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夫婦別姓についての所感

夫婦別姓に関しては変節したということを認めざるを得ない。もうちょっというと、以前はあまり深く考えずに肯定していたのだが、最近はもう少し深く考えるようになって、結論としては今はニュートラルである。つまり、どっちでもいいと思っているのだが、夫婦別姓に変えるにしても手続きに気を付ける必要があると考えている。

だが、もちろん将来考え方が変わる可能性もあるので、現時点でのそれを記録しておこうという趣旨でここにコメントを残す。

以前は、どのように考えていたか

夫婦別姓について肯定的に考えていたのは、リベラリズムというほどのことでもなく、それは不自由よりも自由なほうがいいだろうというくらいである。まあ、割と問題を表層的にとらえていたわけだ。だが、そこに至る動機が問題だった。つまり「自分は頭がいい」ということを周りにアピールしたくてそういうことを積極的に言っていたのである。こういう傾向はもちろん誰にでも自然にあることなので否定する必要はないのであるが、その考え方のもっと根元にあったのは「夫婦別姓も知らない、あるいは知っていても頑迷な、頭が悪い日本国民を、頭がいい俺が啓蒙する必要がある」という思い上がった思想である。今思うと、恥ずかしい限りだ。

しかし、この類の社会的問題を主張する人々が、一般的にそういう傾向があるということもまた事実であろう。例えば環境問題を声高に主張する人たちは、例えばちょっと部屋が寒いくらいですぐにストーブを付けるだらしない庶民に対して、先ずは厚着をすることを教育してやらなければならないなどと本気で考えている。その是非についてここでは述べまい。しかし、夫婦別姓に漫然と賛成していた頃は、自分の中にそういう思い上がりがあったことを認めなければならないだろう。

今、夫婦別姓について

今は夫婦別姓についてはどちらでもいいと考えている。ただし、夫婦別姓が導入されるとしても、その導入プロセスが正当なものでなければならないということは強く思っている。それはどういうことかというと、

夫婦別姓というのはこれから結婚する人が当然に主張できる類の権利ではなく、日本国民全体の総意を取りつつ、それに対して立場的にはお願いして認めてもらうというような権利なのである

ということである。だから、今の議論の方向性は間違っていると思っている。例えば、このNHKの記事である。

「だったら結婚しなくていい」というヤジが問題になっているが、私は実は夫婦別姓についてはそのヤジが実に本質をついていると思うのである。なぜか。それは、あるカップルの結婚は、社会全体にとって、少なくとも短期的には負担であるからだ。どういうことか。

結婚は制度であり、政策である。何の政策かというと、カップルを保護する政策なのである。例えば扶養控除。カップルが結婚すると、税制上の優遇措置がある。その他、国によって結婚しているカップルは様々に保護されている。しかし、そういう保護には当然のことながらコストがついてくる。つまり、結婚している人が税制上優遇されているということは、その分を結婚していない人が負担しているという関係になっているのである。そのことを忘れてはならない。1980年代以前であれば50歳未婚率は男女とも5%以下であったため、殆どの人が結婚していたと言ってよく、その時代であればその優遇措置は問題にならなかったであろう。しかし、今は結婚したくてもできない人が、普通にたくさんいる時代である。そんなときに

「思い入れのある名字を変更したくない」
「名字が変わると、キャリアが途切れることになる」

などというほとんど個人的な要望を振りかざして自分たちだけ優遇しろと訴えるのは横暴だと思うのである。

一方で、それは既婚者であって姓を変えてしまっているカップルに対して、特に姓を変えた可能性が高い既婚女性に対しても不公平感の残る制度になっていることも見逃してはならない。結局、これまでの結婚とは優遇措置とアイデンティティの維持とのトレードオフであると言える。夫婦別姓の主張は両方の利益を要求する、つまり自分たちだけは「いいどこ取り」をさせろと主張しているのである。もちろん、その状況を加味しても、制度的に夫婦別姓の方が夫婦同姓よりも優れているのであれば、これから結婚する世代にはその選択肢も与えられる方が良いだろう。しかし、過去にはそれが出来なかった人もいて、そしてそれが取り返しがつかないものになっているということを忘れてはならない。「私たちもそうだったんだから、下の代も同じ苦しみを味わうべきだ」という要求は、もちろん決してベストなものではないが、理不尽であるとまでは言えないと思う。

本気なら別のやり方があるはず

したがって、大事なのは「諸外国では当然のように導入されているのに、頑迷で愚昧な保守層が駄々をこね、ルサンチマンになってるからこんなことになっている」みたいな大上段から行くのは、戦術としても賢くないし、正当性も欠いている、と思うのである。だからこのサイボウズの青野さんのこういうアプローチは、本当にそれを実現したいと思うのであれば間違ったやり方であると思う。

「論理的に考えれば違憲であると、そういう判決が出ると思っていたんですけれど、ほぼそのロジックについてはスルーされていた」
「司法の場は、感情的なものではなくて、論理的に判断されるものと信じていましたが、残念ながら、今回の判決文を読む限り、それがなされていなかったんじゃないかなという気持ちです」

「俺は論理的にやってんだけどさ、そうじゃねえバカな裁判官と、自民党とその裏にいる頭の悪い保守層がグルになって邪魔しやがるんだよね」と言っているわけだ。その背後には、僕が以前とらわれていた、頭のいい自分と頭の悪い相手という二項対立の考え方が透けている。そのやり方ではうまくいくものもうまくいかないだろう。もっとも、サイボウズの社長になっているくらいの人が言っていることなので、もしかすると敢えてここで騒ぐことによって、プロモーション効果を期待しているのかもしれないね、というくらいに見ておけばそんなに外れてはいないだろう。

まとめると

昔大学で取った租税法の講義で教授が言っていたことだが、制度というものはそれを動かすとそれが動いた瞬間にだけ不公平が生じるそうで、制度が安定であれば人は制度にとって最適なように動いてゆくので結局は公平になるということである。なので、僕自身は特に今の結婚制度は、それが制度的に不公平なものであるとまでは言えないと思う。不公平さとは別な社会的要請があって、導入の声が上がっているのも理解できるので、それが一時的に不公平な状況を作り出す可能性があるということを理解しておいて、それでも全体としてはやるべき価値があることなんであるということを訴え続ける必要があるだろう。

夫婦別姓制度による利益が見込めず、却って負担増になる人もいるということも重々承知しています。それでも、これが日本国民全体の長期的利益にかなっていると思うからこそ提案させて頂いています。どうか、この提案を受け入れてはもらえませんでしょうか?

こういう謙虚な姿勢で臨まなければ、国民全体の理解を得ることはできないだろう。

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