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写真を撮るのは迷惑?

先日、過去に書いた記事にコメントを頂いた。

その記事は、2020年のFUJIFILM X100Vの発表に際したプロモーションの映像が炎上し、それに対して思った事を書いたものだった。
炎上したのはプロモーションで起用されたフォトグラファー鈴木達朗さんの撮影スタイルに対してで、迷惑行為でないか?という理由。

まず鈴木達朗さんのスタイルはキャンディッドフォトと言えるもので、街中などで居合抜きのように瞬時にカメラで撮影し、人々の姿や表情を写し込むというもの。声を掛けて撮ったり、遠目から望遠で切り取ったりするのではなく広角レンズで至近距離で撮影する。海外ではマグナム会員でもあるブルース・ギルデン氏が有名な手法だ。ギルデン氏に至ってはフラッシュも使う。

このキャンディッドフォトは街中でいきなりパシャっと撮られるので相手からすると驚かれるかもはしれないが、その時そこの人々がどんな表情をしているかは興味深いし、鈴木達朗氏はディープなモノクロや多重露光を使用して独自の世界観を生み出している。
写真表現としては立派な一つのジャンルだ。

が、そのプロモーション映像では撮影された通行人が迷惑そうにしていたり、通行の邪魔になるような動きをしながら撮影していたのでそれが元で炎上することになってしまった。

写真を撮っている人、特にストリートスナップが好きな方なんかはご存知だと思うが、街中で人を写真に写し込むこと自体は犯罪でも何でもない。先に挙げたブルース・ギルデンしかり、森山大道しかり、街と人で写真を撮り、世界的に認められている写真家は沢山いるし確固としたジャンルの一つである。

だが確かに、通行の阻害をしているとなると「迷惑行為」と捉えられても仕方ないか…となる。
写真作品における表現の為だとしても、人に迷惑を掛けるのはどうなのか…と。

今回頂いたコメントに対して、特にこの部分について考えるのがポイントとなった。
その方は「人に迷惑をかけずに写真を撮りたい。でもこれは綺麗事だろうか?」という事を仰った。この言葉に引っかかるものがあったので、考えを巡らせてみた。
そしてコメント欄にて返信をしようと思ったが、誤解もないようにしっかり書いた方が良いだろうと書き始めたら面白いテーマなのもあってボリュームが増え、それならと今回記事として書くことにさせて頂いた。

(最初に断っておくと、コメント頂いた方はそこまで重苦しく書かれてはない。「迷惑」をテーマに私が勝手に話を膨らませたので、コメ主さんに引かれるかもと思ってる。)

まず、「人に迷惑をかけたくない」というのはとても良い事だと思う。
それこそ昨今では撮り鉄を始めカメラを持った人間のマナーの問題が浮上するようになった。自分が写真を撮りたいからといって不当に場所を占拠したり、他人の撮影の邪魔をしたり。そういった話を聞くと同じカメラを持つ人間として残念に思う。
なので私自身も「迷惑をかけない」というのは結構気にしながら写真を撮っている。いや、というよりは「写真を撮っている人間」が周囲に影響を与えないよう心がけているという感覚だと思う。
身なりを整え、立ち姿も怪しくないようにうろうろキョロキョロしない。挨拶をする。道で撮る時は歩いている人の邪魔にならないか確認する。撮影スポットで撮る時は他の人の動きを観察する。カメラを構える時間は短く、持つカメラ自体も控えめにする。(X-Pro2最高!)
最後の方は人それぞれなのでお任せするが、私自身はこの辺を特に意識して目立たないよう不快にならないよう意識している。自分自身を守る為でもあるし、写真が好きな人が過ごしにくくなるのは避けたい。一人の悪い行いは拡散して全体に影響を与えてしまう。

そして思ったのが、迷惑をかけないというのを先のように(どちらかと言うと)ネガティブな方向で考えてしまうとどうしても窮屈に感じてしまう。だから逆にポジティブな面で考えることも大事なのだなと思った。
迷惑をかけないという言葉を裏返せば良い気分にさせるという事。撮る時に気分がいい、誰かが見た時に気分がいい。そういった写真はとても素敵だと思う。例えば写真を撮っている時にその場にいる人とコミュニケーションを取れたらみんな気分が良い。それはカメラマン同士でもいいし、たまたまそこにいる人でもいい。迷惑を顧みない人はそもそもそんな事は考えないのだろうが、それでもそう考えてくれる人が増えれば世の中の冷たい風は少し弱まるのではないかと思う。
それから、迷惑をかけないようにと例え一人でひっそりと撮った写真だとしても、見た人がそれで感動してくれるならそれは素晴らしい写真だ。(私も一人でひっそり撮るのが好きだ!)被写体は世の中に沢山ある。何もみんなと同じものを撮る必要はない。みんなが見るものを撮る必要もないと思う。

だが一方で、私はどちらかと言うと鈴木達朗さんを擁護する派だ。
写真だけに限らず音楽や絵画などあらゆるジャンルにおいて、表現をする人にとってはその生み出される作品が一番大事で、そしてその作品自体がある人にとっては不快に感じるものかもしれないし、その制作過程で他人に迷惑を掛けたりする可能性もあって仕方がないのではないかと思う。
その過程が表現する為に必要な事なのなら、実行するしかない。それで何も作れないのは表現の自由の侵害となるのではないだろうか。

ただ、だからといって何でもありと言いたい訳ではない。それだと迷惑なカメラマン全体を肯定する事になってしまう。
大事なのは社会的なルール・法律を犯さない事、そして作品に対する覚悟を持つ事だと私は考える。

とりあえず法を犯さないのは人として当然だし、その作品を一般社会に公開するのならその社会のルールから逸脱すべきではないと思う。社会のルールから外れておきながら社会に認められたいというのはナンセンスだ。
ちなみに鈴木達朗さんの行った街中で人を写す事は犯罪でも何でもない。そして不快に思われて「消してくれ」と言われたら彼も当然応じると思う。ストリートで写真を撮るというのはそういうものだ。

そして結構大事だと思っているのが、「覚悟」の部分。
そもそも写真家やアーティストと呼ばれる人と一般の人の違いは何なのかという事を考えた時に、あらゆる人のインタビューなどを見て「覚悟が違う」と感じた。自分の作品を作る為に己の心血を注ぎ、その為には周りを多少振り回してでも良いものを作るのだという覚悟。だから世の中に訴える作品を作れるし、決定的な瞬間を切り取れるのだと思う。

果たしてルールを守らないカメラマンにそんな覚悟があるのか?
私はないと思う。

そこにあるのはおそらく自己満足とそこに付随するだけの承認欲求だけだろう。そもそも迷惑カメラマンの話は「みんながこぞって撮るもの」がある場所で起こる事だ。それはその人が絶対に撮らないといけないものだろうか?それを撮ることで自分の何かが表現出来るのだろうか?そんな事はないだろう。創意工夫が試されるという意味ではとても面白いのだろが、それ以上のものが生み出される訳ではない。その為にルールを破るのなら、それは糾弾されて然るべきだと思う。

鈴木達朗さんは通行人に迷惑だと感じられる事もありながらずっと活動してきたのだろう。だがそこを曲げずに自分の表現を貫いたことでvoid tokyoという日本のストリート写真の一つの文化を立ち上げたり、国内外で賞を獲得するに至っている。
「みんながやっているから」「SNSでいいねがもらえるから」という半端な気持ちでやっていては到達出来ない事だと思う。

という感じで、写真を撮る上での「迷惑」を考えてみた。
基本的には迷惑は掛けない方がそりゃいい。
みんなが笑顔になれたら素敵な事だ。

だが、どうしても表現をしたい事なら突き進んだ方がいいと私は思う。
真に表現をするなら、誰にでもハッピーが訪れるという事はない。
それで批判されたり罵られたりしても、覚悟を持って行っていればいずれ評価される時が来ると思う。

そして個人的には、迷惑を掛けるなら感謝をする事、そして他人の迷惑に寛容になる事、これを大事にしたいと思っている。


みんな暗黙の感じで譲り合っていて楽しい撮影だった(少なくとも私の周囲では)


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