見出し画像

小説「天上の絵画」vol.5

↓小説「天上の絵画」vol.4はこちら↓



5 二○二一年 渡井蓮 二十三歳
 
 コンビニのアルバイトを解雇された蓮は、日雇いの仕事や単発のアルバイトで、何とか食いつないでいた。
 
 極寒の倉庫内で、ベルトコンベヤーから流れてくるペットボトルに、八時間立ったままでシールを張り続けたり、居酒屋で酔っ払いに絡まれながら、配膳業務に勤しんだ。

 身体的、精神的負担にそぐわない微々たる賃金だったが、余計な人間関係を築く必要がない分、気が楽だった。

 及原慎吾の一件以来、他人を信頼することに、ほとほと嫌気が差していた。所詮は他人だ。こちらがどれだけ心を開いても、相手の本音を知ることはできない。体よく利用され、都合が悪くなければ、あっけなく裏切られる。相手を信頼することほど、愚かなことはない。

 昔に散々味わされたのに、孤独と寂しさ、自分の弱さのせいなのか、つい気持ちが揺らいでしまった。

 時刻は二十時過ぎ、レストランの単発バイトを終えた蓮は、帰路についていた。人手不足を理由にこき使われ、疲労困憊だった。早く帰って、横になりたい。

 冬を感じさせる冷たい夜風が、火照った身体に心地よい。初めて訪れた縁のゆかりもない街を、一人で歩いた。都内近郊とあって、人通りは多く、駅前は仕事終わりのサラリーマンや、学生達で賑わっていた。スマホのナビによると、大通りから一本外れた路地を進んだ方が、近道のようだった。

 蓮は左に曲がり、雑居ビルに挟まれた路地に入った。路地の向こう側は、堤防になっており、小さな川が流れていた。夜の闇に染まった水面に、オレンジ色の電灯が反射し、光の帯がゆらゆらと揺れていた。

 堤防沿いを進むと、住宅街の中に、煌々と輝いている一画があった。見ると、花輪を抱え、建物の中を出たり入ったりしている人が目に入った。『Hiding meet Galary』と書かれたオシャレなビルの一階は、全面ガラス張りになっていた。

 何気なくガラスの奥を覗いた蓮は、ギョッとして目を見開いた。多数の絵画が壁に掛けられていた。人物画や風景画が強い証明に照らされ、光の中に浮いているように見える。心臓の鼓動が早くなり、背中を汗が伝う。頭の中がしびれて、思考が定まらない。蓮は唇をきつく結んだまま、その場から一歩も動けなくなった。

 高校で起こったある出来事をきっかけに、距離を取ってきた絵画との、思いがけない邂逅に身体と心がついてこない。
 
 「あの…。どうかされましたか?」ギャラリーの外で、仁王立ちしている蓮の姿を不審に思ったのか、スタッフらしき女性が声をかけてきた。
 
 「いえ…」唇がくっつき、くぐもった声しか出せない。女性スタッフが、怪訝な表情を浮かべている。このまま立ち去りたいが、足が棒のように固まって動かない。
 
 「どうかした?」扉を開け、顎髭を生やした男性が顔をのぞかせた。
 「あっ、この人が―」
 男性は蓮を一瞥し「すみません。開催は明日からなんですよ」とめんどくさそうに、顔をしかめた。
 蓮は小刻みに首を振った。少しずつ足に力が戻り始めている。身体の向きを変え、その場を立ち去ろうとしたその時、

 「えっ、まさか…蓮?」
 男性が訝しげに言った。
 
 驚いて振り返ると、男性が扉を開け放ち外に出てきた。
 
 「やっぱりそうだ。お前、渡井蓮だろ!」
 
 目を丸くした男性は、蓮の手を取り力強く握った。
 
 「久しぶりだな。何年ぶりだ。高校卒業以来だから、五年ぶりぐらいか。お前変わらないな」興奮した様子の男性は、握った手をブンブンと上下に振った。分けがわからない蓮は、なすがままされるがままだった。
 
 「なんだよ、その顔は。まさか親友の顔を忘れたのか。おいおい、そりゃあないよ。一緒に美術部で切磋琢磨した仲じゃん」男性はため息交じりに言うと「しょうがねぇなぁ」顎を上げ胸を張った。
 
 「英司…岩谷英司だよ」
 
 蓮は目を白黒させたのち、あんぐりと口を開けた。懐かしい響きに胸の奥が熱くなった。同級生の名前はほとんど覚えていないが、この名前だけは忘れることができなかった。忘れてはならないと、無意識のうちに心の奥深くに刻みこんでいた。

 多感な青春時代を絵を描くことだけに費やした。周りの同級生が華やかで刺激的な日常を謳歌する中、キャンバスに向き合い続けた。変わった人と白い目で見られても、心が折れなかった理由は、いつも隣に”彼”がいたからだ。
 
 「英司!」
 
 頬を紅潮させ、思わず両手で握り返した。
 
 「ホントに、英司か!」
 「そうだよ。どんな嘘だよ」前歯を見せてニヤリと笑った。その笑い方は間違いなく英司だ。蓮は神経を表情筋に集中させ、普通を装った。
 
 「ひ…久しぶり。元気そうだね」言葉が上滑りしたが、英司は気がついていないようだった。
 「あの…」女性スタッフが困惑気味に聞いた。「英司さんのお知り合いの方ですか?」
 
 「そう。俺の親友。で―」そう言うと英司は蓮の肩に腕をまわした。「絵の師匠」
 キリっとした目端に、シャープな顎のライン、スッと伸びた鼻先。端正な顔立ちの中に、薄っすらニキビ跡が見えた。昔の岩谷英司の面影が、かすかに残っていた。
 
 「そうだったんですね。それは大変失礼しました」泡を食った様子で、頭を下げる女性スタッフに英司が手を振った
 「違う、違う。俺が招待したわけじゃないの…。うん?」英司が首を傾げた。「そういや、何でここにいるの?」
 
 仕事終わりに、たまたま通りかかっただけだと、説明すると「運命ってやつじゃん!」目元を綻ばせた英司に、バンバンと肩を叩かれた。
 鈍い痛みが昔の記憶を呼び覚ます。郷愁が胸を貫いた。無垢な少年時代を、共に駆け抜けた親友の変化に戸惑いながら、変わらぬ友情に淡い喜びを感じた。
 
 「英司さんのお友達でしたら、この方も絵を?」
 「そう!蓮はすげぇんだよ。『全国小学生絵画コンクール』で金賞を取ったんだぜ。わかる?全国一位!」
 
 「『全国小学生絵画コンクール』って確か…」女性スタッフが口元に手をあてた。「協会の理事と副理事が、横領で逮捕されましたよね。それがきっかけで、コンクールも廃止されたって―」
 
 英司がわざとらしく咳き込むと、女性スタッフは蓮を一瞥し、気まずそうに口を噤んだ。
 
 かつて手にした栄光は、砂の城のように跡形もなく消え去り、その残滓は今でも心をざわつかせる。
 
 「開催は明日からなんだけどさ、蓮は特別だ。よかったら見て行けよ」その場を取り繕うように英司が言った。その心遣いをありがたく感じる反面、子供じみた惨めさが頭をもたげた。
 
 女性スタッフがあからさまに、迷惑そうな顔つきになった。「準備が終わっていませんし、レセプションの打ち合わせもまだ―」
 
 「いいの、いいの」
 片目をつむり、ひらひらと手を振った英司に背中を押され、蓮の個展会場の中に足を踏み入れた。

 大勢のスタッフが、蓮に好奇の目を向ける。頭の先から足の先まで品定めされているようで、息苦しさを感じた。英司を始め、この場にいる全員がスタイリッシュでカジュアルな服装に身を包んでいた。

 生きている世界が違うと、否が応でも思い知らされた。
 
 「こっちだ」
 
 スタッフの蔑むような眼差しから逃げるように、下を向きコソコソと英司の後について行った。
 
 「見てくれ!」
 会場に入った蓮は、圧倒され息を飲んだ。美しい額縁に収められた数多くの絵画が、光のベールを纏い、キラキラと輝いていた。建物の外から見たときも、その美しさに思わず足を止めたが、こうして実物を目の前にすると、その洗練されたフォルムと均整のとれた色使い、計算されつくした構図に、心が沸き立った。

 何十年も前に蓋をして、意識の奥深くに隠したはずの、幼い好奇心と淡い恍惚感を、かすかに感じる。忘れていたはずの興奮が、右手の神経を刺激する。
 
 「どうだ。どれも自信作ばかりだ」英司が胸を張った。「明日からの個展では三日間で、千名以上の人間が来展する予定だ。でも、ここは単なる足掛かりに過ぎない。次は…世界だ」
 蓮が振り返ると、英司が野望に満ちた眼差しで、光輝く絵画を凝視していた。
 
 「年明けから、ニューヨークで個展を開く準備を進めているところだ。すでに向こうに、何名かのスタッフを送ってる」
 想像もつかない壮大な世界に英司は、挑もうとしている。自信と希望に満ち溢れた同級生の姿を前に、蓮はうつむいた。

 育った環境は同じなのに、どうしてここまでの差がついてしまったのか。
 
 「でも、ダメなんだ。これじゃあ世界では勝てない」腕組みをした英司が、不満を漏らした。「前回行った時は、向こうのバイヤーから、個性がないと言われたよ。技術は素晴らしいが、オリジナリティがないと」語尾に憤りが混じる。
 
 「日本の若造だと、甘く見やがって。芸術を金儲けの道具としてしか考えていない、お前に何が分かる」憤然とした英司は、目尻をつりあげたが、すぐに元に戻し、口元を緩めた。

 「だが、今回は違う…」照明を反射した瞳が、淡い光を放つ。「今回はとっておきを用意してある」
 
 「とっておき…」
 
 英司が不敵な笑みを浮かべた。
 
 「そんなことより、蓮は最近どうなんだ。どんな絵を描いてる?」
 
 蓮が表情を曇らせた。「最近は…仕事が忙しくて、なかなか描く時間がとれなくて」これから世界に挑もうとしている英司に向かって、正直に打ち明けることができなかった。

 「フーン。そっか…」微笑を浮かべた英司がスマホを取り出した。「なあ、蓮、連絡先教えてくれ」
 お互いのLINEを交換すると「今度うちに遊びに来ないか?」

  突然の誘いに蓮は、面食らった。
 「ここが終わったら、渡米まで少し時間があるんだ」
 「いや、でも…」
 「いろいろ話したいこともあるし…」英司は口元に手をやると、ささやくように言った。「蓮にどうしても見てほしいものがあるんだ」
 
 「…あぁ」戸惑いながらも、英司からの誘いが純粋に嬉しかった。
 
 その後、英司の説明受けながら、個展会場を一回りした蓮は、礼を言って帰って行った。

(vol.6へつづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?