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小説「天上の絵画」vol.4

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4 二〇〇八年 渡井蓮 十歳

 渡井蓮が教室に入ると、絵の具で汚れたエプロン姿の湯澤がほうきで、床を掃いていた。「こんにちは」と声をかけると、顔を上げ少しだけ目を見開いた。
 
 「こんにちは。あれ、もうそんな時間か」首をひねって、壁にかかった時計を見上げた。
 時刻は午後四時半を少し過ぎたところだ。「こんな早い時間に珍しいね」驚くと同時に、湯澤は嬉しそうだった。
 
 「学校からそのまま来たからね」ランドセルを下ろし、窓際の棚の上に置いた。
 「家には、帰ってないの?」
 「うん。お父さんがSUICAをくれたから、電車で来た」
 ランドセルのポケットから、カードケースを取り出し、誇らしげにかざした。チェーンとポケモンのキーホルダーが揺れる。
 
 「帰りはどうするの?」
 「お母さんが、迎えに来てくれるよ。携帯電話も買ってもらった」一昨日買ってもらったばかりのキッズ携帯が、反対側のケースの中に入っている。  

 「昨日からパートで働いているんだって。だからこれからは、電車で行きなさいって」不満そうに言いながら、内心はそこまで嫌ではなかった。電車で通うことで、ほんの少しだけ大人の仲間入りができた。同級生より一歩先に進んだ自分を、誇らしく思っていた。
 
 「そうか…。家の事情とはいえ、心配してるだろうね」教室の隅を丁寧に掃きながら、湯澤が気遣うように言った。
 「全然」道具入れからちりとりを出し、湯澤のそばに持っていった。「二人とも心配なんてしてなかったよ。お父さんは、これも社会勉強だって言ってた」蓮は身体を屈めるとちりとりの先を床につけ、斜め四十五度くらいに傾けた。
 
 「強がってるだけだよ。ご両親は心配してるはずだよ」湯澤は集めたゴミを一カ所に集め、まとめてちりとりの中に滑り込ませた。
 「そうかな」ゴミが落ちないよう、ちりとりを後ろにずらす。「そんなふうには、見えなかったけどな」
 
 「蓮君には、まだわかないかもね。…ありがとう」蓮からちりとりを受け取ると、湯澤はゴミ袋に中身を捨てた。
 納得いかないと軽く肩をすくめた蓮は、壁に立てかけてある『渡井蓮』と記されたイーゼルを取り、棚の中から書きかけのキャンバスを、引っ張り出した。

 両脇にイーゼルとキャンバスを抱えて、窓際の定位置に移動した蓮は、慣れた動作で黙々と準備を進める。バケツに水を張り、絵の具が沁み込み所々変色しているパレットを持って、ランドセルの中から、絵の具と筆を取り出した。向かって右側、イーゼルの足元にバケツを置き、筆を放り込む。左手にパレットを持つと、順番に絵の具のチューブを絞り出していく。

 湯澤は他の生徒のイーゼルを準備しながら、そんな蓮の様子に目を細めた。
 「ここに通い始めて、一年くらいかな?」
 「うーん…」絵の具のチューブの蓋を締め終えた蓮は筆をとった。「それくらい…かな」
 
 筆を使って、絵の具を順番に混ぜ合わせていく。赤、黄、青色の原色の配合バランスを調整しながら、様々な色を作り出していった。この色の作り方は、誰かに教えられたわけではなく、蓮自身の試行錯誤の結果だった。そのため、蓮以外の生徒が同じ色を作ろうとしても、何かが違って見えた。色の風味というか鮮度が足りない。蓮のように、美しく鮮やかな色合いを出せる生徒は、一人もいなかった。

 「たった一年で、ここまで上達するなんて、思っていなかったよ」
 蓮の耳の先が、ほのかに赤く色づいた。
 「聞いたよ。校内の写生大会で一番になったんだって」まるで自分のことのように、喜ぶ湯澤を視界の隅にとらえ、蓮は照れくさそうに微笑んだ。
 
 「うちの学校は、美術部もないし、そこまで上手な子がいないから」胸の奥がむずがゆくなる。「別に大したことないよ」
 「それでもすごいよ。教え子として誇らしく思う」
 『教え子』という聞き慣れない言葉の響きに、顔が熱くなった。一人の生徒として、いや一人の『渡井蓮』として認められたようで、嬉しかった。これまで生きてきた中で、こんなふうに認められたのは、初めてのことだった。

 両親の前でも、大人しくわがままを言ったり、反抗的な態度を取ったこともない。唯一わがままを言ったのは、湯澤の絵画教室に通わせてくれと頼み込んだことくらいだ。学校でも目立たない、ごく普通の一般生徒の一人だった。

 別にそのことに不満があったわけではない。昔から目立つことが苦手だったし、進んで前に出るようなタイプではなかった。その他大勢の一員として、これからも生きて行くんだと、子供ながらに達観していた。
 
 「朝礼で、表彰されたんだろ」
 
 毎週月曜日に行われる全校朝礼の場で、校長から賞状を渡された。よほど緊張していたのか、その時のことは、ほとんど覚えていない。だが、賞状を一目見た時の両親の様子は、はっきりと目の奥に焼き付いている。母親は飛び上がって喜び、父親は髪の毛がぐちゃぐちゃに乱れるほど、頭を何度も何度もなでつけた。
 
 「うん…。まあ」鼻の下を指先でかいた蓮の姿を、湯澤は愛おしそうに見つめていた。
 
 湯澤の教室には、蓮と同じ小学校の生徒も何名か通っていたが、彼らの絵が注目を集めることはなかった。教室の中でも、蓮の才能は特別であると、明確で冷酷な空気が出来上がりつつあった。

 講師である湯澤は、そのことに薄々気づいて始めていたが、圧倒的な才能と実力の差を前に、どうすることもできずにいた。正確には、対策を講じる気もなかった。蓮には好きなように絵を描かせ、他の生徒に対しても、これまでと変わらない態度で接する。

 湯澤にできるのは、それくらいだった。
 
 「蓮君―」湯澤がキャンバスを並べる手を止め、身体の向きを変えた。「『全国小学生絵画コンクール』に応募してみないかい」
 
 『全国小学生絵画コンクール』とは三年に一度開催される、全国の小学生を対象とした絵のコンクールである。五十年以上歴史があり、このコンクールで賞を受賞した小学生の多くが、後に日本を代表する芸術家として活躍している。彫刻や陶芸、建築模型など多くの部門があるが、中でも水彩画は応募総数が最も多く、特に小学四年生から六年生を対象にした高学年の部は、年々レベルが上がっており、開催されるたびに。注目度が高まっていた。

 前回は受賞発表の場が、全国メディアで生中継され、大きな話題となった。さらに上位三位に選ばれた作品は、日本の名だたる有名美術館に展示され、その名が全国に知れ渡る。
 
 「あーうん…」蓮は筆をおいて、気まずそうに目を伏せた。「その話、学校の先生からも言われたんだけど、断った」
 「どうして」湯澤は思わず身を乗り出した。
 「だって…。興味ないから」穢れのない真っすぐな瞳で湯澤を見つめた。「絵で勝ったとか負けたとか、興味ない」
 
 蓮にとって絵を描いている時が、一番幸せ瞬間だった。誰が上手いとか、どの絵が優れているとか、どうでもよいことだった。写生大会で表彰されたことも、そこまで嬉しかったわけではない。
 
 湯澤の表情が曇った。これまで見たことのない表情に、蓮は戸惑った。何か傷つけるようなこと言ってしまったのだろうか。当惑している蓮に気がついた湯澤が慌てて、口角を上げた。
 「あっいや、蓮君がそう決めたなら、それでいいんだけど。ただ…ちょっともったいないなと思ってね」気まずそうに眼鏡を押し上げた湯澤は、椅子を並べ始めた。
 
 「『全国小学生絵画コンクール』は、三年に一度しか開催されないんだ。今年を逃すと、次は中学生。出場の権利が失われてしまう。せっかくのチャンスだから、応募しても損はないかなって。それに、蓮君の実力なら、良い所までいけると思うんだ。金賞は無理でも、銀賞や銅賞くらいなら、十分可能性はある。小学四年生が賞を受賞したら、それはすごいことだよ。先生も教え子として鼻が高い」
 
 「それってどういう意味?」蓮が弾かれたようなに、顔を向けた。
 「えっ」
 「『はながたかい』ってどういう意味?」
 一点の曇りもないまっさらな瞳に、全てを見透かされているようで、湯澤は当惑した。
 
 「それは、つまり…自慢できるとか、誇りに思うとか…かな」
 「フーン」口元が緩み、胸の奥がほのかに暖かくなった。
 
 絵が評価されるたびに、両親や湯浅が喜んでくれた。何の取り柄もない自分が、初めて認められた気がした。
 
 『おしえごとしてはながたかい』
 
 この言葉が頭の中で反芻され、一文字一文字が光を帯びて目の前を横切り、キャンバスの中に溶け込んでいく。
 
 「じゃあ…やってみようかな」
 
 「えっ本当かい!?」湯澤が驚いて声を上ずらせた。
 「だって、先生は『はながたかい』でしょ」
 屈託のない笑顔が、純粋な蓮の気持ちを、如実に表していた。『全国小学生絵画コンクール』で賞を受賞すれば、湯澤はきっと喜んでくれる。そしておそらく両親も。学校の写生大会の比ではないかもしれない。二人も蓮のことを『はながたかい』と思ってくれる。
 
 「あっ、ああ…。そうだね」ぎこちない笑顔で、湯澤が応えた。
 「そっか。そっか」満足そうな蓮は、筆をとった。「じゃあこれを出そうかな」
 「いいと思うよ」湯澤がすぐ後ろに立ち、描きかけのキャンバスをしげしげと見つめていた。「応募期限は三ヶ月後だから、時間は十分あるね」
 
 光の線や風の流れが、繊細なタッチで描かれた風景画に、蓮は筆をあてた。半年ほど前から描き始め、完成が間近だった。湧き上がる興奮と恍惚感に、身を委ねる。初めてこの場所で描いた時の、あの不思議な感覚ほどではないが、蓮の心は十分すぎるほどに満たされていた。

 描いているだけで幸せだったが、新たな目標ができたことで、いつもに増して、筆が走る。まるで霧が晴れて行くように、頭の中が明瞭になり、どの箇所にどの色を塗ればいいのか、手に取るようにわかった。
 
 湯澤はその様子を後ろから、見守りながら頬を赤らめ涙を浮かべた。
 「君が…僕の…」
 「えっ」蓮が振り返ると、湯澤が慌てた様子で、眼鏡を外し目頭を抑えた。「どうしたの?」
 
 「いや…」照れくさそうに、かぶりを振った。「ちょっと子供の頃を思い出しちゃって」
 
 蓮が首を傾げた。
 「実は僕も五年生の時に『全国小学生絵画コンクール』に応募したんだ」
 「へぇー」
 歴史の長い、コンクールだから湯澤が参加していたとしても、おかしくない。
 「残念ながら、銀賞だったよ。金賞は取れなかった」最後の言葉に、捨てきれない悔しさがにじみ出ていた。
 「えっそうなの!?」蓮が声を上げ、目を泳がせた。「先生が銀賞だったなら、僕には無理だね…」
 「そんなことないよ」慌てた様子の湯澤が両手を振った。「あの頃の僕は、独学で絵を描いていたから、筆が定まっていなかったんだ。でも…蓮君は違うだろ」
 自分で言って照れくさくなったのか、首の後ろに手のひらをあてた。
 「頼りないけど、年長者として少しは役に立つはずだよ」
 
 蓮が湯澤の元で、学び始めて一年。短期間でここまで上達できたのは、ひとえに湯澤の指導力の賜物だ。

 湯澤は、生徒達の感性に任せ、自由に描かせることを信条にしている。手取り足取り細かく描き方を教えることはせず、生徒達が自由に描いた絵に、軽くアドバイスをする程度に抑えている。一部の生徒からは、物足りないと不満が出たこともあるが、湯澤が指導方法を変えることはなかった。

 蓮には、この指導方法が、合っていた。
 心から絵を楽しむことを知った蓮は、内に秘められた才能を、開花させた。湯澤との出会いがなければ、蓮が自分の才能に気がつくことはなかったかもしれない。
 
 「ここに通い始めて一年ちょっとで、ここまで上達した子は、蓮君が始めてだよ。蓮君よりも経験が長い上級生達を、あっという間に追い抜いちゃった。ここだけの話…」口元に手をあて、囁くように言った。「歯がゆい思いをしてる子もいたんだよ」
 
 「フーン…」蓮は筆を持ち、描きかけのキャンバスに向き直った。色と構図のイメージが突然頭の中に浮かんだ蓮は、無意識のうちに筆を走らせていた。こうなってしまった蓮は、周りが見えなくなってしまう。当然人の話も、耳に入ってこない。そのことに気がついた湯澤は、軽く息を吐き、無言で立ち上がった。

 「そろそろかな…」時計を確認した湯澤は、蓮のそばから離れ、教室の隅に置かれていた、二つのキャンバスを手に取った。引き出しからマイナスドライバーを取り出すと、木枠を足で押さえた。
 
 湯澤は布と木枠を止めていたを釘を、マイナスドライバーを使って、丁寧に外し始めた。マイナスドライバーで、釘を浮かせるたびに、パキパキと乾いた音が鳴った。
 
 「先生、何してるの?」蓮が身体を傾け、キャンバスの脇から顔をのぞかせた。
 「あぁ、これかい。キャンバスの布を新しいもの変えるんだよ。次に使う子のためにね」
 よく見ると、布には途中まで描かれたデッサンが残っていた。
 「でも、まだ描きかけじゃない?」蓮が疑問を口にすると「そうだね…」と湯澤が呟いた。
 
 「この絵を描いてた子は、先月で辞めちゃったんだ。…だから、もう必要ないんだよ」寂しさを眼鏡の奥に押し隠し、口元を綻ばせた。
 「誰が辞めたの?」
 「この前話しただろ。りせちゃんだよ」
 
 「りせって誰?」
 蓮は目を瞬かせた。
 
 「冗談だろ」
 湯浅が眉を上げ、戸惑ったように笑った。蓮が冗談を口にするのは、珍しかったからだ。
 
 「いつも蓮君の横で描いてた。ほら、おかっぱ頭の女の子だよ。君が初めてここに来た時も隣で描いていたじゃないか」
 「大人をからかうんじゃない」湯浅は、たしなめるように両手を腰にあてた。
 
 「…誰だっけ?」
 無表情の蓮が、冷ややかな声で言った。
 
 「そんなことより、先生ここを見てよ!この木と空の感じ、いいと思わない。いつもは青と緑を混ぜて、横からの線を強調するんだけど、これは…」
 
 絵の出来を得意げに語る蓮を前に、湯浅は閉口した。
 蓮は本当にりせのことを忘れている。いや、忘れているのではない。最初から、記憶していなかった。
 
 ここに絵を描きに来ている蓮にとって、周囲の生徒は不要な存在だ。誰が上手いか下手か、名前、上級生か下級生か、男の子か女の子か。絵を描くことしか眼中にない蓮には、どうでもいいことだった。
 
 キャンバスをひっくり返し、身振り手振りでその絵の魅力を、早口でまくし立てる蓮は、純真無垢な獣だった。自らに備わった牙や爪の鋭さが分からず、闇雲に振り回し、周囲の相手を傷つける。
 だが本人は、相手を傷つけていることに気がつかない。純粋であればあるほど、罪が深い。
 
 半年後、この絵は『全国小学生絵画コンクール』で金賞に選ばれた。

(vol.5へつづく)


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