしい。

 結果として、当時の自分の月収で賄える金額で白いフレームの素敵なロードバイクが手に入り、自転車に対するボルテージは上がる一方だった。

 その当時は、ロードバイクという言葉もなく、「ロードレーサー」というジャンルで、道を走れば競輪の選手と間違われるほど地方都市では希な乗り物で、そこにイタリア製のウールのジャージと短パンにヘルメットを被って走るのはなかなか勇気が要るものだった。

 当時は仲間もいないので、自転車屋のオニイちゃんに教わりながら、ペダルにもトゥクリップを取り付けてシューズをペダルに固定して走るようになり、細い道で前を行くダンプが急に止まって、足が外れずそのまま落車しそうになり、怖い思いもしながらロードバイクに馴染んで行った。

 まだ巷であまり見かけないレーシングスタイルで走っているので、時には競輪でスッた腹いせか、はたまた競輪選手と間違われたか、ダンプにいきなり幅寄せされたりもした。

 ロードレーサーに乗っている以上レースに出なければ洒落にならないということで、当時ヤマハのテストコースで開催されていた「オレンジロードレース」にも単騎で参加したりもした。

 その後しばらくして、当時の素材としては最高グレードのクロモリ(クロームモリブデン)パイプフレームの「MIYATA MR2000」というロードバイクを同じ店で買うことになった。

 これもまた委託販売で片倉シルクが売れたので、代金の差額分を貯金をはたいて手に入れて、早速修善寺のCSC(サイクルスポーツセンター)で開催されたJCF主催のレースにも参戦したが、上り坂が苦手ドン亀の私はとにかく遅いので、同情した観客が尻を押してくれるという情けないデビュー戦だった。

 その後JCRC戦でも何度も参加したが、あそこの上り坂はきついけれど、なぜか嫌いではない。

 30代から50代にかけては、子育て期と重なりアクティブに活動できなかったが、55歳になった頃から仲間と連れ立ってロードバイクを再開した。その時に選んだバイクが、TREK1500というアルミフレームのバイクだった。

 MR2000に比べて軽量で、変速もブレーキレバーと兼用のシフターになり、変速段数も7速から9速に歯数が増え、しかも値段の割に「SHIMANO ULTEGLA」仕様と装備が奢られたコスパの良いバイクで、レースには遜色のないバイクだった。

 ただ、このバイクは軽いことは軽いのだが、フォークだけはカーボンだったものの、アルミフレームの硬さが直接腕に来て、長時間のライドで腕がパンパンになるのには参った。

 TREK1500に代わってから出入りするバイクショップも代わったが、いつもそこに通っていると、長い間売れずにぶら下がっている、当時の最新でツール・ド・フランスにも連勝していたカーボンフレームのTREK Madone5.9の姿が気になっていた。

 多分サイズが小さく、売れ残っていたのだと思う。自分にはジャストフィットのサイズだったので、ある晩ショップの社長と呑んだ時に、「あのフレームは、まるで自分が乗るのを待っていているように見える」と熱心に説いたところ、社長も大変乗り気になってくれて、お陰でバーゲンプライスでゲットすることができた。

 TREK1500は、自転車仲間の子息が、まだ小学生なのにロードバイクに乗せたいので譲ってほしいと頼まれ、青少年健全育成に貢献するため、格安で譲ったが果たしてその少年のその後の成果は知らない。
 
換骨奪胎の歴史
 

 ここからは、テーマの「換骨奪胎」の話になる。

 TREK1500に乗っている間に、最初に搭載されていたコンポーネントやホィールなどは、徐々に上位クラスのものに取り換えられ、コンポーネントがSHIMANO Dura Ace、ホイールはいつの間にかTREK純正のBONTRAGER Race X Liteに換装されていた。ということで、Madoneのフレームを手に入れた途端、ほぼ純正のMadone 5.9が完成していた。これぞ「換骨奪胎」の威力なり。

 2004年の10月にMadoneに乗り始め、その5年後に、車なら「いつかはクラウン(今では死語か?)」と言われたように、自転車の場合は「いつかはイタリアン」というのが自転車乗りの憧れであった。

 当時それまでカーボンバイクでもラグ接続のフレームしか作っていなかったCOLNAGOが、初めて世に出したカーボン一体成型フレームのCX-1の存在が気になり初め、しばらくして費用の工面も出来たため、念願叶って購入することになった。

 その時もまた「換骨奪胎」作戦が発動され、CX-1のフレームには、いつの間にかTREKに装着されていたDura AceのホィールWH-7800を移植し、コンポーネントはDura Ace 7900シリーズを新たに装着して、言ってみれば「COLNAGO CX-1 Ver.1」が完成したのだった。

 2009年にCX-1に乗り初め、それからはMadoneと交互に乗り続けているが、5年後の2014年に、ちょっとした臨時収入を得て、今度はホィールの入替えを目論んだ。今回選んだのは、イタリア製のFulcrum Racing Zeroだ。ホィールの入替えというビッグイベントで、CX-1は「Ver.2」となった。

 ホィールを入れ替えるとバイク以上にその違いが判ると思うが、残念ながらその頃からレースから足が遠のき始め、その恩恵にはあまり預かれなかったのが残念だ。

 それから6年後CX-1 Ver.2は、マイナーチェンジ即ちVer.2.1に生まれ変わった。それは、ある時期パンクを繰り返しているときに、それまでの2.3Cから2.5Cに幅をサイズアップする決断をして、それまでと同じブランドのCONTINENTAL GP5000Sの2.5Cに換装した。このサイズアップにより、乗り心地の良さが増すという思わぬ違いを体感することになった。

 そして今回、昨年の夏に朝練仲間が、DeRosaのSKⅡに乗り換えて、Campagnolo Record12速の快適さを毎回吹聴するのに辟易としながらも、そのマインドコントロールにやられてしまい、ついに「換骨奪胎」の集大成、「Full Italian」とも言うべき、Campagnolo Chorusのコンポーネントに換装を決断するに至ったのである。

SHIMANO Dura Ace コンポーネント搭載時


Campagnolo Chorus コンポーネントに換装後

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?