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【短編小説】青葉の叔父さん


 青葉の叔父さんは三十九歳だが、独身だった。オートバイを三台、ギターを十二本持っていた。
 叔父さんが住んでいるのは、青葉と母親が暮らしている二階の部屋から廊下を間にはさんだ北向きの六畳間で、いつも足の踏み場もないくらい散らかっていた。青葉がまだ小さかった頃、母親にこっぴどく叱られた夜には叔父さんの大きなベッドの中に潜り込んで一晩やり過ごすこともあったが、十四歳の今、もうそんなことはなかった。でも青葉は今でも叔父さんのことが大好きだった。
 そもそも青葉たちが暮らしている家は青葉のおばあさんの家であって、叔父さんは小学生の時に与えられた子供部屋から一度も出たことがないだけだった。青葉の父親が死んだ時、青葉はまだ赤ん坊だった。当然、まったく覚えていない。急性白血病という病気で、入院から二週間もしないうちに息を引き取ってしまった。その頃は都心のマンションに暮らしていたのだが、半年もすると母親一人の稼ぎでは家賃の支払いが大変になり、今のおばあさんの家に移ってきた。青葉はこの家で母親とおばあさんと叔父さんに囲まれて育った。青葉にとっての叔父さんはほとんど父親のようなものだった。青葉が小さかった頃は、大好きな叔父さんがどうして自分の父親でないのかが一番の謎だった。青葉のことを厳しく躾けようとする母親やおばあさんに比べたら叔父さんはいつもやさしく、叱られたことなどほとんどなかったから、叔父さんにパパになってほしいと駄々をこねるのも度々だった。さすがに母親もおばあさんもそんな泣きじゃくる青葉にかける言葉もなかったが、叔父さんだけは別で、青葉のことを抱えあげてぎゅっと抱きしめると、ごめんごめんよ青葉とやさしく声をかけて頭を撫でた。そしていつもこんなことを言うのだった。でもな青葉、本当のパパじゃなくてもお前が誰よりも大切なのは変わらないんだぞ、と。
 青葉も小学生になり、そして何年かたつとそんな事実を受け入れることが出来るようになった。叔父さんは確かに本当の父親ではなかったが、同じような存在だった。青葉に服やおもちゃを買ってくれたし、勉強も教えてくれた。学校の父親参観日には仕事を休んで必ず来てくれたし、晩ご飯のあとに叔父さんの肩に寄りかかりながらソファーに座ってテレビを見るのは毎晩のことだった。テレビゲームの対戦相手でもあった。青葉は自分の生活に何か欠けているものがあるとはほとんど考えることがなかった。会ったこともない父親の写真は母親の化粧台の上に飾ってあったから毎日のように眺めていたが、それでもやはり知らない人だった。青葉が七歳の時だった。一家で車に乗り、遠くまで出かけたことがあった。母親もおばあさんも黒い服を着ていた。朝早く家を出て高速道路をずっと走り、夕方頃にある家に着いた。青葉は昔来たことがあるような気がしたが、よく思い出せなかった。そこは死んだ青葉の父親の実家だった。翌日に七回忌の法要が予定されていた。
 あまりにも長い時間、車の座席に座っていたから、青葉は気分が悪かった。家から出てきた二人のお年寄りと母親たちがぺこぺこ何度も頭を下げ合っているのをぼんやり眺めていた。おばあさんが青葉の手をとって車から引っ張り出し、ほら、挨拶しなさい、ときつい口調で言った。お前のおじいさんとおばあさんだよ。
 さすがに青葉もその時には二人が死んだ父親のお父さんとお母さんなんだな、ということは理解できたが、気分が最悪だった。青葉は深く頭を下げ、
「こんにちは、青葉です」
 と言ったが、そのまま頭を上げることができずに地面に倒れてしまった。
 翌日、気分はいくらか回復していたが、青葉にとって楽しい催しではなかった。見慣れない大勢の大人たちが皆、揃って黒い服を着て集まっていた。青葉自身も黒い服を着せられていた。お坊さんの長い長いお経を聞かされている間、青葉は何一つ楽しくなかったし、早く家に帰りたかった。隣に座っている叔父さんの服を引っ張り何度も「ねえ、帰ろうよ」と言った。いつもはやさしい叔父さんだったが、その時はなぜかきびしい顔で青葉を睨みつけた。そして、駄目だよ、まだ帰れないよ、今日だけはじっと静かにしていなさい、と言った。青葉は少し拗ね「わあー!」と大きな声を張り上げた。すると叔父さんの手が青葉の口を塞ぎ、反対にいた母親に頭を強くひっぱたかれた。
 お坊さんの長いお経が終わると、外に出てお墓の回りに皆が集まった。そして昨日会ったもう一人のおばあさんが青葉を墓石の前に連れていった。おばあさんは涙をこぼしていた。ハンカチで目のまわりを拭いながら、青葉ちゃん、大きくなった姿をダイスケに見せてあげてね、と言ってさらに泣いていたので、青葉もしゅんとしてしまった。叔父さんが横に来て、青葉も写真でいつも見ているだろ、お父さんがここで眠っているんだよ、と言ったので、青葉は言葉の通りのことを想像してしまった。
「でも、起きないんだよね」と青葉は言った。青葉の隣ではお坊さんがまだお経を唱えながら鈴をちりんちりんと鳴らしていた。
 お寺を出て家に戻り、大きな部屋で大勢でお昼ご飯を食べていた時だった。おじいさんが青葉のところに来て、お父さんのビデオがあるんだけど見るかい? 青葉ちゃんはみたことがなかったろう、と聞いてきた。
 横にいた叔父さんが、え? あったんですか、と言った。そして青葉を覗き込み、嫌じゃなかったら見せてもらおうか、と言った。
「別にいやじゃないよ」と青葉は言った。
 おじいさんはビデオカメラを持ってきてテレビに繋げた。そしてまわりに集まった皆にこれはたまたま残っていたものなんだよ、と説明した。
 テレビに映ったのは紅く染まった山の風景だったが、そんな映像がいきなり切れて家の中にいる女の人が映った。それがまだ若い母親なんだと判ったのはしばらくしてからだった。小さな赤ん坊を抱きかかえていた。ほら、あれが青葉だ、と叔父さんが言った。
 とはいえ、テレビの中の赤ん坊を見てそれが自分だと判るわけはないから青葉は「へえ」としか言えなかった。どうやら映っているのはこの家らしかった。家具や壁にかかった絵が同じだった。そして家の奥から若い男が現れ、カメラのすぐ前に来た。青葉は心の中で、あ、写真の人だ、と思った。
 青葉は変な気分だった。父親の顔は知っている。とはいえじっと動かない、少し微笑んでいるだけの男の人としか考えたことがなかったから、表情や腕の動きなどの一つ一つが生々しかった。母親から赤ん坊を受け取り、胸の前で抱いて、ほーらいい子だいい子だ、と言いつつにこやかに笑っていた。ほんの二、三分のビデオだったが、それが青葉が動いている父親を見て声を聞いた初めての体験だった。ビデオが終わると母親がありがとうございます、と少し涙ぐみながら言っていた。青葉の赤ん坊のビデオならたくさんあるんですけど、あの人はいつも自分で撮る側だから映ってなかったんです。
 その映像はダビングしてもらったから青葉は自分で見ようと思えばいつでも見れる。しかしその日以降、数えるほどしか目にしていない。別に嫌いになったわけではない。悲しくなったりもしない。何の感情もわいてこなかった。確かに父親は何もしてくれなかったが、それは病気が原因で誰も悪くないわけだから怒りの気持ちもない。それよりも青葉は小さな頃からずっと一緒にいる叔父さんのことを代用の父親として見てきたから、ほんの数分のビデオだけではその地位が入れ替わることはなかった。
 青葉は叔父さんに多くの影響を受けた。叔父さんの本棚のマンガは小学生のうちにほとんど読んだし、昔のイギリスのロックバンドも好きになった。叔父さんが趣味で弾いているエレキギターの音は青葉の心をぞくぞくさせたし、休みの日に家の横のガレージでオートバイを分解したり、組み立てている叔父さんの姿を見るのも好きだった。そして叔父さんのオートバイの後ろに乗ってツーリングにいくのも大好きだった。
 オートバイに乗りたい、後ろに乗せてほしい、と青葉がなんど頼んでもその望みは叶えられなかった。叔父さんは決して拒んではいなかった。むしろ青葉を積極的にツーリングに連れ出そうとしていたのだが、おばあさんに厳しく禁じられていたのだ。というよりもおばあさんは叔父さんがオートバイに乗っている事自体も好きではないみたいだった。あんな危ないものすぐ死んじゃうじゃない、絶対に駄目、といつも言っていた。だから初めて乗せてもらった九歳の日の出来事は母親にもおばあさんにも内緒の二人だけの秘密だった。ある日曜日に母親とおばあさんはお芝居を見にいくとかで早い時間に家を出ていた。叔父さんは夜勤明けでお昼になってもまだ起きてこなかった。青葉は用意してあった昼食のサンドイッチを食べると近所の友達の家に遊びに行った。前日のうちに明日も一緒に遊ぼう、と約束していたからだった。しかし青葉がその同級生の家に着き、玄関のベルを鳴らしても返事はなかった。何度も何度も鳴らしたが、同じだった。青葉はドアを蹴っ飛ばし「もう遊ばないんだから」と叫ぶと家に帰った。
 歩いて五分ほどの道を戻ると、叔父さんがパジャマ姿で居間にいた。新聞を広げ、あくびを繰り返していた。青葉は何も言わずにテレビの前に座った。叔父さんはコーヒーを入れながら青葉に出かけたんじゃないかい? と聞いてきた。昨日、明日も遊ぶって言ってたけど。
「いいの、遊ばないから」と青葉は言った。「別にそうしたかったわけでもないから、いいの」
 それを聞いて叔父さんは、そうかそうなのか、と言った。叔父さんはしばらく黙ってパンを食べていたが、テレビを見ている青葉にじゃあ叔父さんと出かけようか、と楽しそうな声で言った。今日、おばあさんも姉ちゃんも夕方にならないと帰ってこないから叔父さんと二人で出かけよう、バイクで走りにいこう。
「え?」と青葉は振り返った。「いいの?」
 いいよいいよ、黙ってれば判りゃしないからな。青葉は前から乗りたがってたろ。でもこれは二人だけの秘密だぞ。
「うん、秘密にする。ぜったいぜったい秘密にする」
 まず二人は車で出かけ、オートバイ用品を売っているお店に行き、青葉の頭のサイズに合うヘルメットとゴーグルを買った。お店には黒い革の服を着た男の人がたくさんいた。大通りに面した駐車場にはエンジンの音を響かせたオートバイが何台もひっきりなしに出入りしていた。二人は大急ぎで家に戻った。叔父さんは、お店で見た人が着ていたような黒い革の上着を身にまとい、青葉にはまだ秋口なのに冬用のジャンパーを着せた。そしてガレージの奥にある叔父さんの三台のオートバイの中で一番大きなアメリカ製のオートバイを引っ張り出してきて跨った。青葉も続いてよじ登るようにして後ろのシートに跨ると、叔父さんはエンジンを始動させた。どろろろ、と雷のような音が響いた。
 オートバイの音を聞くだけなら何度も聞いている。やかましくて耳を塞ぎたくなるくらいの大音量なのは知っていた。しかし青葉はその日初めてその音を体感した。両脚の間から身体に伝わってきた振動が一気に頭まで届いたショックも強烈だったから思わず「うきゃー!」と声を上げてしまった。「何これ、すごーい!」
 叔父さんが振り返って、驚いたのか、止めとくかい? と聞いた。
「そんなことないよ、平気だよ」と青葉は言い返した。「ちょっとびっくりしただけ」
 最初だからそんなに飛ばしたりしないからな、ゆっくり行くぞ、と叔父さんは言った。青葉の両手を自分の前に持っていき、革の上着の裾を握らせた。ようし、しっかり掴まっていろよ。
 叔父さんはオートバイを発進させた。家のそばの細い道は本当に歩くような速さだった。子供が乗る自転車が追い越して行ったくらいだ。青葉は少し拍子抜けしてしまった。こんなもんなんだ、これなら家でテレビを見ていたほうがよかったかな、と考えた。しかし三車線ある国道に出て走り出すと、様子は全然違った。叔父さんがいきなりスピードを上げたので、青葉は振り落とされないように慌てて革の上着にしがみついた。一気に四、五台の車を追い越していた。
「うわーい!」と青葉は声を上げた。ゴーグル越しに流れていく景色は震えている。エンジンの音は耳をつんざくばかりで、どんな大声を出しても敵いそうもない。シートから伝わる振動もびっくりしたときや驚いたときの身震いと区別できない。抱きついている叔父さんの背中から少しヘルメットをずらして前を見ると、景色は飛ぶようなスピードで流れている。向かってくる風にほっぺたを叩かれる刺激も車に乗っている時には絶対にないものだから、青葉は楽しくて面白くて、自然と「わー」とか「きゃあー」という声が漏れてしまった。しばらく走って信号に停まると叔父さんは振り返った。
 大丈夫か、怖くないか、と聞いた。
「大丈夫だよ、全然平気」と青葉は言った。でも本当は少し怖かった。青葉は、でもちょっと……と言いかけたのだが、信号が青になり再び走り出していた。叔父さんのオートバイの後ろのシート、そこから見えるのは自分で自転車を走らせている時とも、車の助手席に座っている時ともまったく違う眺めだった。これがもし叔父さんにしがみついているのでなければ、ひどく不安な気分だったろう。実際、青葉はすぐ横を大きなトラックが追い越して行く時には思わず目を瞑ってしまったくらいだ。しかし前から何度も乗せてほしいと頼んでいたわけだから、弱虫だと思われたくもなかった。どのくらい時間がたったか判らなかったが、走りながら叔父さんが青葉の左脚の膝の辺りを叩いた。青葉が顔を上げると叔父さんが左手で横を指差していた。青葉もその方向を見た。すると並んで走っている車の中から、小さな子供が三人、二人のオートバイをじっと見つめ、さかんに手を振っているのが見えた。青葉も一瞬だけ手を離して振り返した。子供たちは歓声を上げ、さらに激しく手を振った。しかし叔父さんは速度を上げ、あっという間に抜き去って、子供たちの車を置き去りにした。
 初めての秘密のツーリングのその日、二人は海沿いの道路を走り、ちょっとした山道まで行った。行きは太陽が正面にあって眩しかったが、峠道の頂上で折り返し、家に向かって走っている時には寒くなった。青葉がそう言うと叔父さんはコンビニでオートバイを停め、新聞を買って青葉の身体に巻きつけた。変な感じだったし、みっともないと思ったが、その上からジャンパーを着たので見た目は変わらなかった。風も寒くなくなって、その頃にはスピードや振動にも馴れたので、青葉は気分がよかった。数時間前に嫌なことがあったなどすっかり忘れた。
 夕方少し前に二人は家の近くにまで戻ったが、直接には帰らずに少し離れた川の土手の上で停まった。叔父さんはオートバイのエンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。もしおばあさんたちが家に帰ってたら見つかっちゃうからな、ここで一度オートバイを隠しておこうか、と叔父さんは青葉のヘルメットを脱がしながら言った。二人は手を繋ぎ、歩いて家に向かった。
「面白かった、凄くよかった」と青葉は言った。「でもなんか、少し変な感じ。身体がまだ勝手に前に進んでいるみたい」
 叔父さんは嬉しそうな顔でそうかそうか、と言った。じゃあ、また今度お母さんたちには内緒で出かけような。
「うん、内緒でね」と青葉は言った。家に戻るとまだ留守だった。叔父さんはオートバイを引き取りにまた出かけて行った。しかし再び家に戻るまでの間に母親とおばあさんが帰ってきた。そして居間のテーブルの上に置いたままだった青葉のヘルメットが見つかり、二人の秘密はばれてしまった。
 青葉が五年生になった時にすごく仲良くなった二人の友達がいた。学校の日も、休みの日も誰かの家に集まってよく遊んでいた。ある日、気づいたのは三人とも母子家庭ということだった。しかし青葉以外の二人は両親が離婚したので母親と二人暮らしだが、父親がいないわけではなかった。一人などは父親とは月に何度も会ってお小遣いを貰っていた。本当にお父さんに会えないのは私だけなんだ、と考えてみたが、青葉は悲しくなったりはしなかった。ただ何も考えてないと思われたくもなかったので「やっぱり時々は寂しいかな」と言って自分を偽ることはあった。しかしある日、友達がこんなことを言った。その叔父さんは青葉ちゃんのことを自分の娘だと思ってるからずっと結婚しないんだね、と。
 青葉は今までそんなことを考えたこともなかった。それだとまるで私が叔父さんの足手まといみたいではないか。叔父さんは本当はほかの女の人を好きになって自分の家庭を築いたり、自分の子供が欲しいと考えているのに私の存在がそれを邪魔している。今まで、毎日接している叔父さんにそんな素振りはまったく感じられなかったが、それでも青葉は不安になった。ただ私が鈍感だけだったのかもしれない。しばらくの間、青葉の心をそんな暗い気持ちが満たした。ついに青葉の胸から溢れ出て叔父さんが夜勤に行って家にいない日の晩御飯の時に母親に聞いてみた。
 すると母親は多分、それはないんじゃないかな、とそっけなく答えた。
「でも叔父さんて時々、無理してるでしょ」と青葉は言った。
 おばあさんも考えすぎだよ、と慰めるように言った。
「私がいるせいで叔父さんが好きな人と結婚できなかったら悪い」と青葉は言った。しかし明日叔父さんが家を出て行くといっても青葉はとうてい受け入れられなかった。叔父さんにはずっと一緒にいてほしい、でも叔父さんに邪魔者だとも思われたくない。青葉は本当に泣きそうだった。
 あなたはもう忘れているだろうけど、と母親が言った。もう四年も前になるかなあ、あいつしばらく好きになった女の人と一緒に暮らしてすぐに帰ってきたことがあったんだよ、覚えてないだろうね。
「え?」と青葉は言った。「そんなことあったの?」
 ああ、あったね、とおばあさんも言った。一ヶ月くらい?
 ううん、ほんの三週間ぐらいよ、と母親は言った。あんたも確かその人と会っているはずよ、この家にも何度か来たし。でも、私はあんまりうまくいきそうな感じはしなかったけどね。あいつにお似合いって感じはしなかったよ。
 そうだね、とおばあさんも言った。別れたって聞いてほっとした。
 言われて青葉も記憶がよみがえってきた。叔父さんと叔父さんの友達という女の人と港まで船を見に行ったり、レストランでご飯を食べたことがあったのだ。顔はもうほとんど忘れている。長い髪をしていたのと、真っ赤な服を着ていたことぐらいしか覚えていない。あの人はそんな女性だったのか。
「じゃあ、もしかしてその時、私がその女の人に何か嫌なことを言ったりしたのかなあ」青葉は不安になった。「私が原因でうまくいかなかったのかな」
 はははは、と母親がいきなり笑った。そんなことないよ、ないって。
「そんなのわからないじゃない」青葉はむっとして言った。
 あなたがそんな余計なことを考える必要なんてこれっぽっちもないの、と母親は正面から青葉をまっすぐ見つめて厳しい口調で言った。あいつが今でも独身なのは別にあんたのせいなんかじゃないの。あいつ自身の問題。いい年をして高校生みたいに自分のやりたいことだけをやってるから結婚できないだけ、判った?
「そう、なのかな」
 そうよ、そうそう、とおばあさんも言った。本当、何のために大学まで行ったんだか。
 何だか判ったような判らないような、はぐらかされたような気分だったし、叔父さんに直接尋ねるわけにもいかない問題だから青葉はもう口をつぐむしかなかった。それでも母親が言っていた、やりたいことだけをやっているという叔父さんの日々の暮らしは思い当たることがあった。二ヶ月前に初めて叔父さんのバンドのライブを見に行っていたからだ。叔父さんは大学生の頃からずっとアマチュアのロックバンドでギタリストとして活動していた。青葉が小さな頃から叔父さんはエレキギターをよく弾いていた。普段はアンプを通さずにヘッドホンで自分にだけ聞こえるようにしていたから、青葉はパチパチと弦が弾ける小さな音しか聞いていない。たまに青葉がねだるとアンプに繋いでジャーンと大きな音を聞かせてくれたが、おばあさんが近所迷惑だから止めなさい、と怒るので本当にたまに青葉を喜ばせてくれるだけだった。その日、青葉は今まで何度も会っていた叔父さんの友人達、オートバイで一緒にツーリングに行ったり、河原でバーベキューをした時に会っていた人たちが、叔父さんと同じバンドのメンバーだったのを知った。土曜日の午後、ギターやアンプといった道具を積み込んだ車に同乗して、駅前の繁華街にあるライブハウスに連れて行ってもらったのだ。青葉は最初、自分が学校の合唱コンクールで出たような市民ホールの大きなステージに叔父さんが立つのかと思っていたが、違った。小さなビルの半地下になった一室だった。椅子は後ろの方に少しあるだけで、青葉はそこに座らされた。ステージとフロアは見下ろすような位置にあった。そこで叔父さんは黄色のスポンジの耳栓を青葉に渡してこう言った。もし音が大きすぎて頭が痛くなったりしたらこれを耳に詰めろ、いいな。
「ううん、大丈夫だよ」と青葉は言った。
 それとあまりにもうるさくて気分が悪くなった、自分で勝手に店の外に出てもいいからな、と叔父さんは言った。ケータイで母さんに電話すれば迎えに来てもらえるだろ、先に家に帰っててもいいからな。
「え? 大丈夫だと思うけど」青葉はなぜ叔父さんがそんなことを言うのか判らなかったが、一番手のバンドの演奏が始まり、少し理解した。叔父さんはまだ青葉の横にいて手を握っていた。それくらいのやかましさだった。ドラムの音は低く重く空気を震わせて青葉の皮膚を叩き、ギターがかき鳴らす音も髪の毛が逆立つような不安な気分にさせる。続けてマイクに向かって歌いだした金色の髪の毛の男の歌も、歌っているのだかただ苦痛にうめいているのだかもよく判らない。目の前のフロアには二、三十人の大人が踊るように身を揺すっている。叔父さんは何度も何度も青葉の顔を覗き込んでくる。青葉もその度に叔父さんを見返してにやっと笑顔を作ったが、何か言ったところで伝わりそうもないので黙っていた。三十分ほどで最初のバンドが終わると次にはエレキでないギターを抱えた二人組が出てきて歌いだした。さっきより少しは静かだったが、スピーカーが青葉のすぐ横にもあるのでやかましいのは同じだった。
 俺たちはこの次だ、と叔父さんは言った。
 ギターの二人組も三十分ぐらいの演奏で引っ込むと、叔父さんは青葉にじゃあ行ってくるから、と言った。で、どうする、ここにいるか?
「うん、大丈夫そうだよ」と青葉は言った。「ここで待ってる」
 叔父さんは青葉の言葉に微笑んで返すと、席を立ってどこかに行った。そして数分後には小さなステージの上に現れた。青葉は一体どれだけやかましいのかと身構えたが、一番目のバンドよりは少し大人しめだった。叔父さんが弾くギターもただ大きくかき鳴らすだけではなくて落ち着いたものだった。マイクの前で歌ったのは以前に何度も青葉を河原でのバーベキューに誘ってくれた叔父さんの友達の人だった。青葉も次第に椅子に座ったまま手を叩いたり、身体を揺すったりしはじめた。まったく同じではなかったが、叔父さんによく聞かせてもらったイギリスの昔のロックバンド風の音楽だったから、青葉も馴染みがあった。曲が終わる度に青葉は両手を前に伸ばして力一杯に手を叩いたが、フロアにいるお客たちの反応はそれほどでもなかった。青葉もどこか変な空気を感じていたが、それは客の多くが叔父さんの次のバンドを目当てに集まっていたからだと気づいた。叔父さんたちのバンドが終わり、次のバンドの演奏が始まると異様に盛り上がったのだ。青葉が気づくと叔父さんが隣に戻っていて、青葉の耳に口を押し当て、出るぞ、と怒鳴った。
 青葉が叔父さんに続いて店を出ると、外はもう薄暗かった。さっきまでステージにいたよく見る叔父さんの友人達が待っていた。店の前の歩道に集まって缶コーヒーを飲んだり、煙草をふかしたりしていた。どうだったい青葉ちゃん、とボーカルの人が話しかけてきた。初めてだったんだよね俺たちのライブ、格好良かったかい?
「うん凄くよかった」と青葉は言った。「凄くカッコよかった」
 集まっている中には青葉も初めて見かける若い女性も何人かいた。うわー、この子が青葉ちゃんなんですね、と中の一人がいきなり声を上げた。噂どおりかわいいですね、本当に自慢の姪っ子さんですね、そう言いながら叔父さんの腕や肩を叩いている女性を青葉はじっと見た。この人は叔父さんの奥さんになるかもしれない女性なんだろうかとしげしげ見てしまった。青葉も本当なら今見たステージの感想を叔父さんに伝えたかったのだが、叔父さんは若い女性たちに囲まれて楽しそうなので邪魔をしたくなかった。しかしそこへ叔父さんが人の間を縫って青葉のそばまで歩いてきた。
 迎えが来たぞ、と叔父さんは言った。俺はみんなでご飯を食べていくから、先に帰ってな。
 振り返ると背後の道路に母親が運転する車が停まっていた。青葉はもっと叔父さんと話したかったが、狭い道路に停まっている間にも後続のトラックにクラクションを鳴らされたので、慌てて乗り込むしかなかった。「先に帰ってるね」としか言えなかった。
 それ以降、青葉は叔父さんのバンドのライブは必ず見にいくことにした。半年の一度くらいの割合だったが、別のライブハウスで行われることもあれば、五十組くらいが順番に登場する大掛かりなコンテストで、市民ホールのステージに立つこともあった。青葉も叔父さんに少しだけギターの弾き方を習った。いくつかのコードを掻き鳴らすくらいは出来るようになったが、青葉の小さな手では難しかった。それでも中学生になってから吹奏楽部に入ってクラリネットを担当することになったのは、やはり叔父さんの影響だった。小学生の時には危険だからと禁止されていた泊まりがけのキャンプにも連れて行ってもらった。叔父さんの会社の同僚の人たち、十人近くのグループに混ぜてもらった。子供は青葉一人だったが、ライブの時に会っていた若い女性たちと一緒に料理を作ったり、同じテントで寝た。叔父さんの奥さんになるかもしれない、と疑ったこともある人たちだが、もちろん直接尋ねることは出来なかった。青葉は叔父さんは誰のことが好きなのかと怪しんで、叔父さんの視線の先をずっと追いかけていたが、結局なにも判らなかった。その日の夜、テントの中で寝袋を並べて寝ている時に女性の一人が、ねえ青葉ちゃんて好きな人いるの、と聞いてきた。
「え? 好きな人ですか? えっと、そうですね」
 学校に好きな人とかいないの? サッカー部の先輩とか憧れない?
「いえ、別にいないです」青葉は言った。本当にいなかったのだ。「学校の男の子って、なんかみんな、子供っぽくて」
 そうだよねえ、と女性は言った。あんなに素敵な叔父さんと一緒にいたら中学生なんてみんなガキにみえるよねえ。
「ステキ、ですか?」青葉は聞いた。もし叔父さんのことをけなされたら気分は悪くなっていただろう。怒りだしていたかもしれない。しかし、褒められるのも変な感じだった。叔父さんは青葉が小さかった頃と何一つ変わっていない。学校の友達がお父さんなんか大嫌い、と言ってるのも理解できなかったし、テレビの中のアイドルがいかに格好よくて素敵か、と熱く語り合っているのもよく判らない。叔父さんが本当の父親じゃなくて悲しくなることはもうなかったが、叔父さんが好きな人と結婚するからこの家を出て行くと言ったらやはりショックだったろう。しかし現実はもっと厳しかった。母親が再婚することになったので、青葉の方が家を出ていくことになったのだ。
 青葉が中学二年になってから行われた叔父さんのバンドのライブはそれまでと少し違っていた。会場はいつもの半地下のライブハウスだったが、出演したのは叔父さんのバンド一組だけだった。それも二時間近くずっとステージに立ち続けたし、フロアに集まった人たちも大盛上がりだった。そしてライブの後の打ち上げにも青葉は初めて連れて行ってもらった。もちろん青葉は大人たちがビールを飲み干しているのを横目にサラダやポテトフライを食べていただけだが、青葉にも少し変な雰囲気は感じられた。はじめのうちこそ皆で笑ったり、愉快で楽しいパーティーだったが、次第に勢いはなくなり静かになった。叔父さんが横に来て、今姉ちゃんに迎えにきてもらうように頼んだから、と言った。
「一人で帰れるよ」青葉は言ったが、叔父さんはいやもう頼んだから二、三十分で来るよ、と言った。
「うん、判った」と青葉は言った。
 打ち上げの会場は居酒屋の広い一室を借り切っていたから、大勢の大人たちが集まっていた。普段なら青葉ににこにこ話しかけてくるバンドのメンバーもなぜかつまらなそうな顔でさかんにビールを飲んでいた。青葉がトイレから戻ると母親がすでにやって来ていた。叔父さんのとなりに座ってお茶を飲みながらポテトサラダを食べていた。二人は何やら真剣な顔をしていた。叔父さんの友達のボーカルの人もすぐ隣にいて、三人で話し込んでいた。
 じゃあ、と母親が言っていた。本当に最後なんだ。
 うん、そうだね、と叔父さんが答えているのが青葉にも聞こえた。一区切りついたよ。そして叔父さんは青葉に気づき、よし、じゃあ帰ろうか、俺も今日はこれから夜勤だし、と言った。
 いつも一人で先に帰らされていた青葉だが、その日は母親の運転する車に叔父さんも一緒に乗り込んできた。家に向かっての道すがら、母親があのバンドは今日が最後だったんだよ、と言った。
「え? そうだったの?」青葉は言った。「なんで? どうしてなの?」
 うーん、と叔父さんは言い辛そうに口を開いた。なんでだろうなあ、やはりみんな色々とやらなくちゃならないことが増えたからだろうな。
「解散ってこと?」
 ははは、と母親が笑った。そんな格好いいものじゃないよ、プロでもないんだから。 青葉は叔父さんの事情など知る由もない。それどころかメンバー全員の考えもあるのだろう、とても踏み込める話ではなかった。しかしその翌朝に一人でエレキギターを弾いている叔父さんの姿を見て、青葉はなぜだかほっとした。バンドの活動はなくなるかもしれない、しかし叔父さんが変わったわけではないのだ。青葉は学校に行く支度を終えて部屋から出た所だったが、叔父さんは青葉が寝ている間に夜勤明けで帰って来たようだ。青葉は開いた襖のあいだから叔父さんがギターを弾く姿を眺めていた。叔父さんは気づき、手を止めて顔を上げ、やあ、おはよう、と言った。
「うん」と青葉は答えた。「行ってきます」
 その日、学校から戻ると珍しく母親がもう家に戻っていた。いつもは夕食前の七時くらいに帰宅するのがほとんどだからだ。ねえ、青葉、話があるからそこに座りなさいよ、と母親は言った。
「何? どうしたの?」青葉は制服のまま母親の前に座った。
 実はもう何ヶ月も前から決まっていたことだったんだけど、と母親は言った。母さんの会社が日本から撤退することになってね、つまり、失業してきたのよ、今日。
「急だね」と青葉は言った。
 あんたに心配かけてもしょうがないしね、黙ってたんだよ。
「じゃあ、転職するの? それとも……」
 実はこれと繋がる話でもあるんだけど、と母親は言い、テーブルの上に置いた両手の指を組んだり、せわしなく動かしたりした。母さん、再婚してもいい?
「え?」と言ったまま青葉は頭の中が真っ白になった。
 プロポーズをされたのは今から一年も前だ。当時は驚きはしたけど、あんまり本気にはなれなかった。でも相手は真面目でちゃんとした人だし、もちろん私に娘がいるのだって知っている。それを承知で結婚を申し込んでくれたんだ。それに私の仕事がなくなるのを知ったら、自分の会社で、そうその人は自分で会社を経営している人だからね、自分の会社を一緒に支えて欲しいって言われてね、ほら、わたしずっと経理の仕事をしていたからそのへんもちょうどいいみたいで。
「どんな人なの?」
 あなたも知っている人だよ、スズキさんだよ、と母親は言った。
 青葉の記憶の中で思い当たるのは叔父さんのバンドのボーカルの人だった。
 そうだよ、あんたもずっと前から知ってるし、いきなり知らない人ってわけでもないし。
「それはもう決まったの?」
 いや、あなたが嫌がるなら断ろうと思って。
「そうなんだ、私は別に……」
 すぐに返事をしなくてもいいよ、と母親は言った。
 青葉の中に怒りとか戸惑いとか、あるいは喜びといった特別の感情が湧いてくることはなかった。というより、心の中がまったく平坦になってしまったみたいで、その夜はずっとぼんやりしていた。おばあさんが夕食を食べながら、お母さんもあなたのことを考えているんだよ、と話しかけてきたが「うん、そうだね」としか答えられなかった。砂を噛むような思いで夕食をすませた。青葉は今の今まで、母親はもう再婚をしないものだと決めてかかっていた。自分に新しい父親が出来ることなど、夢にも考えたことがなかった。写真の中の本当の父親と、父親代わりの叔父さんがいたのだから欲しいと考えたこともなかったのだ。しかし母親はそうではないようだった。これからあなたも色々と入り用になってくるでしょうしね、そのためにもと思って、と二日後の夕飯の席で母親は言った。その日は叔父さんも同じテーブルにいた。
 そうだよなあ、と叔父さんは言った。これから高校、大学とお金がかかってくるからなあ、そう考えると悪くないなあ。
 青葉はまだこの件で叔父さんと話したことはないのに、叔父さんはもうすでにすべてを承知しているみたいだった。もしかしたら一年前から知っていたのだろうか、と青葉は少し疑い、叔父さんを見た。
「じゃあ、叔父さんは賛成なの?」
 い、いや、別に俺は、と叔父さんはもごもごと言った。賛成でも反対でもないよ、お前に何も強制なんてしないし。
 向こうもすぐ決めなくてもいいって言ってるんだから、と母親は言った。一度、顔合わせしてみればいいんじゃない?
「顔合わせ?」
 そうだよ、向こうだって家族がいるんだから、と母親は言った。
 週末の日曜日に青葉は初めて相手の家に行った。夕食を一緒に食べることになっていたのだが、青葉はずっと緊張が解けなかった。相手のスズキさんの家はすぐ近くで母親と自転車に乗って向かい、十分も漕げば着いてしまった。家のまわりには畑があり、庭も広かった。玄関から上がると何度も見ていたボーカルの人が青葉を迎え、やあやあよく来たね、とにこにこして言った。そして彼の背後には二人の小さな男の子がいた。
 夕食はもう支度してあった。家にはさらにおじいさんとおばあさんがいて二人を笑顔で迎えてくれたが、青葉は笑顔を返すことが出来なかった。聞かれた質問に、「はい、そうです」とか「はい、中学二年です」と答えることはできたが、居心地がいいと感じた時間は一分もなかった。何よりも二人の男の子、四歳と七歳の子供が青葉に向ける視線が刺々しくていたたまれなかった。二人は食事の途中で椅子から飛び降り、二階へどかどかと駆け上がって行った。
 スズキさんは済まなそうにごめんごめんと謝りつつ、二階にこら戻ってこい、と怒鳴っていたが、青葉はその声にも縮み上がってしまった。
 やっぱり、と母親が言った。むずかしいのかな。
 機嫌が悪い理由は判ってるんだ、とスズキさんが言った。前から小学生になったら自分の部屋をやるって言ってあったんだけど、それを青葉ちゃんに取られた思ってるみたいで。
 だから青葉ちゃんが来るのが決まったら家を増築しようと思ってるんだよ、と向かいの席のおじいさんが言った。
 いや、いっそ新築でもいいと思ってるよ、とスズキさんは言った。でもそれだと時間がかかるからな。しばらくよそで暮らさなきゃだし。
 無理をしないで下さいね、と母親が言った。
 でもやはりこの家で暮らすのがいいと思うよ、とスズキさんは笑顔を青葉に向けた。それなら青葉ちゃんも転校をしないで済むしね。
 その日、家に帰ると青葉はもうぐったりとしていた。風呂も入らずにベッドに横になった。自分に新しい父親と、初めての弟が出来るのだ、それもいきなりに。青葉は現実感がなかったし、何だかもうすべてが決まったこととして話が進んでいるみたいで、何も納得出来なかった。中学生になっても自分の部屋がなく、母親と同じ部屋で寝起きしているのはクラスでは自分だけだし、それを嫌だな、と考えたことは何度もある。しかし急に出ていけと言われているみたいで反発心もあった。スズキさんはガソリンスタンドを二軒、携帯電話の販売店を五軒も経営している、とおばあさんに聞かされても青葉にはよその世界の話としか思えなかった。
「でもそれだとまるでお金目当てみたい」と青葉は言った。
 お金がないことには生きていけないの、とおばあさんは叱るように言った。あんたももう子供じゃないんだから、それくらい判るでしょ?
 次の週末は土曜日から泊まりがけでスズキさんの家に行った。前回と同様にスズキさんやおじいさんとおばあさんはやさしく接してくれたし、青葉を気遣ってくれた。その点では有難かったし、青葉も先週ほどには緊張しなかったが、二人の男の子は青葉に笑顔を見せることはなかった。部屋から出ていくと叱られるので我慢して座っているだけのようで、青葉のことを見ようともしなかった。青葉は自分から歩み寄ることも必要なのかな、と考えて翌朝、歯を磨いていた二人に自分から「おはよう」と話しかけたが、二人はぷいと横を向いただけだった。
 青葉はもうどうしたらいいのか判らなかった。勉強が手につかなかったし、クラリネットの練習も身が入らず、全然上達しなかった。学校の友達に相談しても無駄なような気がしたので、一人で塞ぎこんでいた。翌週は学校の中間テストがあったのでスズキさんの家には行かなかったが、テストの結果はさんざんでクラスの順位は下から数えたほうが早いくらいに落ち込んだ。ある夜のこと、遅くまで眠れずにいた青葉は、母親が寝ている横で父親の写真を手に取りじっと眺めた。やさしく微笑んでいる若い男、永遠に歳を取らない父親を見つめているうちに青葉はふとこんなことに気づいた。お父さんは三十歳で病気で亡くなっている。私はこの人の娘で遺伝子を受け継いでいるから私も同じくらいの歳で死んでしまうのだ。歳を取っておばあさんになることはなく、若くしてこの世を去るのだ、と。
 また週末が来てスズキさんの家に泊まりがけで行くことになったが、青葉はついに正直に自分の気持ちを口にした。「私、行きたくない」
 そんなこと言わないで行っておいで、とおばあさんが言った。今はまだ大変でもそのうちに馴れるから大丈夫だよ。
 あなた、やっぱり無理そう? と母親が聞く。あんたが反対なら、この話は……
「別に反対なんて言ってない!」と青葉は言った。ふと叔父さんの顔が目に入った。悲しそうな表情を浮かべていた。「再婚するのは私じゃなくてお母さんなんだから、私のことにかまわずに再婚してよ。お母さんはスズキさんと再婚をすれば幸せになれるんでしょ、ならそうしてよ」
 青葉、そんな言い方はやめな、と叔父さんが言った。
「私が反対なら取りやめるって言うけど、でも私の言う通りにして再婚できなかったら私は恨まれちゃうの? 私のせいで幸せになれなかったってずっと恨まれちゃうの? なら、反対なんて出来ないよ、出来るわけないじゃない。お母さんには幸せになってほしいけど、私は別に今のままでいい」
 家族になるんなら一緒に暮らすのが当たり前だよ、とおばあさんが言った。向こうだってそう言ってるんだから。
「だから私は反対なんてしてないよ、お母さんだけ再婚すればいいじゃない、私は今までどおりこの家にいるから」
 母親がひどく怒った顔をしているのが目に入った。身構えつつ、無言で椅子から立ち上がったので、これは昔みたいにひっぱたかれるな、と判った青葉は先に動いた。部屋から出て玄関で素早く靴を履き、外へ駆け出した。青葉、待ちなさい、と叔父さんの声がしたが、待つわけはなかった。全力疾走で家から離れた。
 青葉の気持ちは普段からは比べようもなく高まっていたが、一方では醒めてもいて、走りながら私って駄々っ子みたいだな、と考えている自分もいた。もともと走るのは苦手だから、一分も持たなかった。青葉はやがて走るのを止め、息を整えながら歩いた。どこも目指していなかったが、少し歩くと道は土手に突き当たった。青葉は雑草の生えた斜面を登り、土手の上から広い河原と河川敷のグランドを見渡した。子供たちのサッカーチームが試合をしていたり、サイクリングロードを走り抜けていく自転車を見下ろせる、土手の斜面のコンクリートの階段にひとり腰を降ろした。二、三時間、いや夜までここで時間を潰すつもりだった。
 考えることなら山ほどあったし、最近はもう考えることだらけだったが、その考えを実際にどう行動に結びつけたらいいのかさっぱり見当もつかない。青葉はどこかで自分が当事者になるのを恐れていたし、出来るものなら判断もしたくなかった。青葉は「十四歳にもなって子供みたいだなあ」と独り言を言ったが、とはいえ、嫌なことを他人から押し付けられるのも我慢できない。青葉がそこにいる間に子供たちのサッカーの試合は終わり、それぞれ自転車や親の車に乗せられてみな帰って行った。グランドは無人になり、あたりは静かになった。すると背後からどっどっどというオートバイの音が近づいてきた。青葉は振り返り、立ち上がった。
 何だ青葉、ここだったのか、と叔父さんは言った。探したぞ、あちこち。
 青葉は何か言おうとしたが、言葉が出ず、黙って下を向いた。叔父さんは土手の上の道路にオートバイを停め、エンジンを切った。青葉の隣の階段に腰を下ろした。
「私を連れ戻しに来たの?」と青葉は聞いた。
 いや、と叔父さんは答えた。お前と話がしたかっただけだ、まだ二人きりでは話してなかったもんな。
「うん……」青葉は頷いた。
 前にも言ったが、俺は本当に賛成でも反対でもないんだ。お金の面からもお前のためだという姉ちゃんや母さんの気持ちも判るし、今さら、二歳や三歳ならともかく、中学生にもなっていきなり新しいお父さんなんて受け入れられないっていうお前の気持ちも判るよ。正直、俺は何が最善なんだか、まったく判らない。
「叔父さんは知ってたの? 一年前からこのことは知ってたの?」
 もっと前から知ってたよ。あいつは古い友達だからな。というか、ずっと相談されてたんだ。でも、人の恋愛に首は突っ込めないからな、力ずくで止めさせるわけにもいかなかったし。それに姉ちゃんはまずプロポーズは受けないと思ってたからなあ、これは俺も意外だったよ。
「そうだったんだ」
 あいつは中学の時からの友達だから、実を言うと、姉ちゃんと知り合ったのはお前の父親よりもあいつの方が早いんだよな。でも当時は本当にただの顔見知りってだけだし、姉ちゃんが俺の友達なんか相手にするわけはなかった。何年か前に再会してから本気になったみたいだな。それに、あいつも最近、自分の親から会社を正式に受け継いだから以前よりも真面目に働く気になったみたいだ。そう言う意味でも姉ちゃんのことを必要としているのは確かなんだよな。あいつは嫌な奴か?
「ううん」と青葉は言った。「そんなことはないよ」
 俺から青葉に何のアドバイスも出来ないな、と叔父さんは言った。本当にどうするのがいいんだろうな。俺は本当に判らない。ただ、苦しんでいるお前を見るのも辛くてな。俺がもうちょっとしっかりしていれば、お前も苦しまなかったのかもな。
「そんなこと、そんなの関係ないよ、私のことだもの、私の……」
 それよりも青葉、しばらくぶりに走りにいくか、むしゃくしゃしているんなら。
「え?」
 叔父さんは立ち上がり、オートバイの脇に括りつけてあったヘルメットを外して青葉に渡した。乗れよ、行こうぜ。
「でも叔父さん、このまま私をスズキさんの家に連れていくの、それとも家に?」
 ははは、そんなことしないよ、ただのツーリングだよ。
 叔父さんはオートバイのエンジンをかけた。そして笑顔を青葉に向けた。「うん」と青葉は言い、ヘルメットを被って叔父さんのオートバイの後ろのシートに跨った。
 落ちないようにまたポケットの中に手を入れとけよ、と叔父さんは言った。
 何年か前、遠くまでツーリングに行った帰りに、青葉は振動が心地よくて居眠りし、シートから落ちそうになったことがあった。それを防止するためと、叔父さんは輪っかにしたロープを革の上着のポケットの中に縫いつけていたのだ。青葉がその輪っかに両手を通すと、叔父さんはよし行くぞ、と言いオートバイを発進させた。
 叔父さんはゆっくりした速度で土手の上の道を走らせた。確かにスズキさんの家にも、自分の家にも向かっていない。青葉は叔父さんの背中に頭を押し付けながら、でも、と考えた。ツーリングに行ったところで、最後には帰ってこなければならない。その時、叔父さんは私をどっちの家に連れて行くのだろう?
 土手の上の道路が広い国道に突き当たると、叔父さんは右折し、海へ向かう道にオートバイを走らせた。何度となく通ったお馴染みのツーリングの道順だから、青葉は目を瞑った。高ぶった気持ちが治まったところに、シートと叔父さんの背中ごしに伝わってきたオートバイの振動は心地よかったから、しばらく走ると青葉はうとうとしてきた。潮の香りが鼻についたので目を開けると、海が目に入った。広い海面は日差しを反射して一面にキラキラと輝き、水平線を進む船の影もぼんやり動いていく。叔父さんが走りながら、どうだ、少しは気分も晴れたか、と言ってきたが、青葉は答えなかった。寝たふりをして返事をせず、ただオートバイの振動に身を任せていたかった。
 すると叔父さんは「いいか、青葉、よく聞けよ」と言った。風の音やエンジンの音にも負けないくらいの大きな声を張り上げて言った。「お前は俺にとって本当に他の誰よりも大切な存在なんだ。赤ん坊の頃から、いまだってずっとな。俺はお前の本当の父親じゃあないし、これから父親になることも出来ないが、大切なのは変わりゃしないんだ。お前がこれから誰の子供になろうと、もっと先に大人になって誰と結婚したところでそれは同じことなんだ。これだけは覚えておけよ、ぜったいに忘れんなよ」
 その声はもちろん青葉の耳に届いたし、心の奥にまでじんじんと響いた。青葉はもう叔父さんが帰りに向かうのがスズキさんの家でも、自分の家でもどっちでもよかった。胸の中に温かな気持ちが広がっていくのを感じた。
 だから青葉は本当は眠ったふりをしている筈なのに、叔父さんの身体に巻きつけた両腕に、ぎゅっと力を込めてしまった。

                          (了)


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