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松代へ ❷ 松代大本営

松代に“呼ばれた”訳は一つではなかったようです。

松代大本営という言葉を聞いてもピンと来なかった私は
町にある観光案内所で大本営を扱っている小説がないかと
聞いてみました。
小説は皆無でした。
真実は歴史から消されている部分が多いのではないかと
すぐに思いました。
まずは食事を済ませてからと竹風堂さんに行きました。

食事をしてから象山入り口に行って車を止めました。
コロナ感染防止のため、中に入ることはできないようでしたが、
ここの写真でもと思って携帯を取り出した時に
言いようもない重さが肩にかかってきました。
携帯をかざしましたが、手が重くて、撮影を断念。
なんだか、とても嫌な気分です。

それは広島に行った時に感じたあの感覚でした。
ここはまずいなあと気を確かにしようと
ほかのことを考えます。

車を出そうとしたところ、左のミラーが動きません。
ああ、これも何かの力だなあと思い、
この場を離れれば大丈夫よと言おうとしましたが、
なぜか言葉になりませんでした。

その後のことは「松代に行ってきました❶」をお読みください。


帰宅して松代大本営を調べてみました。

詳しく知りたい方はWebサイトをご覧ください。

https://www.city.nagano.nagano.jp/site/kanko-nagano/22100.html


以下の文章は抜粋です。

【松代大本営とは】

松代大本営地下壕は、舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。
 ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
 第二次世界大戦の敗戦濃厚となった末期、軍部は本土決戦を行うことにより連合国側に「最後の打撃」を与え、「国体護持(天皇を頂点とする国家体制の維持)」などのよりよい和平条件を得ようと考えていました。

この決戦の指揮中枢を守るためのシェルターとして松代大本営の地下壕が計画され、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約8割が完成しました。

この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられました。


【地下壕工事が始まるまで】


松代大本営の地下壕には、宮城(皇居)、政府の諸官庁の主要部、日本放送協会海外局(ラジオ)など、天皇制国家を支える中枢機関がまとめて移転する計画でした。
 この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
 なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていない。

 戦況が悪化し、サイパン陥落後、日本本土への空襲が避けられなくなってきた1944年初め、大本営の安全な場所への移転が、陸軍の井田少佐から陸軍次官へ提言されました。その後5月初旬に信州で移転先となる適地を探した結果、松代が適当となり、調査・設計などの工事の準備がすすめられました。

同年9月には、陸軍大臣から着工命令が出され、すぐに資材搬入を開始し、10月には朝鮮人労働者用の飯場ができ、事実上の工事が始まりました。
そして、地下壕を掘削する第1号発破が、11月11日に象山(イ地区)でかけられたのです。
また、天皇御座所については、この翌年、1945年3月に着工命令が出されます。


【大本営移転先の適地とされた理由】


1. 信州は日本の重心(海岸線から遠い)
2. 岩盤が頑丈なこと
3.  10t爆弾に耐え得ること
4. 地下施設の近くに飛行場があること
5.  既設でなくても場所があればよい
6. 工事がやさしいこと
7.  労働者の確保や資材の搬入の容易さ、労働者の居住や資材集積の場所があること。
8. 風格や品位といった環境があること。
9.  信州が「神州」につながるなど地名に品位があることや、民家が少なく機密保持がしやすいこと
1、本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
2、固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
3、山に囲まれていて、地下工事をするのに十分な面積を持ち、広い平野がある。
4、長野県は労働力が豊か。
5、長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
6、信州は神州に通じ、品格もある。
7、松代に縁起の良い、松という文字が含まれていた。
                       wikiより

この他、信州の人は口が固いという理由もあったようですが、
観光案内所のおじさまは、そんなことはないと笑っていました。

【隠密にすすめららた工事】

大本営移転の計画から調査・設計までは、陸軍省軍務局や兵務局で行われます。
地下壕工事は運輸通信省が担当し、地下建設本部第一地下建設隊が責任を持ち、地下壕を掘る具体的な工事は、鉄道建設工業会社を通して、西松組(当時。現:西松建設)鹿島組(当時。現:鹿島建設)が請け負いました。
 そして、賢所を建設する工事は、熱海鉄道教習所の生徒により行われました。


大本営の現場作業は、強制連行されたり、日本各地の工事現場から移された朝鮮人労働者や、勤労動員された日本人が当たりました。
しかし、固い岩盤を相手に発破(はっぱ)を使う、昼夜二交替の最も過酷な労働を強いられたのは朝鮮人労働者たちで、その数は今だに定かではないが、7,000人以上ともいわれています。
多くの犠牲者が出たようです。
1944年10月、約100人の地元住民の山林、桑畑、田畑が軍に買い上げられ、道路、続いて飯場が建設されます。

11月、地下壕工事が本格的に始まると、岩盤を砕くために使われたダイナマイトの爆破音が昼夜を問わず、松代一帯にとどろくようになり、ニワトリは卵を産まなくなり、人や家畜の眠りは妨げられました。
爆破によって吹き飛ばされた岩が屋根に降ってきたり、その振動で壁にひびが入った家もあったそうです。


翌1945年4月、舞鶴山周辺の西条村(にしじょうむら;当時)の住民は、工事の目的も告げられず、急な立ち退きを迫られ、親戚、知人を頼って村内外へ移住します。
立ち退き地区に田畑を持つ者は、その入り口の「衛門」で門鑑(通行するための証明書)を見せなければ、耕作にも入ることができなかったそうです。


地元住民は、また、勤労報国隊として、工事での資材運びやトロッコ押しといった作業に従事させられ、清野と西条の国民学校3、4年以上の児童も、上空の米軍機から工事が見つからないように、地下壕の掘削によって出た岩くずの上に、木の葉や枝を覆い被せるカモフラージュ作業をさせられました。

松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。


昭和の時代には隠蔽されていたことが、少しずつ、明かされていくのですが、私は何も知りませんでした。

昭和天皇も知らされていなかったようで、戦後、長野にいらした時
「この辺りの大きな穴を掘っていたようだね」とおっしゃったそうです。

【国体護持】

沖縄失陥後の1945年6月、政府は文部省請議「戦局に対処する本庁行政の簡素強化に関する件」を閣議決定する。これにより文部省の大部分は「国体護持の信念透徹」などの思想指導に集中することになる


国体論は日本の敗戦の際にも威力を示す。日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、国体の護持をめぐって時間をかけ、それを唯一の条件とすることを自分たちで了解し、ようやく降伏する。



「やるとなったらやるんだ!」という精神論で負け戦をして
大きな犠牲を払ったことを、忘れてしまい、
今まさに「やるとなったらやるんだ!」という精神論で
オリンピックを強行して、大きな犠牲を払うのでしょうか。

ずっとあれから、考え込んでいます。



松代大本営を調べていると第2新東京市
『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する架空の都市ともありました。

当初の脚本では、長野県長野市松代町が予定されており、作中の第2新東京市の眺望は、姨捨山付近(姨捨駅近辺、長野県)から長野市方面(松代含む)の眺望・地形と一致するが、雑誌『エヴァンゲリオン・クロニクル』では「松代に新首都を建設する計画もあったが最終的に松本になった」とあり、設定的には松本に決着した。松代は起動実験場として会話中に登場する。なお劇場版『DEATH』冒頭では、第2新東京市の所在地として「長野県第2新東京市(旧松本市)」と明確に記されている。


長野の心霊スポットとしても有名だったこともわかり、
あの時の重さはの意味がだんだんわかってきました。

御霊に平安がありますようにと心の中で
お祈りしました。



#松代
#松代大本営
#国体維持
#信州

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