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小説「天上の絵画」Vol.3

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3 二〇二一年 渡井蓮 二十三歳


 コンビニの駐車場に、一台のパトカーが止まっていた。見慣れない光景に蓮は、妙な違和感を覚え、弱い胸騒ぎを感じた。
 店内に入ると、警官と話している店長と、真っ先に目が合った。
 
 「あっ。彼がそうです!」厳めしい表情の警官が、こちらを振り返った。警官の鋭い眼光に射すくめられ、蓮は表情を固くした。
 
 「渡井さんですか?」近寄ってきた警官が凄むように問いかけた。
 「そう…ですけど」背中を嫌な汗が伝う。
 
 丸顔で目が細く、年齢は三十代後半くらいだろうか。顎や頬には贅肉が目立ち、下っ腹も出ている。制帽の隙間からのぞく額には、薄っすら汗がにじんでいた。
 「橋田署の上田です」そう言って、警察手帳を広げた。「数日前、トラックの運転手に酒類を販売しましたよね。覚えてますか?」
 「えっ!」喉から心臓が飛び出しそうになった。
 「NK運送の諸角という五十代の男性運転手に、三五〇㎖の缶ビールを一本売りましたね。間違いないですか?」
 
 「いや、あの…それって―」しどろもどろになった蓮は、口がうまく回らなかった。
 「渡井君!」警官の背中越しに店長が、責め立てるように語気を強めた。「防犯カメラに君がその運転手に缶ビール販売している姿が、ちゃんと映っていたんだ。及原君にも確認したら、間違いないと言っていたよ」
 
 「いや、だから…それは―」
 「売ったことに間違いないね」警官がさらに距離を詰めてきた。恐怖と圧迫感に気圧され、蓮はゴクリと唾を飲み込んだ。
 「…はい」反論したいことが、いくつも頭に浮かんだが、唾と共に腹の奥に、虚しく沈んでいった。警官が振り返ると、店長が申し訳なさそうに頭を下げた。
 
 法律違反であることは、理解していたが、まさか警官が店にまで来るとは思ってもみなかった。及原慎吾の時は、本部社員が事実調査にやってきたが、警官は来なかったはずだ。短期間で二回も同じ不祥事が発生し、それを重く見た本部が警察に通報したのだろうか。
 
 蓮が目を泳がしていると、警官が口を開いた。
 「実は、運転手の上田がここで酒を買った後、交通事故を起こしてね。幸いケガ人はいなかったが、立派な酒気帯び運転だ。上田の証言では、このコンビニの店員が、缶ビールを売ってくれたというんだ。渡井君もわかっていると思うが、運転手に酒を飲ませたり、販売した側も罪に問われる」
 矢のように鋭い不安感に襲われ、胸が締めつけられる。駐車場から走り去るトラックが、瞳の奥で蘇った。想像を絶する不幸な出来事に、自らを呪った。
 昔からこうだ。思い寄らないところから、足元をすくわれる。ほくそ笑む男子生徒の姿が、頭の片隅でちらついた。
 「ただし、販売した側は、人ではなく店側が罪に問われるんだ。だから渡井君が直接罪に問われることはないが、後日警察署まで来て、事情聴取をさせてもらうよ。いいね」
 
 警官は店長と、一言二言会話を交わすと、店を出て行った。
 
 「なんてことをしてくれたんだ!あれほど言っただろう。運転手に酒は販売しちゃダメだって。聞いてなかったの!?」
 眼鏡を外し、デスクに突っ伏した店長は、悲痛な声を漏らした。
 「すみませんでした。でも、あの時は―」
 「聞いたよ」店長が目頭を抑えながら、蓮の言葉を遮った。「及原君から、詳しい事情を聞いた。その諸角という運転手、かなりめんどくさい客だったんだろう」

 「そうなんです」幼い安堵感を感じた。「横柄というか、とても高圧的な態度で、断りきれなかったんです。だから、仕方なく―」
 「防犯カメラの映像からも、その様子は伝わって来たよ。でもね―」店長が顔を曇らせた。「及原君は、きっぱり断ったんだろう。かなり詰められていたが、毅然とした態度で、対応していたじゃないか」
 
 「それは―」及原は、前回のことがあって、二度と同じ過ちが繰り返さないと、意気込んでいたからだ。蓮も及原と同じ立場だったら、毅然と断っていたはずだ。
 「それにしては渡井君…。君はやけにあっさり缶ビールを、レジに打ち込んだね」店長が訝るような目つきで、蓮を見返した。
 
 「だからそれは、高圧的な態度で来られたからで。これ以上拒んだら、何をされるかわからない。身の危険を感じました」
 「及原君は、そんなこと言っていなかったよ。めんどくさい客だったが、身の危険を感じるほどではなかった。ちゃんと話せば理解してもらえたはずだ。彼はそう言っていたよ」
 
 言葉を失った。
 
 「渡井君は、知らなかったと思うが、前回の及原君の件は、本部の指示で警察には届けていないんだ。別に被害があったわけじゃないし、隠し通せると判断したんだろうね。だが今回の件で、隠し通せなくなった。本部の連中は、怒り狂ってるよ。さっきの警官が言っていたが、後日本部の担当者が、事情聴取されるそうだ。そうなったら、ネットニュースに取り上げられ、下手したら今話題の炎上騒動にまで発展する。この店だって、ただじゃすまない。最悪の場合、契約打ち切りで廃業だ。還暦目前でようやく手に入れた店なのに、こんなことになるなんて―。二十代の渡井君に、こんなことは言いたくないが…君に責任が取れるのか!」
 
 薄暗い事務所の空気が、ズンと音を立てて重くなった。蓮は慄然として、口をポカンと開けたまま、棒立ちになった。
 及原の件は知らなかった。いや、知っていたところで、今回のことを防げたとも思えない。しかし、本部が誤った判断を下したことと、蓮の今回の過ちは全く関係がない。まるで本部のミスまで、蓮に押し付けられているようで、納得がいかなかった。
 
 「今日はもう帰ってくれ。悪いけど、明日からも来なくていいから」
 
 店長は冷めた口調で、淡々と告げた。蓮は顔面を殴られたような衝撃を受けた。
 「今月働いてくれた分の給料はちゃんと払う」椅子の背もたれにもたれかかり、項垂れると片手で額を支えた。「本部とかけあってみるが、懲戒解雇は免れないと思ってくれ。まだ若い君に申し訳ないが、自業自得だと諦めてもらうしかない」
 「ふざけるな!」と蓮は大声で叫びたかった。だが、喉が締め付けられ、うまく声が出ない。責任を取らされるのは仕方ないと腹をくくっていたが、まさか懲戒解雇されるとは、予想していなかった。及原は減給で許されたのに、なぜ自分がここまで重い罰を受けなければいけないのか理解できない。
 蓮の沈黙を同意と判断したのか店長は「短い間だったけど、お疲れ様」と疲れ切った表情で、事務所を出て行った。
 
 追い出されるように店を出た蓮は、電信柱の影に身をひそめた。このまま自宅におめおめと帰る気分には、到底なれなかった。
 時刻は深夜一時前。そろそろ出勤してくる頃だ。蓮が周囲を窺うと、一台の自転車が、こちらに向かって走ってくるのが、目に入った。有名球団のロゴマークが入ったキャップをかぶり、耳にイヤホンを差したまま、コンビニの裏手に自転車を止めた。入口の方へ駆けだしたその人物の前に、立ちふさがった。
 「えっ」及原慎吾は眉をひそめ、イヤホンを外した。「あれ?渡井さん?」
 グツグツと煮えたぎる感情を押さえ込むために、下唇をギュッと噛みしめた。
 「どうしたんっすか?今日シフト、入ってますよね」及原が首を傾げた。
 「クビになった…」
 「ハッ?」
 「ついさっきクビになったんだよ。この前運転手に酒を売った責任を取らされて―」
 「マジっすか!?」
 及原が目を丸くした。どうやら本当に知らなかったようだ。
 「うわぁーそれきついっスね。まあ元気出してください。バイトなんて探せばいくらでもありますから。じゃあ世話になりました」キャップを被ったまま、軽く頭を下げ、蓮の横を通り過ぎようとする。
 「どうして、店長にあんなことを言ったんだ」
 「何のことっすか?」白々しい態度で、肩をすくめた。
 「とぼけるな!約束したじゃないか。庇ってくれるって。僕が不利になるようなことは、店長に話さないって!」
 「オレちゃんと話しましたよ」
 「ウソつくな!店長にあの運転手は、そこまでの危険はなかった。ちゃんと話せばわかってくれたはずだと、言ったじゃないか」
 「だってそうだったじゃないですか」一ミリも悪びれる様子もなく、及原がヘラヘラと答えた。「オレは正直に話しただけっスよ。酔ってるわけじゃなかったし、わかってくれたと思いますって」
 
 「いや、だからそうじゃなくて―」蓮が憤った。「金を渡しただろ!」口止め料として一万円を渡した。
 「金ってなんのことですか?」とぼける及原に、ますます腹が立った。全身の血液が逆流し、頭の後ろがカァッと熱くなった。
 「ふざけるな!」そう言って詰め寄ったが、一人っ子で子供の頃から喧嘩慣れしていない蓮は、とっさにどうすればいいのかわからなくなった。
 「あっ」及原が鋭い眼光で睨んだ。膨れ上がった感情の高ぶりが、急速にしぼんでいく。行き場を無くした怒りは、自らを痛めつける。惨めで臆病な自分自身に嫌悪感を抱いた。昔からそうだった。あと一歩というところで、気持ちが前に出ない。蓮にできるのは、無言で後ずさることしか残されていなかった。たじろいだ蓮を見て、及原が鼻で笑った。
 「じゃっお疲れっした」声色に侮辱と嘲笑を織り交ぜ、唾を吐くように言い捨てた。
 及原の弾むような足音を、背中で感じながら、蓮はその場を逃げるように離れた。地面を踏むたびに、恥辱と悔恨が足元からせりあがってくる。視界が何重にも重なって見えた。
 運転手に酒類を販売する行為が違法であることは、及原の件で身にしみてわかっていた。だが、あの時は拒むことができなかった。正確には、拒もうとしなかった。
 
 威圧的な男の態度に、恐怖を感じていなかったといえば、嘘になるが、蓮は本心で、大したことではないと甘く考えていた。缶ビール一本くらいなら問題ない。例えバレたとしても、叱責され一カ月間の減給ほどで済むだけだ。及原に口止め料を要求されたのは、予想外だったし腹が立ったが、これで口裏を合わせてくれるなら、安いものだ。
 
 そんな甘い考えの結果がこれだ。
 
 酒に酔った男は事故を起こし、及原にはまんまと裏切られ、追い出されるように冷たく解雇された。あのコンビニでの仕事に、強い思い入れがあったわけじゃない。及原の言う通り、アルバイトならすぐに見つけることができる。

 しかしこの理不尽な仕打ちには、納得がいかない。
 
 確かに蓮にも落ち度はある。それは認める。だが何も解雇までしなくても、よかったのではないか。警察の捜査が入ったせいで、前回の隠蔽工作が明るみになり、本部は管理責任問題に追われているのだろう。しかしそれは、本部と店長が勝手にやったことで、蓮には関係がない。蓮に責任の全てを押し付けて、被害者面するつもりなのか。そんな横暴が許されていいのか。
 
 店長もつまらない良心を、アピールしたかったのか「本部にかけあった」とやたらと強調してきたが、蓮にとってはどうでもいいことだ。所詮は雇われオーナー、本部の犬。本部に待てと命令されたら、尻尾を振って、喜んで迎合する。働き始めた当初から、頼りないと感じていたが、ここまでクズだとは思っていなかった。
 
 店長以上のクズが、及原だ。口から出まかせを言い、協力するふりをしながら、肝心なところで、手のひらを返した。しかも金はもらっていないと、平気な顔で言ってのけたを言う。性根が完全に腐っている。いったいどんな環境で育ったら、あそこまで極悪人間が出来上がるのか。最後に見せた侮辱的な表情を、蓮は死ぬまで忘れないだろう。
 
 そして極めつけはあのドライバーだ。あれだけ酔ったりしないと、大口を叩いておきながら、結局は事故を起こした。しかもご丁寧に警察で、あのコンビニで買ったと正直に証言している。ちょっと考えれば、自分の証言でどれだけの人に迷惑がかかるのかわかったはずだ。

 コンビニで買ったと正直に打ち上けるにしても、従業員を半ば脅して無理矢理売らせたと、話しても良かったはずだ。その気遣い一つで、蓮は解雇されなかったかもしれない。
 
 考えれば考えるほど、憤りで頭の中がじわじわと熱を怯えていく。沸点を越えた熱量が、身体中の毛穴から、外に向かって放出された。蓮は電信柱に立てかけられていた『痴漢に注意』と書かれた看板を力任せに蹴りつけた。

 甲高い金属音が辺りに響きわたる。

 看板の脇から黒い影が突然飛び出してきた。驚いた蓮は、ビクンと肩を震わせた。黒い影は薄暗い路上を進み、電灯の下で動きを止めた。よく見ると、黒猫が尻尾を大きく上下に振りながら、こちらを振り返る。安堵した蓮は、息を吐いた。その時黒猫と視線がぶつかった。黒猫は憐れむような眼差しで、蓮を見つめている。その眼差しに見覚えがあった。
 
 色とりどりの布切れが、教室の床に散らばっている。赤や黄色の原色だけではない。絶妙な配合バランスで作られた繊細な色使いが、高い芸術性と秘められた才能を醸し出している。布切れを拾いあげ、裁断面に指を這わせると、スベスベとしていて、凹凸を感じなかった。鋭い刃物のようなもので、切り刻まれたようだ。黒々とした怒りと失望が、蓮を包んだ。目を上げると、周囲を取り囲んだ部員達の姿が目に入った。皆憐れみと悲哀に満ちた眼差しを向けてくる。だがその中に、目の奥に憤怒と蔑みを、口元には嘲笑を浮かべている者達がいた。

 彼らは、さっと視線を交わすと、無言で教室から出て行った。
 
 蓮が我に返ると、黒猫の姿が目の前から消えていた。孤独が蓮の心を蝕んでいく。
 
 へこんだ看板が夜風に吹かれ、カタカタと揺れていた。

(vol.4へ続く)


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