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私にとって、私の言葉は尊い

最近あんまり暇すぎるからか、そういう年齢なのか分からないけれど、手を止めては考えていることが多い。
私は本を読んでは、コトバを聞いては、感動したり納得したり、かなり影響されてきた。ずっとそうしてきたのだが、最近はそれってどうなんだろうと思うのだ。

人のコトバを見聞きして、そこから一旦自分の中に取り込んで自分の考えにしてきたつもりだが、自分に取り込むということはそんなに簡単なのか?
誰かが言っていたそのコトバに、自分の真意を見たような気がして、そのコトバを簡単に取り込んでもいいのか?
私には私の価値があり、誰かには誰かの価値がある。その価値をちょっとやそっとの文章で、色んな人の言ったことで揺らがせるのは、我ながら如何なものなんだろう。そう思うのだ。

以前は色んな本を読み、研修で学び、考えを広げることが私の考えや言葉の自由を増やすことだと考えていた。今は違う。
同じ本を何度も何度も読み直し、何かしら考え、また読む。考えているうちにまた分からなくなって、また読み、また何かしら考える、の繰り返しで先に進まない。
以前ならヤキモキするところだが、全く進まない私のお陰で、今考えたいことや今考えていることが少しずつ分かるようになってきた。

私が考えたのではないこの言葉の意味を自分なりに理解した上で、自分が選んだ言葉を使い、その言葉を使って考えを導き、価値観をまとめていく。快感だ。
まとめたことは残念ながら、世の中には全く貢献しないが、この世に存在するたった一人の私には充分意味あるものだ。私にとって、私の言葉は尊いのだ。
結果、私は言葉で自分の考えを理解し、価値を高めることができるようになってきた。そう、いま私が使う言葉には価値があるのだ。

今分かるのは、読書をするだけでは、研修で学ぶだけでは、書いてある事柄をまとめるだけでは、人の考えは深まらないし、価値観もさして変わらない。
しかし、読書をし、研修で学び、まとめた考えを自分に返していくと、事柄そのものを知り、そして考えるという自分の価値の作り方を経験できる。
そうしていくうちに、その自分の考え方や言葉に表すことそのものが自分に影響するのを実感し、変わっていく自分が体験できる。これがね、なかなかいい。一人で楽しめるのが、またいい。

いま、そんなところにいます。
ただの読書家で終わらなくて良かった。
人に薦められた本は読まない、貸してもらわない、偏屈な私だけれどそれでいい。

いい、悪いではなくて、最近そう思っただけの話。