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想い出の栃木 後編

今回栃木に来てからやる事の一つに「祖母の写真を撮る事」があった。
以前父方の祖母の写真を撮り、プリントした物を父にプレゼントした事があった。その事から今回は母方の祖母の写真を撮ってくれと両親からお願いされての事だった。

祖母は写真があまり好きではないらしく気乗りしない。「いいよそんなの、撮らなくて」と断られる。しかしこちらとしてもどこかのタイミングで写真は残しておかないといけない。すぐに終わるから、無理に笑ったりしなくていいから、と説得したり、私が写真の仕事も行っているという事などを父と母が説明してくれたりで、ようやく撮らせてもらえる事になった。

撮る場所は家の裏にある畑。暗くなる前にさっさと撮る。
祖母の家で食べるご飯にはこの畑で獲れたものが沢山出てくる。ここで採れる夏野菜が美味しい。カメラを持って家族と畑に行く。

「モノクロで撮っていい?」
撮るならいつも通りモノクロでと決めていた。父方の祖母もモノクロで撮っている。「いいよ」と言ってくれたのでシミュレーションをACROSにして撮影する。

まずは祖母を一人で、次に母と二人で。
苦手なのもあってか祖母はやはり笑顔にはならない。
だがそれで良いと思った。
そこに祖母が凝縮されていると真正面からファインダーを覗いて思った。
祖母は決して厳格な人ではなく、よく笑うし子供の頃の私たち兄弟の相手もしてくれていた。だがカメラを向けられたりはあまり得意ではないらしい。祖父もカメラをやっていた。その時も撮られるのは苦手だったのだろうか?

撮り終わって、「今度は父さんと母さんも撮って」との事で両親を撮る事に。何だか気恥ずかしいが「撮ろう」という気持ちにはなっていた。
撮影場所は家からすぐにある拓けた場所にする。
写真を撮る時の頭に切り替わっていたので、露出や設定はパッと済ませて後は撮るだけ。
「もうちょい前に」
「もうちょいくっ付いて」
「じゃ撮るよ」
ファインダーに写る両親の顔を見る。
父はいつもの笑顔、母は少し恥ずかしそうに笑う。

両親に面と向かって何かするのはむず痒い感じもしたが、たまには悪くないと思った。

撮影会が終わり、「そうだ、家も撮っておこう」と思い一人勝手に祖母の家を写真に収める。ここでも勿論モノクロ。モノクロで見返した方が返ってイメージが湧くから不思議だ。何より物の存在感を現してくれる。
だからこういった場面ではモノクロで撮影をする。



この家もいつかはなくなってしまう。
あまり考えたくはないが、それが現実でいつかは訪れる事。
だから来られる内に写真に納めておこう、思い出をちゃんと残しておこうと思いながら写真を撮る。



写真を撮るという行為は今でこそカジュアルに誰でも出来る訳だが、昔はカメラを持っている人の特権のようなもので、写真を撮るという行為そのものの価値も違っていたのだろう。
大事な場面で、それを記録として残す為に写真を撮る。
その写真はフィルムとして残り、プリントとして人に見られる。
きっと一枚一枚を大事に撮っていたのだろう。私はデジタルの恩恵はありがたく思って必要なら数を撮るようにしてはいるが、それでも今回のような大事な人を撮ったり自分の大事な思い出を撮る際には、一枚一枚を大事にしようと思った。

目の前の環境、自分の中身、他人の中身、私が生きる世界は常にどこかが変化していて、それに出会ったり気付いたり思い知らされたりする事で時間が流れている事に気がつく事が出来る。今の私はその変化をより深く知る為のツールとして写真を使っているのだと思う。
私が写している物、そして写している時の感情、そういったものが私に語りかけてくれる。



そして翌日、広島に帰る日だったが、どうやら父母も一緒のタイミングで帰るつもりらしい。昼前の出発までの間にお菓子やらフルーツやらを沢山出される。朝ごはんも食べたのに。でもまぁいいか。祖母と母は似ているなと思いながら出された物をひたすら食べていく。

次に来れるのはいつだろうか。
少し先になるだろうが、必ず来よう。
そうだ、今回撮影したものはプリントしてプレゼントしよう。
ついでに父母のツーショットも。
そして出発の時間が来て、また来るね、と言って私達は家を出た。






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