【蹴上インクライン・琵琶湖疏水】近代京都の救世主?なぜ蹴上インクラインは作られたのか?
琵琶湖疏水って聞いたことありますか。琵琶湖の湖水を京都市へ流すため、明治時代に作られた水路で、国の史跡に指定されています。
疏水沿いには春は桜、秋は紅葉の名所があり、びわ湖疏水船に乗って四季を楽しむこともできます。
特に、蹴上インクラインはきっとご存知の方も多いのではないでしょうか。桜の季節には、観光客や写真を撮る人が昼夜を問わず訪れる人気のスポットですよね。
実は、蹴上インクライン及び琵琶湖疏水がなければ、今の京都がなかったかもしれない……というほど、大きな影響を与えた存在なのです。
今回は、蹴上インクラインと琵琶湖疏水のお話をしていこうと思います。
琵琶湖疏水事業、経緯
そもそも琵琶湖疏水はなぜ作られたのでしょうか。
京都にとって琵琶湖からの水を引くことは長年の夢でした。古くは豊臣秀吉も計画したとか。しかし、滋賀と京都の間には山がいくつもあります。それらを通る長いトンネルを掘らねばならず、あまりの難事業にずっと実現しませんでした。
明治時代にようやく実現するわけです。とはいえ、明治時代においても、困難な大事業であったことに変わりはありません。ただ、明治時代の京都にはどうしてもこの琵琶湖疏水事業を実現しなければならない事情があったのです。
江戸時代まで天皇は京都にいらっしゃいました。ゆえに、1200年以上京都は都であり続けたのです。ところが、時代が明治に移る維新の中で、京都は戦火に焼かれました。さらに、天皇が東京へ。事実上の遷都が行われ、京都の人口は激減しました。
このままでは、京都は廃れてしまう。
危機感に駆られた第3代京都府知事北垣国道は、打開策として琵琶湖疏水事業を断行しました。とはいえ、北垣国道はあくまでも官僚。疏水の設計ができるわけではありません。しかし、奇しくも一人の青年が「琵琶湖疏水工事の計画」という論文を完成させていました。その青年こそ、琵琶湖疏水事業の設計主任となる田邉朔郎です。任に就いた当時の田邉は弱冠21歳。若き才能が京都を救うことになるのです。
琵琶湖疏水事業、難航
さて、琵琶湖疏水事業における難所はトンネルだけではありませんでした。蹴上の辺りの高低差が大きく、そのままでは船の運行ができなかったのです。
そこで、勾配のある水路にレールを敷き、これにのせた台車に船を載せ、ケーブルカーのようにケーブルで引っ張り上下させるインクライン方式で、船を通行させる案が進められました。ただし、インクライン方式を採用するには電力が必要です。当初は、疏水を利用した水車発電で電力を供給する計画でした。
しかし、工事の途中、田邉朔郎は、実業家の高木文平とともにアメリカへ視察に赴きました。その際、2人は水車発電が地形的に困難であることに気づくのです。一方、コロラド州アスペンの水力発電を視察する中で、大きなひらめきを得ました。帰国後、田邉朔郎は工事の途中にも関わらず、水力発電の実用化に踏み切ったのです。明治24(1891)年に蹴上で日本最初の一般供給用水力発電所が稼働しました。
水力発電によって得た電力は、水車発電で想定されていた以上でした。そのため、インクライン以外にも使用され、京都の中小工場の機械化が大いに進んだほか、日本初となる電気鉄道の営業も実現しました。田邉の判断が京都の近代化に大きく貢献したのです。
琵琶湖疏水事業、余波
さらに、水車発電で使用される予定だった疏水にも余裕がありました。ゆえに、小川治兵衛らが積極的に疎水を取り入れた庭園を作りました。山縣有朋の別荘である無鄰菴や円山公園の庭園はこの時に作庭されました。
また、サスペンスドラマでお馴染みの南禅寺水路閣も琵琶湖疏水事業の最中、田邉朔郎の設計で作られました。今では京都を代表する観光地のひとつです。
このように、明治時代激動の京都で施行された琵琶湖疏水事業は、当初の期待通りの水運はもちろん、電力がさらなる発展を促し、現代では観光地として、京都に貢献し続けています。
まとめ
もし、琵琶湖疏水が行われていなかったら?ひょっとすると、そのまま廃れてしまい、今の京都は別の姿をしていたかもしれません。
そんな影の立役者、琵琶湖疏水及び蹴上インクラインにぜひ足を運んでみてください。今までとは違った景色が見えるかもしれませんよ。
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