『ハーレムの熱い日々』を読んで

『ハーレムと熱い日々』は、筆者である一人のフォトジャーナリストがアメリカで送った日々のことを書き綴った本である。
内容にもカメラや写真は深く関係する。
ジャンルは違っても写真を撮る者なら読んでおいてもいいんじゃないかと、友人が薦めてくれた。
おそらく彼は読んではいない。
しかし、彼の本に対する審美眼は非常に頼りになるので、迷わず購入した。

この本のページの多くはアメリカに住む黒人の意識や考えの変化に割かれている。
恥ずかしながら、私は黒人の差別問題に対する知識に乏しく、初めて知るようなことがたくさんあった。
そして、この本は単なる知識に留まらない。
読むことで筆者の感情を追体験したような感覚だった。
それがとても新鮮で、自分が如何に人種差別を表面的にしか認識していないかを思い知った。
この本はそういう意味でも大変興味深い本であった。

しかし、私はこの本を読むときに、「写真を撮るとは何かを考える」という目的を持っていた。
そして、この本は筆者の撮影理念が記されている。

写真というものは、被写体を美しいと思わなければ、あるいは愛さなければ写すべきではない。

『ハーレムの熱い日々』

この本においては、筆者の主だる被写体は黒人であり、彼彼女らの美しさについて、その複雑さも含め言及された本であるから、より深く刺さる言葉だ。
しかし、その精神には今の自分であっても深く共感できるものだ。

この本で描かれる時代と今は写真を取り巻く環境に大きな変化がある。
本の中の時代には、写真を撮るとは特別なことである。
その存在が知られつつも、少なくともカメラを持っている人にしか写真は撮れない。
さらに、カメラは高価で限られた人しか持っていない。
撮ることそのものに価値があるような時代だ。

今や誰もが撮る。
手の中の、スマートフォンで。
カメラを持っているのは今でも限られた人だが、写真を撮る人はずっと多くなった。
フィルムでもないから撮ることのハードルが低い。
美しいと思っていなくても愛していなくても撮られる写真がとても増えただろうと思う。

一方で、誰でも撮れるからこそ、自分が撮る意味を考えなくてはならない時代だ。
なぜこの写真を撮るのか。
そう思っていた。
いや、今でも思っているが、この本を読んで「時代」の問題じゃないのではと考えるようになった。

なぜ写真を撮るのか。
それは最近になって出てきた疑問でもなく、カメラというものができて、それを扱う人が現れたときからずっとある問いなのではないか。
そして、その答えの素朴な、心からの答えは、「被写体が美しいから」「被写体を愛しているから」なのではないか。
そんなことを考えた読書体験であった。

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