見出し画像

生きること、それが価値だよ

この夏は大事な友人を2人亡くした。
本当に寂しい夏だ。

7月に卒業生が、今月は友人が亡くなった。すると関わりのある人達が涙ながら口々に言う、「ああ、これで◯◯さんも楽になったね」と。

本当にそうだろうか?
本人は楽になったのだろうか。
死は人を楽にするのか。
生きているうちに楽にはなれないのか。
そんなことを考えずにはいられない。

一昨年初夏、昨年末と続けて愛する父と愛犬を亡くした。
2人とも(犬も人間扱い)高齢で難治性疾患の闘病の末、自宅で看取りをした。思い出してみると、亡くなったときには楽になったように見えた。楽というよりも、苦しみから解放されたという表現がふさわしい。愛する人がもう苦しくないんだと思うと、悲しいけれど嬉しかった。
そんな体験から、(病気の場合は)死によって楽になるというよりは、逃れられない苦痛からの解放が適切だと思える。楽になるという表現は適切ではない。周りの期待をのせた表現かなと感じる。

ここからはあくまでも私見。

自分の価値を見出だすことが大切とか、夢を叶えることが生きる目的のように考えられがちな昨今、半世紀以上生きている私から伝えたい事がある。
叶えたい夢や希望があって、それが叶わず生きることが辛いのなら、その夢や希望を諦めたらいい。死ぬほど辛いなら、その苦痛から死ぬぐらいの思いで逃げたらいいと私は思う。
夢や希望が実現できなくて、自分は価値の無い人間だ、そんな風に思わなくてもいい。価値とは存在そのもので、能力のことを指し示すものではないからだ。ダメでも、ポンコツでもまずはその場に留まる。それが人間の価値だ。
どうしてもダメなら、変わる努力をグズグズでもいいから始めればいい。
無責任と思われるかもしれないが、命を引き換えにする方が無責任だと私は思うのだ。

だから、だから
「こんなに辛いなら死んだ方が楽だ」
なんて思わないで。
死んで責任を取る、それはできないから。

亡くなった1人は自死だった。
その終わりかたを選ばなくてはならない理由があったんだとは思う。独立してから思うように立ち行かなくて、悩みに悩んだ結論だとは思う。

正しい答えは無いけれど、方法は他にもあったよね。

私は生きられる分しっかり生きて、しっかりおばあちゃんになってから、あの世で彼女に会う。あの世で披露できるよう抱腹絶倒の武勇伝をストックしておいて、会えた時には彼女を笑い転げさせてみせる。
そして、生きていた時は楽しかったねと2人で笑いあいたい。

死んだら楽になるのではない。
生きていた時に多少楽しかった分だけ、苦しんだ分だけ、生きる責任をとった分だけ、死んでからも多少は楽しいんじゃないかな。楽になるとは違う気はがする。
死んだことが無いから分からないけれど、私はそう思っている。

何回も言う。もちろん、理解してくれなくていい。
居てくれること、存在すること、それが価値だ。
他人に言われたことや評価なんか気にしなくていいし、ましてや親切に他人の価値なんか見出ださなくていい。貢献する、役立つ、良さを見出す、そんなことは自分のことをやった後でいい。
大切なのは、まずは自分が生きることだ。
場に命として存在することだ。

暑過ぎる夏に強くそう思うのです。