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ゲームレビューとは何のために存在するのか~ライターとして暮らす方法 第2回

※当連載は、シナリオライター&ゲームライターの各務都心(かがみとしん)が、原稿執筆だけで暮らせるようになった経緯や、実際にどういった点に注力していくことで仕事が回っているかについて、ライター業に興味がある方々に向けて広くお伝えしていくためのものである。

第1回で自己紹介を済ませたので、今回からはゲームレビューという仕事についてもう少し掘り下げて考えていこう。シナリオライターとしてゼロイチベースでお話をつくる方法については、山ほど指南書がネットに転がっているのでそれらを参考にしてくれればいいと思っているので、一旦置いておこう。

今回のテーマは「ゲームレビューとは何のためにあるのか?」である。数百人が数百億をかけて作ったものにわざわざ文句を付ける仕事に一体何の価値があるのかという問題だ。

色々と前置きはあるが、先に結論だけ言っておこう。我々は「読者に面白いと思ってもらうため」に書いているのである。


●好き嫌いを超えていく

そもそも批評とは何なのか、評論とは何なのかについて考え始めると、文芸批評の長大な歴史を紐解かねばならないので、一旦ウィキペディアレベルで止めておこう。

ただちょっと眺めているだけでも、同時代のものと比べる、ひとりの作家を深く追いかける、印象を大事にする、社会的な事象から考えるなど、スタイルは山ほどあるというのがわかる。現代のゲームレビューは、ゲームという文化の性質的にも、レビュアー個々人の態度としても、これらのスタイルを混載させなければ成り立たないものであると考えるべきだろう。

「特に指標がないなら、もう好きか嫌いかしかないのでは?」という話になってしまいそうだが、そうは行かない。たとえば筆者はサガシリーズが大好きだが、サガより簡単な戦闘システムのゲームは全部嫌いなので10点満点中3点以下……と評したら、たぶん二度と仕事が来なくなるはずだ。つまり、多少の基準は存在するというわけである。

幸いにして、ゲームという娯楽はシステムに依拠した反復性の高い遊びがほとんどの時間を占めるので、これがどれほど快楽や知的好奇心を刺激するかを数値化するのはそこまで難しくはない。それらがストーリーとどう絡むか、配信文化やアップデートはどう評価するか、何人で遊んだときが一番楽しいのかと考え始めると困惑していくのである。

なので、好きか嫌いかは人によるというような表現に逃げたくもなるのだが、それはつまり裏を返せば“そのジャンル/表現/テーマが好きな人がどう思うか“ということは判断できるという意味でもある。SRPGの新作が出た時、SRPGファンのツボを押せているかどうかの話になるアレのことだ。

逆に、そこを定量化できない人はレビュアーとしての立場を取ること自体が危うい。ニワカが騒ぐと叩かれる風潮というのもこの辺の心理から来ているのだろう。素直な感想という体なら構わないし、開発会社はそういう意見ほど聞きたくなると思うが、ゲームレビューということならシリーズやジャンルの歴史はある程度知っていなければならないだろう。

これは、突拍子もない新システムのゲームが出た時にも同じことが言える。つまり、あまりに新しいシステムやデザインを見た時に「これはすごい、新しい」なんて言うのは簡単なのでどうでもよくて、それがどういう着想であり、我々はどう受け取ればよいのか、またどんな点に限界があるのかを既存の作品と見比べてわかりやすく解説する力が求められる……という意味である。そしてこの力は、既存の作品を知っていればいるほど身に着く力なのだと、筆者は信じている。

要するに「面白い/つまらないと思ったからいいじゃん」とか「好き/嫌いだからいいじゃん」では、メディアに載せるレビューとしては内容が足りないということだ。自分が面白いと思った理屈を、既存のものを参考にして、他人に説明する能力が常に求められているのである。そして、それが上手くいっている記事というのは「読者が読んで面白い記事」として成り立っているわけだ。

『The Stanley Parable』

●忖度なんて言葉は存在しない

しかしながら、この結論にも落とし穴がある。「読者が面白いと思う記事」というものを量産するだけなら、読者を気持ち良くすればよいわけで、つまりあらゆるゲームの粗探しをしたり、糞味噌に叩いた炎上記事を出したりすればPVが伸びるわけだ。

エンタメ作品が人の溜飲をスカッと下げる機能があるのは「はなさかじいさん」の時代から証明されているので仕方がないことだが、ここにさらなる罠があり、残念なことに「忖度」という便利なワードが悪い意味でミーム化してしまっているため、メディアがクリエイターと癒着しており、褒めるのが当たり前で貶すとエラいという半ば陰謀論じみた空気が何故か(一部の過激な考え方を持つ人のあいだで)広まっているのだ。

こんな記事を読んでいるような属性の人なら、一度くらいは「忖度しない○○はスゴい!」みたいなコメントを見たことがあるだろう。

いらすとや

はっきり言っておくと、筆者が付き合ってきたゲームメディアは、わざわざクリエイターやハードメーカーに良い顔がしたいだけのために表現を捻じ曲げるなんてことはしなかった。

メディアによって色があり、その信念に基づいてライターに記事を書かせているだけで、普通に褒めもするし貶しもするが、そこに第三者への目配せなどは存在しなかった。なので「忖度」なんてしてないのである。

より詳しく言うと、そもそも「忖度」という概念自体が存在しないのである。それは何故か? 理由は簡単だ。敢えて褒める必要もなければ、敢えて貶す必要もないからである。

『Dicey Dungeon』

かの陰謀論の立脚点には「メディアはクリエイター達から裏で金を貰ってるから、立場上褒めざるを得ないのだろう」という理屈があると思う。ここについては、そもそも表で金を貰っているので間違っている。仕事が発生して、その報酬金が支払われているだけだ。

で、仮に忖度してメディアがライターに提灯記事を書かせたとする。実際にユーザーが遊んでみた結果、その点が全然面白くなかったとして、非難を浴びるのはメディアと、それを書かせたと思われてしまう販売会社/開発会社だ。つまり全員が損するわけである。

逆に、忖度せずにゲームのある部分をオーバーに貶した結果、初動でまったくそのゲームが売れなくなってしまったとする。

で、その後たまたまセールか中古でそのゲームを手に入れたユーザーが遊んでみると、発売直後に出たメディアの記事で言われていたよりもはるかに面白かったとして、ここでも損するのは、そのユーザーからの信頼を失うメディアと、初動で売れなかった販売会社/開発会社で、やはりこちらのパターンで全員が損をしているのだ(ユーザーは儲けもんだとその場では思うかもしれないが……)。


いらすとや

文章化してみるとあまりに単純で幼稚な理屈に見えるし、何ならこの事象を一言で表す故事成語や慣用句もありそうな気がする。

たしかに販売会社は必死になって宣伝をするし、メディアは見映えの良いスクリーンショットを撮ろうと努力するので、実際のゲームプレイが見劣りする瞬間はあるかもしれない。

しかしながら、上記の理屈の通り、ゲームメディアやゲームライターが必要以上に褒めたり貶したりしても、誰一人幸せにならないということがわかってもらえたと思う。ゲーム会社――メディア――ライターとのあいだに「忖度」なんて概念はない。ライターとメディアはただ愚直にその作品を評しているだけで、それが文章として正しいか、面白いかで戦っているだけなのだ。


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