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【短編小説】火星の大統領クリントン

 伯父の遺品の中に火星の土地の権利書があった。もちろんジョークグッズの類だろう。しかし各国語がずらずらと記載された賞状のような厚紙に一箇所だけ日本語で「火星オロボウ郡シーシカ町1200ヘクタールの権利を有する」とあり、更に分厚い布張りの厚紙で挟んであったので、それなりに本格的な作りになっていた。
「これは何?」と俺が聞くと、葬儀の喪主(といっても最低限の家族葬だが)をつとめた父は「知らん」と一言だけ言った。「貰うよ」と俺が言うと父は「好きにしろ。しかし今週中にはこの部屋をきれいさっぱり片付けるからな」と言い、先に家に帰っていった。
 伯父はいわゆる孤独死だった。死後、一週間たって発見されたが、冬だったので良かったが夏だったら腐敗が進んでいただろう。伯父が住んでいたのは、現在、父と俺の一家が住む伯父のもともとの実家から徒歩十分のアパートだった。つまり伯父は祖父から勘当されたような扱いだった。実家の農業を継ぐのを拒否し、世界を放浪し、年老いてから日本に戻ってきた伯父はまったくの自由人だった。初めて会ったときのことはよく覚えている。俺は中学二年で坊主頭の野球部員だった。一方、伯父は紛れもないヒッピーだった。長髪に破けたジーンズに頭にはバンダナを巻いていた。しかし次に会ったときは髪を切り、まともな服装になっていた。仕事に就くため、割り切ったのだ。しかし五十歳過ぎの経歴なしの元ヒッピーにろくな仕事はなく、安い時給の汚れ仕事でなんとか生活していた。父はアパートの保証人だけは引き受けたが、それ以上伯父に関わろうとはしていなかった。
 片付けのための下見に父と伯父のアパートを訪ねた最初の日、俺は何か金目のものを探していた。父からは「好きにしろ」と言われていたし、荷物が残ったアパートをきれいにして大家に返す労力と釣り合うぐらいの何かを発見できればめっけ物だ、くらいの考えだった。しかし安物の腕時計、電子辞書、あと大量の本(ほとんど洋書)などが売れるかな、というぐらいで他に何もなかった。ゴミやガラクタは三十分ほどの掃除で片付いた。六畳一間のアパートは六十三歳の独身男が十数年一人で暮らしていた割には荷物が少なかった。火星の土地の権利書はそんな部屋の本棚の一番上によく目立つように立てかけてあった。
 まったく意外なことに、大人になってからの伯父が何をしていたのか、それを知っていたのは父ではなく母だった。海外流浪中の伯父も数年に一度くらいのわりあいで実家に戻り、二、三週間ほど家でごろごろすることがあったという。俺が生まれる前のことだが、その間、父と伯父の間に交流はなかった。むしろ母との間に世間話するくらいの関係があったようなのだ。「いろんな仕事をしている、とは言ってたのかなあ」と母は話してくれた。
「どんな?」
「大使館の仕事を手伝ってる、って聞いてへえ、そんなこともしてるんだ、と驚いたのは覚えている」
「大使館・・・」
「本当かどうか、知らないけどね。お兄さんは嘘をつくこともあったみたいだし」
「そうなの?」
「ええと、それはパパから聞いた話だから。兄貴は子供の頃からホラ吹きだったって」
 父から伯父のことは何度も聞いていた。しかしほとんどが悪口だった。気楽な風来坊、極楽とんぼの穀潰し、といったネガティブな単語ばかり聞かされれば自分から尋ねようという気持ちは失せる。父は伯父のことを嫌っていたが、意識していないぞと虚勢も張っていたから傍目には滑稽だった。亡くなってからも、葬儀の最中もそんな調子だった。父から何か新しい情報が引き出せるとは思えなかった。
「うす、どうもです」自分の家に戻ると義妹が来ていた。俺の家は父の家と同じ敷地の中に別に建ててあった。
「ああ、悪いな、呼び出したりして」俺は言った。
「いいですよ、ちょうど暇してたんで」
 俺の妻は医療機器メーカーの営業職で帰りが遅い日が多いが、その妹は正反対のお気楽ぶりだ。仕事も半年ごとに変わっているし、趣味のコスプレやアイドルの追っかけに稼いだ金の殆どをつぎ込んでいる。俺は伯父の部屋の片付け要員に彼女を呼び出していた。ギャラは当日と前日の夕食と一日一万の日当で折り合いがついた。
「そんなに荷物が溢れてるんですか?」
「そう思って今日下見に行ったんだが、実はそうでもなかった。あの分なら一日で終わるかな」
「で、それは?」義妹は俺が手にしていたものに目を留めて聞いた。
「ああ、これは、ええと」俺は説明するのも面倒になってそのまま差し出した。A4サイズほどの布張りの厚紙を。
 義妹は受け取った厚紙を開き「んん?」と喉の奥で小さく唸ると書面に顔を寄せた。そして「これはいったい何ですか?」と聞いてきたが、もちろん答えはない。
「見た通りのものだよ」俺は言った。「伯父の部屋にあった。なんだか分からないからそのまま持ってきた。なんだと思う?」
「土地の権利を有する、と書いてありますね。つまり土地の登記簿か何かですかね。火星オロボウ郡・・・んん、いやでもこれ」
「何かあるのか?」
「印刷じゃないですね、手書きで書いてあるみたい」
 詳しく見たわけじゃないから気付かなかった。義妹から厚紙を受け取り、じっと凝らして見てみると、そうかもしれない。丁寧にペンで書いてあるようにも見える。
「冗談にしては手が込んでないですか?」
「じゃあ本物か?」俺は言う。「これから火星に行って遺産相続の手続きをしなきゃだな」
 妻が帰ってきて三人で夕食の最中も、義妹は推理を巡らせ続けた。「伯父さんは詐欺師か何かだった? つまり海外放浪中は言葉巧みに善良な人たちを騙してお金を巻き上げていた。あの権利書はそのための小道具だった? とか」
「私も二、三回会ったぐらいだけど」と妻が言う。「あんまり悪いことをする人には見えなかったなあ」
「裏の顔があったかもしれないことは否定できないが」と俺は言った。「しかし詐欺師とかそんな器用なことができる人じゃなかったと思う。どちらかといえばその逆で詐欺に引っかかちまう方だな。それなら俺も納得できる」
「なるほど」義妹はあらためて布張りの厚紙を開く。しばらくじっと書面を眺めていたが「あ、今気づいたんですが」と言った。「これ変ですね、やっぱり」
「そりゃ変だろうよ」
「そうじゃなくて、こういう、いろいろな国の言葉が並んでいる場合って英語が一番上に来るのが普通じゃないですか? でもこれって一番上にあるのはロシア語ですね」
「ロシア語?」
「上から多分、ロシア語、フランス語、英語、スペイン語、日本語、中国語かなあ」
 俺も彼女が指差す書面に目を落とす。言われてみればそうだ。各国語が並んだ一番上にあるのはロシア語の文字に見える。「どういう意味だ?」
「むかしソ連が火星に行ったって話があったよね?」と妻が言う。「だいぶ前、そんな動画を見たような気がする」
「あった、あった」義妹が大きく頷いて合わせた。「一時期2ちゃんでも話題になって盛り上がっていた、そうそう。都市伝説にしては凝った動画だったけど、お兄さん、ご存知?」
「いや、知らん」俺は言った。「都市伝説ってつまりデマだろ?」
「そうだといえば、そうですけど」義妹は言う。「嘘かもしれないけど、もしかしたら本当かもしれない。信じるか信じないかはあなた次第」
「信じるかっての」
 俺は言った。しかしそれも翌日までのことだった。俺は義妹と二人で伯父の部屋の片付けにかかっていた。とはいえ荷物を詳しく調べて売り払うにしても一度俺の家に運び込んでそれから考えるということにしていたので、引っ越しみたいな騒ぎになった。義妹の軽のワンボックスにダンボールに詰めた荷物を積み、ピストンで俺の家と往復する。その最中にそいつはやって来た。
「こちらは蛍原さんの家でよろしかったですか?」
 段ボール箱を抱えて階段を降りていた俺に外国人の男が下から見上げながら尋ねた。いつ現れたのか、まったく気づきもしなかった。「ええと、それはそうですが」俺は答えた。そしてそのまま階段を下まで降りるまでもなくわかった。男はとてつもなく大きかった。下まで二段残した俺と視線が同じ高さだった。
「蛍原さんがお亡くなりになったと聞きまして・・」と外国人は言う。まったく訛りのないアクセントだった。日本で育ったのだろうか。
「はい、そうですが」
「私はこういう者です」
 外国人の男は言い上着のポケットから名刺を取り出して俺に差し出す。俺は段ボール箱を地面に置き受け取った。「ロシア大使館 書記官 ウラジミール・リトビノフ」と日本語で書いてあった。
「ロシア大使館・・・」
「実は蛍原さんにはとてもお世話になっていまして、今回はまったくご愁傷さまで」
「いえ」
 俺が荷物を車に持っていかないので義妹が様子を見にやって来た。そして身長2メートルほどのロシア人に気づいて驚きの表情とともに半歩後ずさった。
「実は、今日お伺いしたのは蛍原さんにずっと預けていたものを返してもらうためです」とリトビノフ書記官は言った。俺達は彼が乗ってきた車の中にいた。黒塗りのハイエースで、後部座席に応接室のような、テーブルを挟んで向かい合わせのシートが備え付けられていた。
「ええと、それは」俺は言った。
「実は土地の権利書なのです。以前、とある事情から彼に預けていたものなのですが、もともとは我々が持っているべきものでした」
「土地? 土地ですか?」俺は言いながら横を見る。義妹はハイエースに乗り込む前からすでに取り乱している。俺の袖をぐいぐい引っ張ったり、金魚のように口をぱくぱく動かしている。今は下を向き、俺が肘で小突いても顔を上げようとしない。助言を求めるのは無理そうだった。「ええと、それはどこの土地ですか? ロシアの?」
「いいえ、火星です」
「火星? 火星ってあの火星ですか? 地球外の火星?」
「そういうことになります。太陽系の第四惑星の火星です」
 俺は正面に座る日本語が流暢なロシア人をもう一度見る。大使館勤務なら日本語をここまで操るのは珍しくないかもしれない。その風体がとても日本人でないのも間違いない。誰かのいたずらにしても手が込んでいる。外国人タレントの事務所に掛け合わなければこんなロシア人っぽいロシア人なんて見つからないだろう。スーツを着ていてもごまかせない強靭そうな体格、総合格闘技のリングにでも立っていたほうが相応しいくらいの胸板だ。「ええと、つまり、伯父がそんなものを預かっていたのですか?」
「信じられないと思うのも無理はありません。私自身、こんな仕事を上から押し付けられて戸惑っているくらいです」
「じゃあ、冗談か何かですか?」
「それなら良かったのですが・・・」
 そしてウラジミールは話した。伯父に土地の権利書を預けたのはロシア政府ではない。ソ連政府である。1988年にソ連は火星の有人探査に成功したが、失敗を恐れてまったくの秘密裏に行われた。探査自体は成功したが、別の事情により国内外に秘密にせざるを得なくなった。地球外生命体と火星の土地の権利を巡って争うことになったからである。タイタン人と。
「タイタン? 巨人ですか?」
「いえ違います。土星の衛星のタイタンです。そこに住む知的生命体のタイタン人もまったく同時期に火星探査を行っていて、ちょうどソ連とかち合ってしまったのです。そのため、話し合いが持たれました。間に入ったのはアメリカ大統領のパパ・ブッシュです」
「ええ? ええと、つまり、どこに伯父が出てくるのか?」
「蛍原さんは当時、アメリカのスパイをしてました。いえ違います、ソ連の諜報機関に所属しながらアメリカのCIAに通じていて、いわば二重スパイですね。そして詳しい経緯はわかりかねますが、土地の権利を一部、預かることになったのです。時期が来れば権利はソ連に戻す、という約束で」
 俺は目眩がしていた。頭の中で虫が飛び回っているようなぶんぶんという音がしていた。それはもちろん幻聴だった。耳鳴りは深呼吸を繰り返すと治まった。俺はハイエースの窓から外を見る。伯父のアパートの前に停まったまままったく動いていないが、とんでもなく遠い場所まで行ってしまっている。火星どころか木星を飛び越えて土星の衛星まで来てしまった。「すいませんが、それはどこまで信じていいんでしょうね?」
「嘘はまったくついてませんが?」リトビノフ書記官は目をくりんと剥いて言った。
「いや、そうは言っても、そんなのまったく世間には知られていない話でしょ。俺がこの話をどこかでぺらぺら喋ったりしたら・・・」
「誰も信じないと思いますけど? 頭がおかしくなったのかと笑われて終わりでしょう?」
「なら俺が信じられないのも理解してくれますよね?」
「ああそうですね、その通りです」
「とにかく、返すも何も、そんなものないですよ。ご覧の通り今伯父の部屋を片付けている最中ですけど、そんなもの見つかってないし、この先、見つかるとも思えないし」
「では、見つかったら返していただけます?」
「ああ、はい、それはお約束します」
 リトビノフ書記官はにっこり笑うとスライドドアのボタンを押して、ドアを開けてくれた。俺はずっと黙っていた義妹を促し、車外に出る。びゅうっと風が吹いた。振り返ると道の角までハイエースは進んでいた。エンジン音はしなかった。電気モーター車に改造されていたのだろうか?
 急に義妹の気配が消えた。彼女は地面にうずくまっていた。両膝をつき、うなだれてorzみたいな態勢で道端にかがみ込んでいる。「おい、大丈夫か?」
「駄目でしょ、お兄さん、駄目ですよ」
「何が?」
「何がって今の男・・・」
 俺は義妹の腕を掴んで抱え上げた。しかし腰を抜かしたようにまったく立っていられない。俺はそのまま彼女を支えて歩かせ、軽自動車に乗せると自分の家に戻った。
「今の男、何だったんですか?」
 ペットボトルのお茶をマグカップに三杯も飲んでやっと落ち着いた義妹は言った。
「ロシア大使館、だと」俺は貰った名刺を見せる。「話は聞いたろ、訳がわかんないけど、まあ確かにまともじゃないことは確かだな」
「・・・私が、私が、作業してて、お兄さんが来ないな、何しているのかなと思って見に行くと、あの大男が立っていたんですよ、そしてこちらにって言われて道に戻ると、あのワンボックスが私の車の前に停まってた。そんな気配、まったくしなかったのに」
「確かに急に現れたみたいだったが・・・」
「それにナンバーもなかったような」
「大使館の車だから外交官ナンバーだろ?」
「はっきりとは見なかったけど、何もなかったような。それにだって私達が降りたら急に走り出したでしょ。他にドライバーなんて乗ってなかったのに」
「いや、運転席に・・・、いや、誰かいただろ?」
「無人でしたよ」義妹は急に立ち上がり、だだっと勢い良く走った。テーブルの上に置きっぱなしになっていた布張りの厚紙を手にした。「こんなの、こんなもの、すぐに返すべきですよ、なんでないなんて嘘を言ったんですか?」
「すぐに、はいありますなんて言うのもなあ・・・」
「関わっちゃ駄目ですって、素人が首を突っ込むような話じゃないですって」義妹は火星の土地の権利書を手に掴みかからんばかりに俺に向かってきた。「返しましょう、こんなの今すぐにでも」
「そうだな」と俺は言った。「そうしたほうがいいだろうな」
 その夜、俺は自分なりに調べてみた。「ロシア 大使館 リトビノフ」で検索してみると、昼間の男はすぐに現れた。もちろんロシア大使館のホームページにもいたし、一般人のブログにも顔出しの写真とともに登場した。該当国の国民と穏やかに交流を持つ外交官、どう見てもそれ以外にはない。火星だとかタイタンだとか訳のわからない二流SFみたいなことを言い出す怪しいスパイの顔はどこにもなかった。そして俺はタイタンのことも調べた。土星の衛星であり、地球からはとんでもなく離れている。極寒の星であり、とても人間が住める環境ではない。しかし生命が誕生している可能性がある、との科学者の意見も見つかった。地球では気体のメタンが液体として存在しているため、メタンの海がちょうど地球の水のような役割で生命を育んでいるかもしれない、その可能性は高いだろう、と。「つまりタイタン人というのはまったくトンデモな話ではなさそうだな」
「でも、それはそれよ」と夜も遅く帰ってきた妻が言う。「私も返したほうがいいと思うよ。もともとどう考えても伯父さんの持ち物でもないんだし、現状そんなものがあっても役に立つわけでもないし」
「その通りだが・・・」
「何か引っかかるの?」
 俺は火星やタイタンよりもまだ伯父さんがスパイをしていた、という話を疑っていた。俺が知っていた晩年の伯父さんにそんな過去があったなんて信じがたい。本当に彼はジェームズ・ボンドよろしくアメリカとロシアの間を渡り合っていたのだろうか?
「でも」と妻が言った。「そうだとしても、私達には何も関係ない話だよね」
「ああ」と俺は答えた。
 翌日、俺は名刺にあったリトビノフ書記官の携帯電話の番号に連絡を入れた。あのあと部屋を片付け、畳をひっくり返したらそれらしきものが出てきた。火星がどうとか書いてある、これをそちらに返したい、と。
「ありがとうございます」とロシア人は陽気な声で言った。「では午後の三時ちょうどに昨日と同じ場所に伺います。それでいいでしょうか?」
「いいです。お待ちしています」
 俺はアパートの前の道で五分前から待っていた。すると三時ちょうどに昨日と同じハイエースが現れた。運転席にはサングラスの男が運転しているし、ナンバーも青地に白の数字で「外」の文字がある。昨日、義妹は見間違えたのだろう。ハイエースが俺の横で停まると、スライドドアが開いた。
「お手数をかけます」昨日と同じロシア人がにっこり笑ってシートに座っていた。さらに仕草で「どうぞ」と車に招き入れた。
「これでいいのかな、よくわからないのですが」俺は布張りの厚紙を差し出した。
 リトビノフは受け取り、すぐさま開いて見た。「はい、これでいいんじゃないのかな。私も目にするのは初めてなのですが」
「それともしよろしかったら教えてほしいのだけど」と俺は言う。本当なら渡してすぐ戻るつもりだった。しかし俺の好奇心がほんの少しやばい橋を渡ろうとしていた。「昨日言っていたタイタン人て本当にいるんですかね? 調べたらタイタンに生命が生まれる可能性は否定できないってあったのだけど・・・」
「そうですね」
「あなたはタイタン人に会ったことがあるのかな?」
「いえ、写真で見ただけです。彼らはそう、私たちとは全然違う生き物ですね」とロシア人は薄っすらと笑みを浮かべて言った。「地球のホモサピエンスが猿から進化したとするなら、タイタン人は馬から進化した人間ですね」
「馬? 馬ですか」
「いえ地球の馬に似た生き物と言うだけで、馬そのものではないです。それに彼らは六本足です」
「六本足?」
「だからケンタウロスに似ているとも言えます。早く走るときは真ん中の足は地面を蹴ります。しかし細かな作業をするときは真ん中の足は腕にもなります。そうして彼らは文明を築きました」
「それで火星を探索したと」
「ええ、そうです。彼らが地球を侵略することはありません。彼らに地球は暑すぎます。水が氷としてあるのが当たり前の彼らにとって、水が液体や気体であるなんて灼熱地獄にしか見えないでしょう。しかし地球の南極より寒い火星はぎりぎり彼らが住むことができる。現在、火星は彼らの手で開拓されています」
「今現在ですか?」
「ええ、タイタンフォームされています。彼らが移住するのに適した星になるよう改造中です」
「ではこの権利書は?」
「さあ、私もどう使われるのかわかりません。上から命令されて仕事をしているだけなので。ただ、私が聞いたところでは一時期、ソ連とアメリカが協力して火星をテラフォームしようとしましたが、残念ながら挫折しました。ソ連の崩壊もありましたし、それ以上に難しかったようです。それで、当時の大統領のクリントンがロシアと協議の末、火星の権利をすべてタイタンに引き渡すことにしたようです」
「はあ、なるほど」と俺は言った。言葉もなかった。約一分、深呼吸をするしかできなかった。「ええと、それと一つ疑問なんですが。あなたはそんなにべらべらと秘密を喋って問題ないのですかね?」
「昨日も言いましたが、あなたがこんなことを皆に話したり、ネットに書き込んだとしてもあなたが周りから気が狂ったと思われて終わりですよ。それにええと、なんだ、誰だっけかな・・・」
「ええ?」
「ええと、そう、スノーデンのようになるだけです。彼は現在、爬虫類人類と取引してアメリカを潰そうとした男になっていますよね?」
「俺みたいな人間、簡単に消せるってことね?」
 リトビノフは言葉もなくニヤリと笑った。もう俺も話すことはなかった。「では、そういうことで」と俺は言い、スライドドアを開けてハイエースから降りた。
「お待ちください」ロシア人がドアを閉めようとしていた俺を呼び止めて言った。「今回、ご協力を頂いて、その返礼といいますか、ちょっとした記念品になります。お受け取りください」
 そう言いつつ外交官は紙袋を俺に差し出した。
「記念品?」俺は受け取る。
「たいしたものではありません。よくあるロシア土産です。では、ありがとうございました」
 ドアが閉まり、ハイエースは動き出した。昨日と同じくエンジンの音はしなかったが、特段、怪しい動きではなかった。俺が知らないうちにEVのハイエースが作られているのだろう。俺はロシア大使館の車が角を曲がり、去っていくのを見送ると反対に歩き出した。伯父のアパートから少し歩けば道の両側はただの畑になる。俺はそのまま歩く。土建屋の資材置き場があり、鉄板のフェンスで囲われている。その角を曲がると義妹の車が停まっていた。
「どうだった?」俺は軽自動車の窓ガラスをノックした。
「はい、撮れました。バッチリと」義妹が言う。そしてドアを開けて外に降りてきた。「お兄さん、それは?」
「リトビノフに貰った。記念品だとさ。それより、見せてみろ」
 俺は義妹に盗撮を指示していた。百メートルは離れた場所からハイエースを撮影しろ、そう命じていた。十年以上、アイドルの追っかけをしている義妹にはさして難しい使命ではない。
「やっぱりあの車、無人で動いてますよ」と義妹は言った。「運転席に人の姿はなかったし」
「まさか、俺は見たぞ、それに・・・」
 言いかけて息が止まった。いきなり強い力で肩を押さえつけられたのだ。ものすごい圧力が上からどすんと降りてきたかと思うと同時に何かが首に巻き付いた。
「盗撮なんて、良くないですね」
 リトビノフの声だった。俺は何も声が出なかった。首を絞められているのだけはわかった。さらに背後からの力で軽自動車の車体に押し付けられ、動きも奪われた。俺は視界の片隅に目をむいている義妹の歪んだ顔を見た。
「でも活動限界です。運がいいですよ、あなたたちは」
 消えかけた意識の刹那にロシア人のそんな声を耳にして俺は倒れた。次に気がついたのは十分か十五分後だったと思う。近くの農家から農作業をしに来たおばちゃんに揺り動かされて俺は目を覚ましたのだ。「救急車、呼ばなくていいのかい?」と聞くおばちゃんに俺は「よくある失神なんです。そういう病気なんです」と適当に答えた。義妹も朦朧としながらも目を覚ましていた。
 家に戻った俺と義妹は言葉もなくただ床に身体を横たえていることしか出来なかった。二人同時に殺されかけた。それは事実だった。いやただの脅しで痛い目に遭わせただけだったのか? もちろんそれはわからない。しかし脅しだとしても効果は充分だ。俺はこのことを誰にも話さないだろう。
 夕方遅くまで俺と義妹は床にただ寝そべっていた。珍しく早く戻った妻が何事かと驚き、夕食を作ってくれた。本当に俺は何もする気力がなかった。
「あの時、他に誰かいました?」腹が膨れて少し精気を取り戻した義妹が俺に聞いた。「あのロシア人、一人だけでしたよね?」
「ああ、そうだ。あいつ一人だった。でも俺達二人、まとめて首を絞められた。つまり、腕が四本あったんだろうよ。タイタン人はそういう動物だって言ってたからな」
「カメラのメモリーカードは抜き取られてました」
「だろうな」
「まあ、無事なら良かったんじゃないの」と妻が言う。まったくそれしかない。「その紙袋は?」
「あのロシア人に貰った記念品だ」
「記念品?」
「そう言ってた。何が入ってるか知らない」
「開けてみるね」妻はいい、袋から箱を取り出す。箱の包み紙を破り、箱を開ける。中からマトリョーシカ人形が出てきた。「普通のロシア土産だね」
「気持ち悪いから捨てましょうよ」と義妹が言う。
「え、別にかわいいじゃない」妻は言い、人形の胴体を開けて中に入っている小さな人形を次々に取り出していく。「あれ、これはなんだ?」
「どうした?」
 妻はマトリョーシカの一番内側の人形を手のひらに乗せて俺に見せた。それはどう見ても馬と人間が合体したケンタウロスだった。
 その後、俺は自分の身に起きたことを誰にも話さなかった。ネットの掲示板に書き込んだりもしていない。もちろんそんなことをしても誰も信じるわけはない。それはわかっている。頭がおかしいと思われて終わりだ。現に俺はもう一度「ロシア 大使館 リトビノフ」でググってみたが、何も出てこなかった。あの日、確かに俺のパソコンに現れた情報は根こそぎ消えていたし、履歴からたどっても同じだった。とんでもない勢力が関わっている、としか言えないだろう。そう、とんでもない奴らが俺の知らないところでうごめいている。だからアメリカの大金持ちたち、ベゾスとかイーロン・マスクなんかが「火星を開拓して移住すべきだ」とか言っているのを見ると「やめとけよ」と思うんだよね。素人が関わったところで火傷をするだけだ、と。

                             (了)


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