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東大法学部での学び ~推し授業4選~

はじめに

 こんにちは。法学部4年の林腰です。朝夕の風に秋を感じる季節となりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。私は、夏休みを満喫し(美術館のスタッフ体験などしていました!)、後期の授業がスタートしたところです。

 いきなりですが、「大学で学ぶ」というのはどのようなことなのでしょうか。高校までの勉強とは何が違うのでしょうか。ある教授はこの問いかけに以下のように答えていらっしゃいました。

『高校までで習うことは「応用」であり、大学で学ぶのは「基礎」である。』

 「え、逆じゃないの?」と思う方もいるかもしれません。分かりやすく言い換えると、高校までの勉強は『すでに分かっていることを具体的に当てはめる(実用的ともいえる)勉強』、大学からの学びは『どのようにしてその真理や法則が導かれたのか、その根底にあるものは何かを深く探っていく学び』といったところでしょうか。
 この言葉を聞いた時、なるほどなぁと深く感動したのを覚えています。自分は来春には卒業するので、こうした深い学びに触れることができるのも、あと約半年。他学部のものも含め、心がときめくような授業を目いっぱい受けたいと思っています!

推し授業紹介

 さて、ここからは自分が3-4年次にとった推し授業についてご紹介したいと思います。法学部の授業は、民法や憲法、刑法といった実定法の授業ばかりというイメージの方も多いかと思いますが、地域政治の授業や、法制史という法学と歴史が合わさったような授業(「基礎」法学に含まれます)など、バラエティに富んだ授業が充実しています。法律が大好きな人も、それ以外に関心を持っている人も、大いに楽しめますよ!

① アジア政治外交史(政治)

 東アジア各地域の政治社会の成り立ちやナショナリズムについて、政治思想的な観点を踏まえながら俯瞰する授業です。こうした歴史は現在の歴史認識問題や新疆ウイグル自治区の問題と深く関わっており、どういった背景からこのような問題が生じて、何故こうした問題の解決が困難であるかについて深く考えさせられました。
 我々は現在の問題について考えるときに、儒教のような伝統的なアジア的価値観を軽視しがちですが、現在の中国共産党が儒教の影響を受けていないこともないと見受けられるように、思った以上に現在と近代化以前の歴史との繋がりは深いのだと感じました。
 教授が授業の冒頭に、最近の政治・外交問題についての考えをお話ししてくださったり、履修生の質問に丁寧に答えてくださるのも、大変興味深かったです。


② 西洋法制史(基礎法学)

 11世紀から18世紀の「ヨーロッパ世界」がどのように、その国制と法を発展させていったかについての授業です。高校世界史を深堀りしていくような内容であり、歴史が好きだった私は(1限もありましたが)毎回楽しく受講していました。
 ヨーロッパというと、それだけで均質的な世界のような印象を受けますが、国や地域によって君主による国家統合のあり方が異なること(例えば、小規模なイングランドは同時期のドイツやフランスよりも王権が強い、フランスはドイツよりも王位継承が安定的なので王権が伸張している等)を学びました。共通する部分を持ちつつも、中身は多様というのは、今のヨーロッパにも言えることですよね!


③ 政治学史演習(ゼミ)

 ルソーの『社会契約論』をフランス語で読み、一文一文丁寧に邦訳していくゼミです。法学部なのにフランス語?!とびっくりなさる方も多いかと思いますが、法学部のゼミの一部には英語だけでなく、第二外国語を使用するものもあるんです。
 自分は、前期教養のころから大好きなフランス語に触れ続けたいという思いと、民主主義の古典を読み解くことを通して、現在の民主主義について再考したいという考えから履修しました。政治思想に詳しい履修者が多く、一文、時には一語の解釈で議論が白熱していました。
 例えば、”un prestige digne de la foire”という表現があったのですが、この”prestige”を「威信」と訳するのか、「幻惑・魔術」と訳するかで、ニュアンスが変わってくるよねといったことや、”pacte social” ”contrat social”という似た表現を訳し分けるべきか否かで盛り上がったりしていました。今まで、これほどまでに言葉を丁寧に扱ったことはなかったと言っていいほどであり、言葉の使い方・訳し方の大切さを知る貴重な経験となりました。

④ 番外編:倫理学特殊講義Ⅰ(文学部の授業)

 これは、文学部の授業なのですが、個人的に大変面白かったのでこちらでご紹介します。(法学部であっても他学部の授業を履修し、10単位分は卒業要件に随意科目として含めることが可能です。)
 禅思想とはどのようなもので、どのように発展していったのかについて概観するような授業で、「正法眼蔵」の一部を読んだり、鈴木大拙が禅をどのように海外に紹介したのかについて学んだりしました。
 印象に残ったのは「悟り」とは何であるかというお話です。「悟り」というと、一度悟れば完成!のようなイメージがありますが、実はそうではありません。「悟り」は何度も繰り返し続ける営みであり、常に自己を見つめ(日々の生活も含めた)修行をし続けることだそうです。悟ったと思って慢心してしまっては、もはやそれは悟りではないということですね。(『意識と本質(井筒俊彦)』の禅について書いてある箇所を読むと、もっと深く理解できると思います!)自分は茶道をやっているのですが、茶道と禅は共通する部分が多いなぁとしみじみ感じました。


おわりに

 久しぶりのnoteでテンションが上がってしまい、いささか長文になってしまいましたが、皆様に大学の授業の面白さや楽しさが伝わっていれば幸いです。読んでくださり、ありがとうございました!

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