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【エッセイ】ペットロスの悲しみを乗り越えるための言葉

 先日、土曜日の朝にテレビを見ていたら歌手の氷川きよしが出ていた。国内の各地を旅する番組である。
 氷川きよしが旅に出て、宿に泊まり、食事をし、とある工房で陶芸体験をすることになった。そして彼が作りはじめたのが犬の置物であった。なんでも先日、長いこと可愛がっていたペットのダックスフンドが天国に旅立ち、思い出のためにその犬の姿を陶器の置物として作り手元に置いておきたいとのことであった。ロケのVTRでは粘土をこねて形を作っただけで終わったが、生放送のスタジオに焼きあがって完成した陶器の犬が持ち込まれた。と、途端に氷川きよしの目に涙が浮かび、ぼろぼろと泣き出してしまった。その犬が亡くなったのは本当につい最近で、まだ悲しみを引きずっているとのことだった。スタジオにいた女性の司会者ももらい泣きしていたが、テレビを見ていた私もつられて泣いてしまった。私もつい最近、飼っていたペットの猫を亡くしたばかりだったのだ。

 ペットが死ぬと悲しい。とても悲しくてやりきれなくなる。ペットを飼ったことのない人にはまったく分からない感情だろうが、犬や猫を可愛がった経験がある人なら分かってくれるだろう。本当に、悲しくて悲しくて何も手がつかないくらいに落ち込んでしまうのだ。

 サムネの写真が私が可愛がっていた猫の「チロ」である。正確には私の母の猫である。15歳と半年で逝ってしまった。

 写真では母の腹の上に乗ってリラックスしている。というかまったく母にべったりで、多分、自分は本当に母の子供だと思っていただろう。というのもまだ一歳になる前に、避妊をした上でもらわれてきた。成熟しないまま身体だけが大きくなったので中身はずっと子猫のまま、いつまでたっても母に甘えていた。いや実際ににゃあにゃあと声をあげて母に甘える様子は、子猫が母猫に向ける声と同一のものだと考えて間違いないようである。一応、私にも懐いていたし、背中やお腹を撫でるとごろごろと喉を鳴らしてくれた。

 ほとんど家の中で過ごしていたが、外に出ても我が家の庭とその周辺をぐるっと回る程度で、メス猫ということもあり遠くまでいくことはなかった。外で他の猫と出くわすと大急ぎで帰ってきて、うにゃうにゃ言っていた。多分「毛むくじゃらで四本足の変な動物に出会ったよ、びっくりしたよ」と言ってたのだと思う。自分が猫だという自覚はなかっただろう。

 ペットを亡くして落ち込むのは初めてではない。20年ほど前にも同じようなことがあった。飼っていた雑種の犬を亡くして、しばらく気持ちが落ち込み、ふと思い出しては涙をこぼしていた。実は当時、それほど離れてない時期に伯母も亡くしていたが、ペットの犬ほどの何も手がつかなくなる悲しみはなかった。子供の頃に可愛がってもらったり、いろいろと世話になった伯母なのだが、犬より下とは酷いではないか、と自分自身そう思ったのだが、やはり悲しみの強さはペットの犬の方が大きかった。なぜだろう?

 人間はたいてい好きなように生きている。誰かの奴隷で自由がまったくなかった人など現代にはいない。すべての人が何もかも思い通りに生きたわけではないだろうし、戦争や災害などの抗しがたい事態と遭遇することはある。しかし多くの人は好きなように自分の人生を選び、年老い、そして死んでいく。よっぽど若くして病気や事故で不慮の死を迎えるのでなければ、その人の死は悲しいのはあるにしても、残された人が引きずるほどのものはない。しかしペットは違う。

 例えば犬には人間の三、四歳の幼児と同じくらいの知能があるといわれている。言葉を覚え理解することはないが、単純な単語なら聞き分けるくらいの頭脳がある。つまり永遠の三歳児として家族の一員としてすごし、大人に成長することなく逝ってしまう。飼っているほうも頭では分かっているつもりなのだが、どうしても納得できない。自分の子供が三歳で亡くなるようなものなのだ、落ち込まない人間はいないだろう。打ちのめされたような悲しみに苛まれ、ただただ胸を引き裂く辛さに耐えねばならない。

 犬や猫は言葉を発しない。だから長年一緒に暮らしていたとしても、彼らと意思疎通が出来たのか疑心暗鬼になる。「本当に気持ちは通じ合っていたのだろうか?」「もっとこうしてやればよかったのかも?」「本当に自分に懐いてたのか?」そんな思いがいつまでも頭の中でぐるぐると渦巻いて、落ち込んでしまう。ペットが純粋無垢な存在のまま旅立っていったのが余計に悲しくて心の整理をつけるのに長い長い時間を要する。それがペットロスである。

 しかし残された飼い主にも人生は続く。いつまでもめそめそしているわけにはいかない。どうやってこの悲しみから立ち直ればいいのだろう?

『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄著)は1992年に中公新書から発売された。たしかそこそこベストセラーになったと記憶している。この本に書かれているのは動物たちの身体のサイズやデザインの違いと、そんな動物たちがどのような生態を持っているか、という一見して難しそうな生物学の話だ。タイトルにあるゾウとネズミはどちらも哺乳類の種であるが、身体のサイズが違いすぎる。体重も違えば、食べ物も、食べる量も大違いだ。当然、寿命も違う。ゾウが平均して80歳も生きるのに対してネズミは二、三年であるという。しかし一つだけ、ほとんど違わない点がある。それは一生の間に心臓が打つ鼓動の数だ。ゾウもネズミもどちらも20億回とほとんど変わらない回数なのだ。

 ゾウやネズミに限った話ではない。すべて哺乳類の動物が寿命まで生きたとすると、この鼓動の数は変わらないという。とすると、逆に考えられるのではないか? 寿命の長さが違うのは人間が時計を持ち出して勝手に計ったからだ。ゾウでもネズミでも人間でもイボイノシシでも、生まれてから死ぬまでの間に成長し、子孫を残し、年老いて寿命を迎えて死ぬのはまったく変わりがない。心臓が20億回ドクンと脈打った時が死ぬときなのだとしたら、それが三年でも10年でも80年でも、相対的には同じ長さの人生を歩んだと言っても間違いではない。そしてもちろんペットの犬や猫でも同じことである。

 よく言われるのは、犬や猫の年を人間に当てはめて、何歳という計り方だ。一般的には一歳になるまでが人間の20歳で、その後は一年が人間の四年~五年に相当するという。私が可愛がったチロも人間に当てはめれば約80歳まで生きた勘定になり、猫なりの長寿を全うしたと考えて間違いはない。飼い主はペットと一緒に過ごしている間、どうしても自分の時間感覚を正常だと信じ込んでいる。だから先に逝ってしまったペットのことをほんの少しの時間を生きただけの哀れな存在だと考えがちだ。だが、それはまったく違う。私がもし、ペットロスの悲しみにいつまでも囚われている人を目の当たりにしたらこう言って慰めるだろう。

「もし君がペットの犬と一日たっぷり遊んで〔まるまる一日犬と遊んで楽しかったなあ〕と思ってたとしたら、君の犬は〔ああ、ご主人様とまるまる四日も遊んで楽しかったなあ〕と思っているんだよ。犬は人間が感じるよりももっと早い時間の流れの中にいるんだから、いつまでもくよくよしていたら駄目だよ」と。

 あるいはこう言葉をかけるかも。

「君の猫は15年の人生の100パーセントを君とともに過ごしたけど、君の方は人生のうちの何分の一しか猫とともに生きることは出来なかった。だから猫の方が幸せだったんだよ」と。

 そしてもちろん、私自身がこの言葉を自分に言い聞かせてペットロスの悲しみを乗り越えていかなくてはならない。ペットの犬や猫は、後からやってきたのに先に逝ってしまう存在である。われわれ人間は、別の早い流れの時間の中を走り抜けていく彼らをただ見送ることしかできない。だから残された私たちが出来ることといえば、ただ生きて寿命を全うすることだ。ペットの犬や猫がそうしたように、しぶとく、全力で、懸命に生き抜いて、寿命が尽きる最後の最後の瞬間まで命の炎を燃やすしかない。それがペットたちへの弔いになるのではないか。

 願わくば、すべてのペットたちの生が健やかで、そして最後の時が安らかであらんことを。


 


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