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【短編小説】海辺の町で

 九歳の夏、私は一度だけ父の郷里を訪れたことがある。後にも先にもそれだけなのは、父と生前の祖父の仲があまりよくなかったからである。しかし当時の私はそんなことを知る由もなく、出発の一週間も前から心を弾ませ姉と一緒になってはしゃいでいた。
 父の郷里は日本海に面した小さな田舎町で海水浴に適した海岸があるという以外はこれといって何もなかった。都内からだと車で五時間も走れば着いてしまう距離だった。父は「渋滞につかまらなければ、朝に家を出れば昼には着くだろうと」と言っていたが、当時の私の感覚からすれば長い旅であることに変わりはなかった。
「大きくなったな、坊ず」というのが祖父が私を見た第一声であった。
 私は父の身体に半分身を隠しながらその初老の男を眺め「どうも、こんにちは」と控えめな声で挨拶をした。途中、車に酔ってもどしてしまったのと長い時間シートに座り続けていたため尻が痛かったのとで、とてもではないがにこやかに笑える気分ではなかった。それに祖父の堂々とした体格に圧倒され萎縮してしまったのもあった。
「こりゃ、内気な子供だな」と祖父はもう一度言った。そして父に顔を向けた。「自分の祖父さんにちゃんと挨拶も出来ねえってのか?」
「上がってるんだよ」
 父は私をかばってそう言うと、車に積んであった荷物を降ろして両手に持ち、下の道路から家に向かう坂道を昇りはじめた。祖父が父の横を並んで歩き、そして私と姉は二人のあとに続いて大きめの石を地面に並べただけの簡単な作りの石段を昇っていった。本当なら母も一緒に来るはずであったのだが、仕事の都合で私たちに合わせて休暇が取れなかったため家で一人留守番をしていた。
 祖父は漁師だった。肌はそれまで私が見たこともないほど黒く日に焼け、腕もまるで大根のように太かった。背は低かったが広い肩幅とがっちりと引き締まった身体のせいで、コンピューター技師をしていた父よりはるかに逞しい感じがした。出発前、私は「お祖父さんてどんな人?」と父と母に何度も尋ねていた。しかし母は「さあねえ、一言じゃ言えないわね」と言うばかりだし、父は「会えば解る」としか答えてくらなかった。だから私は父がそのまま歳を取ったような人としか想像していなかったのだが、そのあては大きく外れた。魚釣りが趣味のお隣の山下さんとも全然違うタイプの人だった。
 祖父の家は岸壁で砕けた波の音が窓を閉じていても聞こえてくるほど海の近いところにあった。しかし、海岸線のすぐ近くまで迫ってきている山の斜面にへばりつくようにして建っていた。昼間は絶えず塩辛い風が屋内を吹き抜けていて屋根のトタンはバタバタと騒々しく鳴っていた。
「で、こっちには長いこと居んだろ」と祖父は父に訊いた。お茶でも煎れようとしたのか、言いながらヤカンに水を入れてガスレンジの上に置いていたが、あまり慣れた手際ではなかった。
「一週間だって言ってなかったけ」と父は答えた。「会社を続けて休めるのはそれが精一杯なんだよ」
「なんで休みたい時に休めねえんだ? お前の会社には、あれがねえのかよ。ほら、あれだ、休んでも給料が貰えるって奴……」
「有休かい?」
「そうだ、その有休ってのはねえのか」
「あるよ。だからその有休が取れるのがせいぜい一週間なんだよ」
 大人たちの会話を聞き流しながら私と姉は祖父の家の中を見回していた。中に入る前に見た庭が雑草が長く伸びていたり、錆付いた自転車が隅に転がっていたりとかなりの散らかりようだったが、室内はそれよりもずっとひどかった。床一面に物が凄まじいくらいに散乱し、私も姉も新聞紙や汚れた靴下などを脇にどけてやっと座る場所を確保したほどだった。これが自分の部屋だったら間違いなく父の雷が落ちていただろう、と私はぼんやり考えながら開かれたままの玄関から外に目をやった。その部屋からだと座っていても海が見えた。波は遠くの海面でうねるごとに眩しいばかりの輝きを放ち、浜辺に打ち寄せては白く砕けていた。
「お前はいくつになったんだ?」と祖父がいきなり訊いてきた。
「九つです」と私は言った。今度は大きな声ですかさず答えたのだった。
「そうか」そして今度は姉の方を見た。「そっちはいくつだったけな」
「十一歳です。五年生になりました」
「俺は一度だけお前たちに会っているんだ。覚えてるか?」
 私と姉は顔を見合わせた。姉は目をぱちくりさせ、知らないわよ、とでも言いたげな表情を浮かべていた。
「覚えているわけないよ。二人ともまだほんの小さい子供だったんだから」と父があいだに口を挟んだ。「シンスケが生まれた時に一度だけ来てくれたんだよな。だから、カズコはまだ二歳半だ」
「もうそんなになるか」
 祖父は畳に横たわった。そして脇腹や腿を掻くと鼻の穴に指を入れてほじくった。祖父はそれまで私が目にした誰よりも粗っぽい言葉遣いと仕草の持ち主だった。最初、私はどんなふうに接したらいいのか解らなかった。戸惑いと近寄り難さで、行儀良く振る舞おうとしていながらもまるで落ち着けなかった。しかし祖父は私たちを疎ましく思っているわけではなさそうだった。時折向ける視線の穏やかな気配からそう感じ取れたのである。
「ねえ、海に行っていい?」としばらくして私は父に尋ねた。私は早く海で泳ぎたくてそわそわしていたのだった。「いいでしょ、これから行って」
「大丈夫なのか?」
「平気だよ」私はさっそく荷物を開けて水着を取り出した。
「泳ぐのはやめとけ、第一さっきもどしたばっかりじゃないか」父は私の行動を見ると語気を強めて言った。「今日のところは浜辺を散歩するぐらいにしときなさい」
 当時、私は近所のスイミングスクールに通っていた。泳ぐのは大の得意であった。しかし私はまだプールでしか泳いだことがなく、広い海で泳ぐというのは一体どんなものなのか大いに楽しみにしていた。海を間近で見たのもその時が初めてだった。だから私は父の命令に「そんなのないや。少しぐらいいいじゃない」と抵抗してみたが、確かに気分はまだ全快ではなかったし、長い旅でくたびれてもいたので従うことにした。私と姉は、もうすぐ夕方だから早く帰ってくるんだぞ、という父の声を背中に聞きながら連れ立って坂道を降りていった。
 浜辺はそれほど混雑していなかった。真夏の日の午後のけだるい雰囲気はたっぷりあったが、どこか寂れた感があるのは否めなかった。立ち並んだ海の家、あちこちで開いているビーチパラソル、砂の上に敷いたシートに並んで横たわる男女。そして背後の砂浜の上の道路を時たま猛スピードで走り去る車の爆音は私の耳を襲い、浜辺に打ち寄せている波の音もかき消しもした。私と姉は砂の上に寝そべる人々のあいだを縫って歩き波打ち際まで行った。海の中に入って波と戯れているのは坊主頭の子供だけで、あとの大人たちは砂浜に身体を横たえているだけだった。砂浜の百メートルほど先には岩でできた小島が見え、その向こう側を一台のモーターボートが飛沫をたてて疾走していた。
「凄いお祖父さんだったな」と姉は溜め息とともに言い、靴先でジュースの缶をつついた。汚れた砂浜だった。空缶の他にあと目についたのは、あちこちで砂に半分埋もれた花火の残骸だった。
「そうだね。驚いたよ」
「最初はびびっちゃった」姉は肩をすくめると、私のそばを離れて歩き出した。頭に被ったつば広の帽子を手で押さえながら、靴が砂に埋まってしまうのも構わず一歩一歩ゆっくりと歩いた。
「でも、悪い人じゃなさそうだよ」
「そうかもね」
「あんなひと今まで見たことないから、びっくりしただけだよ」と私は言った。「そのうち慣れるさ」
 私たちは砂浜を抜け磯場まで歩いた。姉は黒くごつごつした岩に腰かけ、そろそろ西に傾きはじめた眩しい日差しを手をかざして遮っていた。私はすぐ足元まで波が洗う磯の先端まで降りていくと、しゃがんで海水の中に手を浸した。生温かいと冷たいの中間ぐらいの感触だったが、それでも朝からずっと車に揺られていたために蓄積された身体の疲れが手を伝わってそのまま海の中に放出されていったようだった。私は立ち上がり水平線の先に目をこらして眺めた。地球の丸みを実感させる穏やかな弧と、目前の視界を遮るものが何もなく開けているという景色を見たのはその時が初めてだった。高いビルと高速道路の高架橋に囲まれて育った私には怖いくらいの解放感だった。もうこの先に歩いていくことは出来ないんだと考えるとひどく心細い気持ちが胸にずんと突き刺さった。私は思わず拳を握り締めていた。
 私と姉が家に戻ると見知らぬ中年の女性がいた。これが祖母かと私は思ったが、どうも違うようだった。祖父に比べると年齢が明らかに若く、夫婦というには釣り合いが取れてなかった。私の母とさほど違わないくらいの歳に窺えた。父は彼女を「近所に住んでいていつもお祖父さんの世話を焼いてくれてる人だ」と紹介しただけだった。
「こんにちは、シンスケ君」と彼女は愛想よく言い私の頭を撫でた。
 夕食の支度をしてくれたのは彼女だった。祖父は彼女を「トシコさん」と呼んでいた。私たちがテレビを見ているあいだトシコさんは台所でせっせと働いていた。しかし食事の用意が終わり、いざ食べる段になると彼女は「家にいる年寄りの世話がありますので」と言ってそそくさと帰って行ってしまった。祖父は止めようとしなかったし、帰っていく彼女に声ひとつかけるわけでもなかった。
「ところでお前は泳げるのか?」と祖父が私に訊いてきた。
「はい、得意です」
「得意か、ははは。そりゃあ、よかった」と祖父は豪快に笑った。父がそんな祖父を横目で眺めていた。「じゃあ、俺が泳ぎを教える必要はねえわけだな」
「いえ、だけど、まだ海で泳いだことは一度もないんです」
「じゃあ、明日さっそく泳ぎにいこう」と祖父はにこやかに笑った。その笑顔で私がまだ祖父に抱いていた近寄り難さは胸の奥にすっと消えていった。「そうだ。よかったらあと船にも乗せてやっからな」
「私もいいですか」姉が言った。
「いいぞ、何人でも」
「僕は遠慮するけどね」父が言った。「たとえ明日の海が鏡のように真っ平らでも乗りたくないな。シンスケ、お前もよしたほうがいいぞ。車に酔うくらいだったらとてもじゃないが船になんか乗ってられないぞ」
「大丈夫だよ」と私はむっとして反論した。「多分なんとかなると思うよ」
 はっはっはっと祖父が笑った。「こいつはなかなか漁師向きだな。この無鉄砲なとこがいい」
 翌朝、目を醒ました私が下の階に降りていくと父が朝食の支度をしていた。祖父は漁に出かけていていなかった。
「なんだ、約束したのに」と私は不機嫌な声で呟いた。
「お祖父さんは漁に行ってるんだから仕方ないだろう」と父が台所で言った。「海ぐらい俺があとで連れていってやるからさっさと顔を洗ってこい。裏に井戸がある」
 私はちぇっと舌打ちすると玄関から庭におりて裏に回った。井戸なんてものにお目にかかるにも初めてだったが、家の裏にはすでにパジャマ姿の姉がいてタオルで顔を拭いているところだった。
「すごく気持ちいいよ」と姉は言った。
「井戸ってどんなんだい」私の頭にあったのは時代劇によく出てくる桶を汲み上げるつるべ式のものだった。しかし姉が脇にどくと背後から現れたのは巨大なレバーと蛇口が組み合わさった奇妙な物体だった。コンクリートの土台の上に乗り頑丈そうな構造をしていた。姉はレバーを上下に動かした。パイプを填め込んだ蛇口から水が勢いよく流れ出てきた。私は流れの中に手を入れた。ひんやりとよく冷えた水だった。顔を洗うと、ついでに井戸の水を手ですくってひと口飲んでみた。鉄と錆の匂いが微妙に口の中に広がり、ざらついた感触が舌の上に残った。
「飲んでも大丈夫?」姉が尋ねた。
「平気だよ」
「母さんが生水には気をつけろって言ってたのを忘れちゃったの?」
「そうだった」と私は言った。「でも、もう遅いや」
 家の裏には鬱蒼とした林が山肌に沿って広がっていた。さらに見上げると斜面の上の方には何軒かの家が建っているようだったが、屋根と石垣ぐらいしか見えなかった。裏庭の地面はじめじめと湿気っていて蚊がさかんに飛び回っていた。林の中からはカッコウの鳴き声が聞こえてきた。姉は「へえ、カッコウって本当にカッコウって鳴くんだな」と感心したように呟いていた。
 朝食を終えた私と姉と父の三人は坂を下って海に向かった。私と姉はすでに水着に着替えバスタオルを肩に羽織っただけの格好だった。父は白いワイシャツを着て頭には大きな麦藁帽子を被っていた。
「言っておくが」と坂を下りていく途中で父が言った。「お昼を食べたら出かけるところがあるからな」
「どこへ?」
「お前たちのお祖母さんのところだ」
「いいけど、でも」と姉は言った。「お祖母さんてどこに住んでるの?」その話をまだ一度も聞かされていなかった私たちにすればもっともな質問だった。
「町の方にいる。父さんの姉さんと一緒に住んでるんだ。ほら、ルリコ伯母さんはお前たちも知っているだろう」
「うん」と私と姉は一緒に頷いた。
「あの伯母さんのところだ」それだけいうと父は口をつぐんでしまった。手に下げていたお弁当を詰めたバッグをポーンと投げるようにして肩越しに背中に担ぎ、正面に広がる海を見やりながら詰まらなそうな溜め息を吐いた。私たちは浜辺に着くまで言葉を交わさずただ黙って歩いた。
 私は「しっかり準備体操をしてからにしろよ」という父の言葉もほとんど聞かずに海に飛び込んで行った。しかしたちまち波に呑み込まれてしまった。押し寄せてくる波の勢いに負け身体のバランスを崩して倒れた私は、海の中でもみくちゃにされ気が付くと浜辺に打ち上げられていたのだ。おまけに少し海水も飲んでいたようだった。頭がくらくらとし鼻水も出ていた。最初に強烈な一撃をくらった私は太陽の強烈な日差しが降り注ぐ波打ち際にへたり込んでしまった。しかし頭を振って立ち上がるともう一度海に入っていった。まわりにいた地元の子供たちの動きをよく観察して真似た。ぐーんと盛り上がる波の頂上が砕け落ちる寸前でぴょんと跳び上がるのだ。二回目で上手くいき私は波を乗り越えた。コツさえ掴んでしまえばあとは簡単だった。海岸よりだいぶ前に進み爪先立つのにも疲れたところで、私は一気に海中に身を躍らせクロールで泳ぎ出した。懸命になってかき分けていくとじきに波はただのうねりに変わった。私を押し戻そうとはしなくなった。私は泳ぎを止め海面の上に頭をぽっかりと出した。そこで初めて気が付いた。もう足の下には地面がなくなっていることを。
 不安とくすぐられたような快感が交錯し、私は一瞬泳ぐのを忘れかけたほどだった。今まで私が泳いでいたスイミングスクールのプールは空調と水温が完全に調整された屋内の全天候型で、溺れる子供がいないようにと絶えず指導員がプール全体を見渡していた。私は一度だけ足がつって溺れかけたことがあったが慌ててコースロープに掴まって難をしのいだのだった。しかし、その時私が泳いでいたのは果てしなくだだっ広い海の真ん中だった。私は曲芸をするイルカのように海面を叩いて飛び上がり、首を伸ばして周囲を見回してみた。辺りの波間に頭を浮かべているのは私だけだった。他の子供たちはまだはるか後方にいてとてもではないが私に追い付いてきそうもなかった。その辺はもうモーターボートが唸りを上げて走り抜けている危険な領域だったのだ。私は慎重を期して少し後戻りをしたが、誰もいない海の真ん中に身体を浮かべてしばらくゆっくりと漂っていた。背泳ぎのように仰向けになると強い日差しが肌をちくちくと突き刺した。私は眩しさに目を細めた。海面の上に出したままの頭も熱くなってきた。私はじりじりと焼けるばかりの髪の毛に海水をかけて冷やしたりした。
 せかせか泳ぐのでなく、身体を浮かべるのに最小限必要な動きで波間を行ったり来たりしていた。泳ぎは慣れているくせにやはりプールではない不安感が私の手足を縮こませたが、それでいて自分の好きな方向へどちらでも泳いでいける自由がよかった。私は初めての海に圧倒された。人間の力の及ばない絶対的な強さを感じた。自分はうねりに身を任せているだけの小さな存在でしかなかった。海の真ん中は静かだった。遠くの浜辺のスピーカーから流れる声もわんわんと反響しているだけで何と言っているのか聞き取れなかった。私は海中に潜り、はるか足の下がどうなっているのか見ようとしてもがいたが、上手く潜れずすぐ頭を出した。すると浜辺のアナウンスの声がふいにはっきりと耳に届くようになった。「危険です、もっと浜の近くに戻りなさい。そこの子供、もっと戻りなさい」どうやらそれは自分に向けられている声らしかった。私は身体を反転させ波打ち際までゆっくりと泳いでいった。

 祖母と会ったのはその日の午後だった。一度家に戻って風呂に入り肌についた海水と砂を洗い流した姉と私は、父が運転する車に乗せられ町の方へと向かったのだ。しかしハンドルを握る父はあまり機嫌がよくなかった。私たちが浜辺で昼食を食べているところにやって来た祖父とのあいだでちょっとした口論があったからだった。祖父は漁を終えてこれから私と姉の二人を船に乗せてやるつもりで来たのだった。
「悪いけど、父さん。これから俺たちは母さんのところに行かなきゃいけないから、それはまた後にしてくれないか」
「なんであんなところに行くんだ」祖父は顔を歪めて言った。「まったく下らねえ」
「自分の母親に会いに行くのがどうして下らないんだい?」
「じゃあ、お前一人で行きゃあいいだろう。その子たちの面倒は俺が見る」
「そういうわけにはいかないよ」
 祖父は両腕を身体の脇にだらんと垂らして私たちをじっと見下ろしていたが、「勝手にしろ」と呟くとどこかへ行ってしまった。父も去ってゆく祖父の背中にふんと鼻息を吐いていた。そのあいだ私と姉はずっと無言でお握りを食べていた。私はどちらかと言えば祖父の後についていって船に乗りたかった。それから祖母のところに行っても遅くないように思われたのだ。しかし、父に反抗することは出来ず黙っていた。しばらくは父の顔をまともに見られなかった。
 私たちが訪れたのは父の姉が嫁いだ家だった。町の小さな商店街の裏手で車を下りた私たちは街路を何度か行ったり来たりしてやっと一軒の家の前にまでたどり着いた。古くて大きな門構えの家で囲いの内側には青々とした芝生の生えた庭が広がっていた。
「御免ください」玄関の引き戸を開けて中に入りながら父は大きな声で言った。
 奥から皺だらけの小さな老婆が出てきた。これが祖母かと思って一瞬どきりとしたが、伯母の家の家族らしかった。続いて出てきた祖母は痩せて背中のピンと伸びた女性で、まだ少しも老け込んでいなかった。
「やあ、よく来たね。疲れたろう? 今着いたところかい?」
「まさか。着いたのは昨日だよ」
「子供たちの顔をよく見せておくれよ」
 私と姉は父の背後から顔を出し「どうも、はじめまして」とぺこりと頭を下げた。
「よく来たね」
 私たちは家の中に案内された。広間では伯母の家族の人たちが私たちを待ち受けていた様子だった。私は見知らぬ大人数人に一度に取り囲まれて緊張した。気後れし何を聞かれても「ええ、はい」という返事しか出来なかった。その中で知っていたのは、以前私たちのマンションに何回か遊びにきたことのあるルリコ伯母さんだけだった。伯母さんは「大きくなったねえ」と言って私の頭を撫でると顔の向きを変え「そういえば、父さんはどんな具合だった?」と父に尋ねた。
「相変わらずさ。勝手な親父だよ。どうしていつも自分中心にしかものを考えられないのかな。まいるよな、親父には」
「だけど、お前まで父さんと喧嘩してほしくないね」と祖母が言った。「どうせお前たちはすぐ東京に帰ってしまうんだろう。ずっとこっちにいるわけじゃないんだから、一緒にいる時ぐらいは仲良くしてやりなよ」
「母さん、よくそんなことが言えたね」ルリコ伯母さんが言った。
「俺と親父はもともと性格が合わないんだ。仕方ないよ。いいかい、あの人は俺を船から海に突き落としたんだぜ。ちょうど俺がシンスケぐらいの時さ。あの時は正直死ぬかと思ったよ。親父は船の上で知らんぷりしてるしさ。カナヅチの子供を泳げるようにさせようとしたからって、無茶もいいとこだよ」
「ひゃあ」とルリコ伯母さんの隣に座っていた老婆がのけぞりながら言った。「そりゃ、いくら何でもひどいね」
 私はどうしてこうも皆が祖父のことを嫌がっているのか理解できなかった。そして陰で人の悪口を言っているこの人たちの神経を疑った。ひどい人だ、どうしようもない親父だ、と決めつける父やルリコ伯母さんに強い反発心を抱き、祖父が言った「まったく下らねえ」の言葉の意味が解った気がした。私にはその場にいた大人たちの言動を素直に受け入れることは出来なかった。ただ祖母だけは別だった。祖母はルリコ伯母さんや父たちの会話を聞き流しているみたいだった。彼女は話の途中で私の方に顔を向けて「もう海で泳いだかい?」とそっと尋ねた。
「今朝泳ぎました」
「どうだった?」
「波があって凄かったです」
「溺れないように気をつけな」
「はい」
 帰り際に祖母は私と姉に小遣いをくれた。玄関でお年玉を入れる小さな袋を手渡しながら「よかったらまた遊びにおいで」と言ったのだ。姉は「お祖母さんも東京まで来てください」と答えていた。
 車に乗ってから袋を開けると五百円札が一枚入っていた。姉のも同じだった。「いいのかな」と私は言った。
 父は運転しながら横目でちらっと私の手元を見て「いいから貰っとけ」と言った。
 私と姉が祖父の船に乗ったのは三日目のことだった。早朝、まだ空が薄暗い時間に祖父に起こされた私と姉は眠い目を擦りながら坂道を下りていき、浜辺とは反対方向の港に向かったのだ。坂を下りていく道筋の家々はまだしんとしていたが、港はすでに活気で満ちていた。漁船のエンジン音と漁師たちの威勢のいい声は朝の澄んだ空気をついてコンクリートの防波堤にはねかえり、まだ明け切らない空の途中で響いていた。
 祖父の船は桟橋の突端に停泊していた。祖父がまず飛び移り、ロープを手繰って船の横腹を岸側にくっつけた。続いて私たちが飛び乗ると「じゃあ、行くぞ」と祖父は叫び、紐をぶるんと引っ張ってエンジンをかけた。船は最初のろのろとした速度で進んだ。しかし防波堤で囲われた港の外に出ると、途端にスピードがぐんと上がった。甲板の上に中腰で座っていた私はたまらず尻餅をついた。海面上はうっすらと靄が漂っていた。冷たく湿った風がシャツを通して肌に当たり夏とはいえ寒いくらいだった。鳥肌がたった。
「どうだ、いい気持ちだろう」後ろから祖父が怒鳴った。
 私たちは答えられなかった。船は猛スピードで波をかきわけて進んで海岸ははるか彼方に離れてしまった。祖父は一体どこまで行こうとしているのか。突然、胸は不安で一杯になり、とてもではないが「いい気持ち」とは答えられなかった。私は船のへりをしっかり掴んでいるのがやっとだった。そうしていなければ、うねりの頂上に船のへさきがぶつかるたびに襲ってくる強い衝撃で海に放り出されてしまいそうだった。十分ほど進み、広大な海の真ん中に来ると祖父はエンジンを切り船を停めた。それから仕掛けの針に小魚を突き刺して海にするすると沈めた。釣り竿は使わなかった。祖父は糸をそのまま手で掴んでいたのだった。たちまち最初の一匹がかかった。
 釣り上がったのは鱗が銀色に輝くラグビーボールほどの大きさの魚だった。尾ビレで甲板を力強く叩いて跳ね回り、捕まえようと追いかける私の手を何度も擦り抜けた。姉はきゃあきゃあ悲鳴を上げながら狭い船の上を逃げ回っていた。
 漁が一段落すると祖父は私と姉の正面に座り煙草に火を点けて言った。「どうだ、漁ってのはなかなか楽しいだろう?」
「はい」と私たちは答えた。
「しかし、お前たちの親父は腰抜けだな。あいつはついに俺と一緒に船に乗ろうとはしなかったんだ」
「……」
「俺はあいつをあんなだらしねえ男に育てた覚えはねえんだ」祖父は煙草の煙が目に入ったのか顔をしかめ目尻に皺を寄せた。「小さな頃から仕込んだつもりだった。なのに上手くいかねえこともあるんだな。あいつは怖くて船にも乗れねえし、一メートルも泳げねえ腰抜けになっちまった。だからシンスケ、お前は親父を見習っちゃ駄目だぞ。あんな女々しい大人になったらおしまいだかんな。誰からも男として認めてもらえなくなる」
 祖父の声は低く眼差しは真剣そのものだった。じっと私を見据えていた。しかし私は祖父が何を言おうとしていたのかよく飲み込めなかった。祖父と父はいがみ合っているな、ということが理解できただけだった。

 トシコさんは毎日祖父の家にやってきては夕食の準備と洗濯をしていった。彼女が家事をやってくれているのにどうして部屋が散らかり放題なんだろうかと私は疑問だったが、一度部屋を片付けようとしたトシコさんを祖父が「いいから放っておけ」と言って制止しているのを見て納得した。姉はトシコさんにまつわる話をどこからか仕入れてきて、夜二階の部屋で布団を並べて寝る時に私に教えてくれた。
「実はあの人はシケで旦那さんを亡くした未亡人なんだってさ」
「シケって?」
「海の嵐のことだろ。それで、今もその旦那さんの両親と一緒に坂の上の家に住んでて身のまりの世話をしてあげているらしい」
「お祖母さんが家を出ているのはお祖父さんがトシコさんと浮気をしているからなの?」
 姉は寝返りを打った。「そこまでは私も知らないよ。トシコさんが来るようになったからお祖母さんが出ていったのか、お祖母さんが出ていったからトシコさんが来るようになったのかは」
「難しい問題だね」
「そうだな」姉は欠伸をして枕元の電気スタンドに手を伸ばしてスイッチを切った。
 その夜遅く、私は誰かの叫び声で目を醒ました。真っ暗な室内で身を起こし、じっと耳をすませていると声は下の階から届いてきているのが解った。野太く低い二つの声が交互に響きびんびんと床を突き上げてきた。私は部屋を抜け出した。廊下を四つん這いで進み階段をそうっと途中まで降りた。首を伸ばして明るい下の階を覗くと、父と祖父が激しく言い争いをしているところだった。
「父さんがそこまでろくでもない人間だとは思わなかったよ」父は私に背中を向けていて顔は見えなかった。「母さんをどれだけ辛い目にあわせたか考えたことはあるのかよ」
「お前には関係ねえっ。夫婦の問題だ。首を突っ込むな」祖父は苦々しい表情で言った。父に向かって横向きに座り手にはビールが半分入ったコップを持っていた。
「だったらまわりの人間に迷惑をかけるのをやめろよ」と父は震えた声で叫んだ。「父さんの身勝手のせいでみんなが迷惑してるんだぞっ」
「うるせえ、黙れっ」と祖父は叫び立ち上がった。父と睨み合いビール瓶を掴んだ。今にも殴りかかりそうな剣幕だったが、瓶の底を父の鼻先に突き付けただけだった。「お前はいつから俺にそんな口をきけるようになったってんだ。えっ。お前はまだ半人前のガキだろうが。ガキのくせに偉そうな口をきくんじゃねえっ」
「なんだとう、このクソ親父っ」
 その時、私が座っていた階段がぎぎーっと軋んだ。父が振り返り私に目を止めた。血走った今まで見たこともない恐ろしい目つきだった。「そこで何やってるっ」
 私は弾かれたように立ち上がり階段を駆け昇った。部屋に逃げ帰り、布団を頭から被ると眠っていると思っていた姉が「どうだった?」と小声で訊いてきた。私は何とも答えられなかった。心臓がどきどきしていた。階下の怒鳴り合いはまだ続いていたが、私は耳に両手を押し当てて塞いだ。今見たことをすべて忘れてしまいたかったし、もう何も聞きたくなかった。布団の中で身体を硬くしているうちにいつしか眠りに落ちていた。
 翌朝、父は「今日帰るぞ」と言った。不機嫌な顔だった。朝食を食べている時で、祖父は漁に出かけていなかった。
「どうして?」と私は尋ねた。
「もう用はすんだからだ」
「でも今週いっぱいはいるって言ったじゃない」と姉が言った。「どうして?」
「どうしてもこうしてもない」と父は冷たく言い放った。「昼にはここを立つからな。帰る準備をしとけ」
 朝食を食べ終えた私は二階でしばらく荷物を整理するフリをしていたが、水着に着替えると父に目を盗んで裏口からそっと外に抜け出した。私は二日目から毎日のように海に行って泳いだり肌を焼いたりしていた。しかしまだやり残したことがあるような気がしていたのだった。浜辺に向かう私の足は自然に早くなった。最後には駆け出していた。空ではすでに真夏の太陽が強烈な輝きを放っていた。アスファルトの路面を熱く焼き、反射熱で私はすぐに汗だくになった。走ったまま浜辺にたどりついた私は、そのままシャツと靴を脱ぎ捨てて海に飛び込んで行った。たちまち砕けた波がまき起こした細かい泡が私の身体にまとわりついてきた。
 波を乗り越え、足が立たないところまで進むと私は泳ぎだした。頭を空っぽにしてただやみくもに手足で水をかいた。私はふと沖の小島までの往復に挑戦してみようと思いついた。いったん海面上に顔を出して目標をしっかり見定めまた泳ぎだした。身体は軽かった。すいすいと進んだ。プールで泳ぐのとほとんど同じ感覚で距離を稼いで行き、ほどなく小島まで泳ぎ着いた。海から上がって一休みすることも出来たが、私は休息なしで泳ぎ通すことにして小島の周囲を大きく回った。ふとエンジンの音が耳に入った。
 私は泳ぎをやめて振り返った。一台のモーターボートが波をかきわけて私の斜め後方から突進してきていた。最初は向こうがよけてくれるだろうと思っていたが、モーターボートのスピードは恐ろしく速かった。近づいてくると、運転手が後ろを向いて後部座席の女の子と話をしているのが見えた。後ろに座っていた女の子が私に気づき、「あっ」という形に口を開きながら立ち上がった。私は慌てて海に潜った。
 ぶつかりはしなかった。しかし、大急ぎで海中に潜った私の頭上をモーターボートが走り去っていった時の水圧で私はさらに深く沈み込んでいった。私は必死になって手足をばたつかせた。上がろうとしたが上手くいかなかった。もがけばもがくほど手は水を擦り抜けた。海水越しに太陽がまばゆく輝いているのが見えた。私の身体は重かった。まるで重い石を背負ったかのように沈んだ。息が詰まり肺の空気が底をついた。胸が破裂するのかと思った。一瞬意識が遠のいた。
 手が何か硬いものを掴んだ。私は最後の踏ん張りでその手に力をこめた。すると身体がぐいっと引っ張られ、いきなり小島の岩の上に上半身が出た。新鮮な酸素が口を開く間もなくいっせいに肺になだれ込んできた。
「大丈夫か、君」スピーカーの声だった。
 私はぜいぜいと咳き込みながら顔を上げ声のした方を見た。立ち上がろうとしたが膝が震えて立てなかった。手を振って返事をしてやるのがやっとだった。やがて二人の大人が乗ったゴムボートが小島まで近づいてきて私を乗せてくれた。岸に向かいながら一人が言った。「おい、君。怪我はないか?」スピーカーと同じ声だった。
「……大丈夫です、大丈夫です」と私は俯いたまま何度も繰り返し言った。
「もうあんな無茶はするなよ。このあたりは遊泳禁止なんだからな。今度あんなことをやってるのを見つけたら親に来てもらうことになるぞ。いいな?」
「はい。どうもすみませんでした」私はうなだれた。頭を上げているのも億劫だった。
 浜辺に着くと私は「すみませんでした」をさらに何度か言って彼らから離れた。今にも倒れてしまいそうな歩調で砂浜の真ん中まで歩き、熱く焼けた砂の上に身体を横たえた。仰向けに寝そべり太陽光線を存分に浴びた。まだ息が荒く身体も冷えていたのでしばらくは動く気がしなかったが、ふいにぬっと影が突き出て太陽の光を遮った。
 祖父が私の顔を覗き込んでいた。「どうしたんだ、こんなところで」
「あ、休んでるんです、疲れたので……」私はゆっくりと起き上がった。肩の辺りに貼り付いていた砂を手で払って落とした。
 祖父は漁の帰りのようだった。私と姉を船に乗せてくれた時にも持っていた仕掛けの糸などの漁具一式を脇に抱えていた。祖父は私のよこにどっかと座りながら、ふうっと息を吐いた。「暑いな、まったく」
「はい」私は緊張した。今しでかしたばかりの無茶な遠泳を祖父に見られていたのではないかと心配したのだが、祖父は何とも言わなかった。
 私と祖父はしばらく黙ったまま真夏の熱い日差しと、周囲のざわめきの中にいた。私は今日中に帰ってしまうことをどう祖父に切りだしたらいいのか解らなかった。祖父に対する裏切りのようにも思え、そのことを考えるだけで辛かった。
「今日中に帰るみてえだな」といきなり祖父が言った。
「ああ、はい、父さんがそう……」
「そうか」祖父は傍らの砂を掴んでばっと正面に投げた。続いて独り言のようなぼそっとした声で言い出した。「まあ、それもしょうがねえだろうな。あれであいつも言い出したらきかねえとこがあるかんな」そして私の顔を見つめた。「お前はあの父親のことが好きか?」
「はい、ええ」
「そりゃよかった」と祖父は笑った。「シンスケ、お前の親父はいい親父だぞ。あいつは子供の気持ちをちゃんと理解してやれるかんな。お前を苦しめたり、お前の厭なことを押し付けたりは決してしねえだろうよ……」
 私はじっとしていた。言うべき言葉も見つからなかったし、どう反応していいのかも解らなかった。
「また来る機会があったら来いよ。あいつが来てもいいって言うようだったらな」
「はい」
 祖父は仰向けにごろんと横になった。目をつぶり、そしてもう一度ため息のような深い呼吸をした。私はやりきれないような沈んだ気持ちを抱いたが、それを表に出そうとはしなかった。ただこう思った。もっと大人になったらまたやって来よう。父はもう連れてきてくれないだろうから、一人で旅が出来るくらい大人になったらまた来よう、と。私はそれを砂浜に打ち寄せてきている波のように何度も何度も心の中で繰り返した。やがて身体がすっかり乾いたところで私は立ち上がり、砂を払い落とした。
「じゃあ、お祖父さん。また来ます」と私は祖父を見下ろして言った。「さようなら」
 祖父は答えなかった。こくりと顎をかすかに動かしただけだった。
 私は砂浜を後にして坂道を昇りだした。父に叱られるかなとも考えたが、どうでもいいことのようにも思えた。坂の途中で振り返ると、海は私の視界一杯に広がっていた。

                         (了)


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