『エノケンの千萬長者』(1936年・山本嘉次郎)

 それまで浅草を中心に活躍していたエノケンこと榎本健一だが、『どんぐり頓兵衛』公開直後の一九三六年2月には、初めて日比谷の有楽座に進出。松竹から貸し出されてという形だが、エノケン映画の人気の後押しもあって、ついに日本のブロードウェイと称された日比谷への進出は「事件」でもあった。有楽座といえばP.C.Lの母体でもある東京宝塚劇場と並ぶ直営の劇場。P.C.L映画のモダニズムがエノケンの舞台にフィードバックされたのがこの公演だった。(エノケンの劇団が東宝専属になるのは一九三八(昭和十三)年六月のこと)

 しかし、公演中の二月二十六日。反乱将校による「二.二六事件」が発生。モダニズムを謳歌していた時代にも陰りがさし始める。ともあれ、シネ・ミュージカルの花盛りとエノケンの丸の内進出が、映画にうまく反映されているのが『エノケンの千萬長者』だろう。

 オープニング。タキシード姿のエノケンが登場して「洒落男」の「千萬長者」バージョンを歌う。タキシード姿でのご挨拶は、ヤマカジ=エノケン・コンビ第一作の『青春酔虎伝』以来のこと。以後、時代劇でもオープニングにはしばしばタキシード姿のエノケンが登場することとなる。日本劇場では、同時上映が、エディ・キャンターの『當たり屋勘太』という、夢のような組み合わせで公開された。エノケン映画が目指したキャンター喜劇との同時上映は、象徴的な出来事だろう。

 「♪俺は千万長者 大ブルジョアの坊ちゃん 尋常小学校は八つの時に、堂々と無試験で入った」と主人公・江木三郎のこれまでの来歴が歌で紹介される。

 「洒落男」といえばエノケンのトレード・ソングでもあり、また盟友二村定一も歌っていた定番のジャズ・ソングであり、コミック・ソングの傑作である。オリジナルの「♪俺は村中で一番 モボだと云われた男」というフレーズは、はるか後、青島幸男が植木等のために書いた「無責任一代男」の「♪俺はこの世で一番 無責任といわれた男」とパロディで使われている。余談だが「無責任一代男」は「洒落男」の節回しで歌うことが出来る。偉大なるリスペクトということだろう。

 物語は、中学を卒業して大学に通うため、田舎から東京に戻ってきた三郎(エノケン)が、あまりにも質実剛健の精神を身に付けすぎたために、伯父・柳田貞一が、浪費や遊びを身に付けさせようとする。不良の家庭教師を募集するというアイロニカルな発想。

 江木の実家はデパートを経営する大富豪。その家庭教師募集の面接にずらりと並ぶ候補者たち。バックに流れるのは、キャブ・キャロウエイ楽団やデューク・エリントン楽団の演奏で知られる「セント・ジェームス病院」。チラリと数小節だけだが、ジャズ映画の気分が横溢している。

 また、江木が伯父のデパートの面接試験を受けるシークエンス。希望者が廊下にズラリと並ぶシーンに流れるのは「ルイジアナ・ヘイライド」。アーサー・シュワルツ作曲で、ボズウェル・シスターズなどが歌ったスタンダード。1953年のMGMミュージカル『バンドワゴン』のナンバーとしても知られる。

 ジャズ・ソングに溢れたこの『千萬長者』だが、いつにも増してBGMにハリウッド映画の匂いがする。例えばカフェーで流れるハリー・ウォレンの「泥酔夢」や、『續千萬長者』のクライマックスの親族会議のシークエンスで使われている「My.Baby Just Cares For Me」など。エノケン映画ではお馴染のコンポーザー、栗原重一の音楽と、専属のエノケン管弦楽団の演奏は、本国のそれと比べても遜色がない。

 見事、三郎の家庭教師に抜擢されたのは、色悪っぽい不良の魅力あふれるモボの三田(二村定一)。不良の第一歩はまずはウクレレからと「私の青空」を歌って教える三田。「だって僕、詩吟きりしかやったことないですよ」と躊躇する三郎。てんでダメなので、三田は三郎を夜の街に誘い出す。女給に踊りを誘われても「剣舞しか踊れない」と頑なな三郎。結局、朝帰りの三田と三郎。この落語的展開。

 千鳥足で「♪明け方に たどり着く わが家の塀の外」と「私の青空」の替え歌を歌いながら帰ってくる二人のデュエット。「♪広いながらも窮屈なわが家」と伸びやかに歌う掛け合いは、エノケン映画には不可欠なものとなっている。

 やがて三田は、三郎の実家が経営するデパートのファッション・ショウに出演。ジャズ・ソング「ミュージック・ゴーズ・アラウンド」をコーラス・ガールと楽しげに歌う二村定一。ハリウッド映画『粋な紐育っ子』(一九三六年)の主題歌としてハリー・ボーモントが歌い、ビング・クロスビーやレッド・ニコルズ楽団で知られるスタンダードだが、この年の七月に上演されたエノケンの舞台では定番の曲でもある。また、八月にポリドール専属となったエノケンが「浮かれ音楽」としてレコード吹き込みをしている。

 そして三郎と三田がファッション・ショウに出演。カンカン帽にディナー・ジャケットのモーリス・シュバリエ風のスタイルで、デュエットで「ユカレリ・ベビー」を歌う。ユカレリとはウクレレのこと。ファッション・ショウでのミュージカル・シーンという趣向は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの『ロバータ』(一九三四年)を意識したものだろう。このナンバーで前編は終わる。ハリウッドのシネ・ミュージカルを目指したエノケン映画が本家に近づいた幸福な瞬間である。

 そして二ヶ月後の一九三六年九月に公開された『續千萬長者』のオープニングは、都会的なP.C.L.映画のモダニズムを象徴する名シーンから始まる。例によって「洒落男」の「千萬長者バージョン」(正編との歌詞違い)に続いて、前編のあらましを紹介する場面。

 銀座四丁目、和光の前から車に乗った三郎。キャメラは車から、晴海通りを数寄屋橋方向に進む。省線(現・JR山の手線)のガードを抜け、日比谷映画方向に左折。『青春酔虎伝』を上映した洋画ロードショー館の日比谷映画劇場のアールデコ洋式の建物が左に見え、右には三信ビルが見える。さらに東京宝塚劇場を抜け、正面に帝国ホテル旧館がちらりと見え、みゆき通りを左折。再びガードを抜けて、泰明小学校の前を通り、外濠通りに出る。

 山本嘉次郎が憧れ、エノケンが映画進出を決意したP.C.L.映画のモダニズム。その集大成ともいうべきビジュアルがここにはある。そして前編から引き続き、ミュージカル・ショウが展開される。

 ハリウッド映画ではお馴染の黒塗りミンストレル・スタイルのエノケンが、農夫の衣装で「セント・ルイス・ブルース」を歌う。エノケンの語りによるイントロ。「♪夕陽を見ていると 僕は寂しいのよ」と語りを交えての、エノケン節によるジャズ・ソングである。切々たる思いの歌詞。場面はカフェーのおとしちゃん(宏川光子)となり「♪夕陽をみていますと」と「セント・ルイス・ブルース」の返歌となる。プロダクション・ナンバーと、心情の交換。

 やがて転調ともに複数の男女ダンサーたちが集まってきて、ダンス・シークエンスが展開。黒塗りのタップダンサーに続いて、やはり黒塗りの二村定一とエノケンが登場。二人のコミカルな掛け合いとなる。

 エノケン・二村「♪同じバンドで働く恋人同士」
 二村「♪男はバイオリン〜」(バイオリンの音色)
 エノケン「♪女はピアノ〜」(ピアノの旋律)

 二人の掛け合いに音楽が巧みに絡まって、ミュージカル的高揚感が盛り上がる。確かに、現在の目で見れば稚拙な部分は多々あるが、昭和十一年という時代のモダニズムの空気が、きちんとフィルムに焼き付けられている。

 この映画のサード助監督としてついたのが黒澤明と本多猪四郎。戦後の東宝映画を牽引していくふたりの作家はエノケン映画からそのフィルム・キャリアをスタートしたのである。彼らはエノケン映画で「映画のなんたるか」を知り、黒澤は『天晴れ一心助』(一九四五年)などエノケン映画の脚本を手がけ、やがて『虎の尾を踏む男たち』(一九四五年)で和楽を使ったニッポン・ミュージカルを試みる。もちろん主演はエノケンだった。 

 こうしてヤマカジ=エノケン・コンビが創出したエノケン映画は、P.C.L.最大のドル箱として、一年に二本というペースで作られ続けることになる。山本嘉次郎は東宝の看板監督となり、エノケン映画には若手監督たちも参加することになる。


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