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ライオンが吼える時:MGM映画の歴史

ご案内:佐藤利明(娯楽映画研究家)

 この「ライオンが吼える時:MGM映画の歴史」は“天上の星より勝るスター”を誇ったメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社の歴史を、6時間にまとめたスペシャル・プログラムである。製作は1992年、MGM映画がビデオグラムとしてリリースされ、世界中の若い世代にも気軽に楽しめるようになっていた時代、アメリカで放映され、ソフトリリースされた作品。残念ながら日本では観ることはできず「幻のドキュメンタリー」として、ソフト化が待望されていた。

 1924年のMGM創設から1992年までの、人々の映画にかける熱意、野心、そして裏側をさまざまなエピソードで紹介。眼で観て、心で感じることができる立体的な映画史となっている。

 案内人は、パトリック・スチュワート。1987年にスタートしたテレビ「新スタートレック」のジャン=リュック・ピカード艦長を演じ、スターの仲間入りを果たしたが、もともとはロイヤル・シェイクスピア・カンパニー所属の舞台俳優。1940年イギリスのヨークシャーの生まれというから、リアルタイムでMGM映画をスクリーンで楽しんだ世代にあたる。

*2009年に限定発売されたDVD「ライオンが吼える時:MGM映画の歴史」(ワーナーホームビデオ)のブックレットのために執筆した原稿を加筆修正しました。

第1部 LION’S ROAR エンタテインメントの始まり

第1部では、1924年、鉄屑業者だったルイス・B・メイヤーがメトロ・ゴールドウィン・メイヤーを創設。神童と呼ばれた、24歳の青年、アーヴィング・サルバーグを右腕に、MGM映画でスターを育て、数々のヒット作を放っていった草創期から、1936年のサルバーグの死までを振り返る。

 【MGMの始まり】

 MGMは1924年5月24日、メトロ・ピクチャーズ・コーポレーション(15年設立)と、サミュエル・ゴールドウィンのゴールドウィン・ピクチャーズ・コーポレーション、そしてルイス・B・メイヤーのルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの三つの映画スタジオが合併して設立された。それぞれの頭文字をとり、最後のMはメイヤーの頭文字。MGMの親会社は、アメリカで最大の劇場チェーン、マーカス・ロウのロウズ社で、すべてにおいて豪華主義の映画会社として、ほどなく世界中にその名が知れ渡る。その祝賀会では、司会のウィルロジャースが馬に乗って、6人のスター、6つのステージ、600人の従業員を紹介した。

 最初に登場するゲストのヘレン・ヘイズ(00〜93)は、5歳で舞台初出演、9歳でブロードウェイに進出、その全盛期には“ブロードウェイのファーストレディ”と称され、1928年に劇作家チャールズ・マッカーサーと結婚してハリウッドへ。 夫が脚本を書いた『マデロンの悲劇』(31)でアカデミー主演賞を獲得している。
 MGM最初のヒット作『殴られる彼奴(あいつ)』(24)は、『野いちご』(57)などのスエーデンの名匠・ヴィクトル・シェストレムがハリウッドで発表した問題作。“殴られる彼奴”と呼ばれるサーカスのピエロ(ロン・チェイニー)が、元は有能な科学者だったが、その研究や妻を人に奪われてしまい身をやつしているという物語。日本では1926(昭和2)年に公開されている。
 続くゲストは、俳優のリュー・エアーズ(08〜96)。 ユニバーサルの『西部戦線異常なし』(30)、MGM映画ではグレタ・ガルボの『接吻』(29)に出演したエアーズが初期のMGMスタイルについて語る。

 【『ベン・ハー』と『ビッグ・パレード』】

サイレント期の異才・エリッヒ・フォン・シュトロハイムとサルバーグのユニバーサル時代の確執と、MGMでの『グリード』(25年)の、原作を忠実に再現しようとしたシュトロハイムの執念が、ゲストのサミュエル・マークス(02〜92)によって紹介される。マークスは、コロムビアの”Night Mayor“(32)などのストーリー・エディターをつとめた人。
 『ベン・ハー』について語るゲストのジョー・コーンは、クラーク・ゲーブル、ジーン・ハーローの『支那海』(35)などのプロダクション・マネージャーをつとめた人。
 サルバーグのお気に入り『ビッグ・パレード』(25)のパートでは、監督のキング・ビダー(94〜82)がゲストとして登場。ビダーは、サイレントからトーキー、ワイドスクリーンの大作時代まで活躍した演出家。 MGMではトーキー初期に、オール黒人キャストのミュージカル『ハレルヤ』(29)を発表。リリアン・ギッシュ主演の『ラ・ボエーム』(26)、ウォレス・ビアリーの『チャンプ』(31)の監督としても知られる。

【神聖ガルボ帝国】

 サルバーグの人柄について語るのは、編集のマーガレット・ブース(98〜2002)。彼女はグレタ・ガルボの『スーザン・レノックス』(31)や『椿姫』(36)、クラーク・ゲーブルの『戦艦バウンティ号の叛乱』(35)、ノーマ・シアラーの『ロミオとジュリエット』(36)など、サルバーグ時代のMGM映画の編集を手がけた人。
 ガルボのサクセス・ストーリーと、ジョン・ギルバートとのロマンスについてのコーナーで、モノクロ映像のゲストとして登場するのは、クラレンス・ブラウン監督(1890〜87)。『肉体と悪魔』(27)、『アンナ・クリスティ』(30)、『アンナ・カレニナ』(35)でガルボを演出。戦前、映画評論家の筈見恒夫が「神聖ガルボ帝国」と命名したことでも、日本でもグレタ・ガルボは気高く神秘的な存在だったことがわかる。その頃、MGM映画はメトロ映画と呼ばれ、東京丸の内の大きな劇場などで公開され、絶大な人気を誇っていた。ガルボ&ギルバートの“セルロイド・ロマンス”を紹介するのは、1920年代から30年代にかけて活躍した女優エレノア・ポードマン(1898〜1991)。夫のキング・ビダー監督の『群衆』(28)や、ヘンリー・キング監督の『彼女は戦ひに行く』(29)などに出演、ガルボと同時代を生きた女優である。

【ある時代の終焉とトーキー時代の到来】

 1927年、MGMのオーナーのマーカス・ロウが亡くなり、新社長としてニコラス・スケンクが就任。この後、メイヤーとスケンクは、1950年代まで反目し合うこととなる。1925年にメイヤーと契約し、『ラ・ボエーム』(26)に主演したのが、銀幕の名花・リリアン・ギッシュ(1893〜93)。DW・グリフィス監督の『散り行く花』(19)や『嵐の孤児』(21)で知られる大女優で、グリフィスと別れた後、MGMと契約。『真紅の文字』(26)などに出演。ここではご本人がゲストとして登場。

 そして時代はトーキーを迎える。『ハリウッド・レヴィュー』(29)に始まる、MGMのトーキーはミュージカル時代の幕開けだった。この映画からMGMのテーマソングともいえる「雨に唄えば」が誕生。その作詞を手がけたアーサー・フリードが1940年代のMGMミュージカルをプロデューサーとして牽引していくことになる。 やがて「神聖ガルボ帝国」にも、ついにトーキーの波が押し寄せる。『アンナ・クリスティ』の宣伝文句“Galbo Talks”は、まさしく彼女の威光を感じさせる。

【メイヤーという伝説】

 1930年代前半のMGM映画は、ほぼ同時期に日本でも公開されていた。その中でも、昭和7(1932)年に公開された『チャンプ』(31)でウォレス・ビアリー扮するボクサーの息子を演じていた、名子役ジャッキー・クーパー(22年〜)が語るメイヤー像は興味深い。

 ガルボと並ぶMGMのトップ女優、ジョーン・クロフォード(04〜77)がゲストとして語るのは、自らの女優人生。ダンサー時代にMGM幹部にスカウトされ、本名のルシール・フェイ・ルスールのまま『美人帝国』(25)で初出演。同年の『三人の踊り子』でジョーン・クロフォードとなる。神秘的なガルボに対して、クロフォードは都会的近代女性が多かった。日本の映画雑誌の人気投票でも常に上位をキープしていた。

 MGMを代表する男性スターは、なんといってもクラーク・ゲーブル。子役だったクーパーがゲーブルを語り、名場面集が展開される。そして名優ライオネル・バリモアが、『自由の魂』(31)などの名場面と、ジャッキー・クーパーのコメントとともに紹介される。

【神童サルバーグ】

 かつて“神童”と呼ばれたサルバーグが、フォーチュン誌に“天才”と讃えられたのが1932年のこと。サルバーグの想い出を語るゲストは「ターザン」シリーズのジェーン役で知られ、またミア・ファーローの母でもある女優・モーリン・オサリバン(11〜98)。この頃のMGMは、花形女優ノーマ・シアラーの『結婚草紙』(30)のようなスター映画中心。ゲストのヘレン・ヘイズが主演した『マデロンの悲劇』(31)もその一本。

 【ターザン映画への道】

 タヒチにロケーションを敢行し、南海映画の嚆矢となったのが S・W・ヴァン・ダイク二世監督の『南海の白影』(31)。この映画の驚きを語るのがMGMの名子役だったフレディ・バーソロミュー(24〜92)。ヴァン・ダイク監督の『トレイダ・ホーン』(31)は、世界中の観客のアフリカ探検や猛獣への興味をかき立て、日本でも大評判となる。この時の未使用フィルムを再利用して作られたのが、ジョニー・ワイズミューラー主演の「ターザン」シリーズ。“エイプ・コール”と呼ばれた独特の雄叫びについてワイズミューラー自身が回想し、ジェーン役のモーリン・オサリバンが想い出を語る。ターザン映画は、ワイズミューラーが演じただけでも、『類猿人ターザン』(32)から『絶海のターザン』(48)まで11本にも及ぶ。

 【MGMが映画スタイルを作った】

 映画界では監獄映画を「ビッグ・ハウスもの」、オールスター映画のことを「グランド・ホテル形式」と呼んでいるが、いずれもサルバーグが製作したMGM作品が由来。ウォレス・ビアリー主演の『ビッグ・ハウス』(31)は、後の監獄映画のルーツとなった。後者はグレタ・ガルボ、ジョーン・クロフォードはじめとする“天上の星より勝るスター”を擁したMGMこその『グランド・ホテル』(31)。70年代のパニック映画でおなじみオールスター映画のスタイルを作り、1989年にはブロードウェイでミュージカル化もされた。その公開の三ヶ月後、サルバーグが心臓発作で倒れ、それを機に製作のトップから外されてしまったことは、MGM映画の危機でもあった。上質な作品で観客を呼ぼうとするサルバーグと、量産至上主義の上層部の軋轢が、ここで一気に噴出する。

【「神聖ガルボ帝国」の復権】

 一方、「神聖ガルボ帝国」を代表する『クリスチナ女王』(33)、『アンナ・カレニナ』(35)などが続々と作られていた。エレノア・ボードマン、モーリン・オサリバンが1930年代のガルボについて語る。
 また、メイヤーの娘婿・デヴィッド・O・セルズニックが『グランド・ホテル』形式を踏襲して製作したジョージ・キューカー監督の『晩餐八時』(34)は、ジーン・ハーロー、ウォレス・ビアリー、マリー・ドレスラーらMGMの個性派スター総出演のコメディ。キューカー監督は、フレディ・バーソロミューの『孤児ダビド物語』(35)など、セルズニック作品を支えていくことになる。
 サルバーグとメイヤーのパートナーシップが崩れた1930年代半ば。サルバーグの抜群のプロデューサー感覚健在を証明したのが、エルンスト・ルビッチ監督の『メリー・ウィドウ』(34)。ジャネット・マクドナルドとモーリス・シュバリエのコンビの良さもあって、後のMGMミュージカルの原点的作品となった。

【神童サルバーグの白鳥の歌】

 サルバーグの最大の功績の一つが、『我が輩はカモである』(33)などパラマウントで5作撮っていたマルクス兄弟の移籍だった。アナーキーなコメディチームとオペラ、かけ離れた題材のミクスチャー『マルクス兄弟 オペラは踊る』(35)のアイデアはコロンブスの卵。その成功は歴史が証明している。三男グルーチョ・マルクス(1890〜77)が語るサルバーグへのいたずらは、兄弟の偉大なプロデューサーへの愛が感じられる。

 ほぼ同時期にサルバーグが手がけた海洋活劇『戦艦バウンティ号の叛乱』(35)は、日本では『南海征服』として1938(昭和13)年に公開されている。 クラーク・ゲーブルが演じるのは、チャールズ・ロートンの船長に反旗を翻す“叛乱のアンチ・ヒーロー”。当時のメイヤーのモラルに反するものだが、映画本来の魅力に溢れている。編集に携わったマーガレット・ブースの貴重な証言と、アカデミー賞を受賞するサルバーグの晴れがましい姿が印象的。

 天才と賞賛された神童サルバーグは、シェイクスピアの映画化『ロミオとジュリエット』(36)を大成功させ、その公開の三週間後、1936年9月14日、37歳の若さで病没。メイヤーとともにMGM創設から参加し、MGM映画のスタイルを作ってきたサルバーグの死は、一つの時代の終焉でもあった。

第2部 THE LION REGINS SUPREME/MGMスタイルの確立 PART1

 第2部はサルバーグの死のショックを乗り越えて、メイヤーが進めていくMGM映画の戦略数々と、そのなかで確立されていくMGMカラー、MGM映画のスタイルを、名場面の数々と貴重な証言で紹介していく。

【MGM映画のゴージャスさ】

 フランスの名匠ジュリアン・ディヴィヴェを招聘した『グレート・ワルツ』(38)が日本で公開されたのは、1939(昭和14)年。ヨハン・シュトラウスの伝記をロマンスと名曲誕生の瞬間を交えて描く。ここで、後のMGMミュージカルが得意とする音楽家の伝記映画スタイルが確立する。

 その豪華さについて語るのは、1940年代、第二次世界大戦中のMGM映画で、トム・ドレイクと並ぶ二枚目だったヴァン・ジョンソン(16〜2008)。 戦後間もなく日本公開された『姉妹と水兵』(43)やジーン・ケリーとの『ブリガドーン』(54)で親しまれたミュージカル俳優であり、『東京上空三十秒』(45)や『戦場』(49)など戦争映画でも活躍。第2部に登場するジョンソンのコメントは、彼自身MGM映画が大好きだったことがよくわかる。

 MGMの夢の世界を作った、美術のセドリック・ギボンズ、衣装のエイドリアン、そして撮影のウイリアム・ダニエルズ、ジョセフ・ルッテンバーグ、カール・フロイント、ジョージ・フォルシー、ハロルド・ロッサンの仕事ぶりが紹介される。そのルッテンバーグが撮影したのが、フレッド・アステアとエレノア・パウエルのミュージカル『踊るニュウ・ヨーク』(40)。ゲストはメキシコ出身でMGMミュージカル『闘牛の女王』(47)、『水着の女王』(49)のリカルド・モンタルバン(20〜2009)。

 衣装のエイドリアンについて語るのは、メイクアップセクションで長年活躍したウイリアム・タトル(12〜2007)。『オズの魔法使』(39)から『サマーストック』(50・未)にかけてのジュディ・ガーランドのメイクを担当、1980年代まで活躍したベテラン。

 美術監督のセドリック・ギボンズもまたMGM映画のルックを作った功労者。その美術スタイルについて、モーリン・オサリバンに続いて語るのは、『オズの魔法使』(39)のアートディレクター、背景美術のジョージ・ギブソン。MGM美術部の一流ぶりについて、『踊るアメリカ艦隊』(36)や『巨星ジーグフェルド』(36)の豪華な映像で紹介していく。

【メイヤーのMGMスタイル】

 サルバーグが遺したガルボ映画の企画『椿姫』(37)は、「神聖ガルボ帝国」の伝説を持続させるには十分だった。サルバーグの早世を惜しむゲストは、パール・バック文学の映画化『大地』(37)で、アカデミー賞に輝いた女優・ルイーゼ・ライナー(1910〜)。彼女は翌年の『グレート・ワルツ』(39)でも二年連続オスカーを受賞。メイヤーと彼女の確執も、この時代のスターの在り方を示唆して興味深い。

【サルバーグ後のMGM】

 続いて“気分屋のショーマン”メイヤーのスタイルと人柄について語るのは、第1部に続いて登場のモーリン・オサリバン、フレディ・バーソロミュー、ヘレン・ヘイズ。愛憎半ばのコメントに、MGMの巨人の実情が見えてくる。

 そして『サラトガ』(37)などで、クラーク・ゲーブルと共演したMGMのセックスシンボル、ジーン・ハーローの死によって、サルバーグが作り上げた時代が本格的に終焉を迎える。ゲストのミッキー・ルーニー(1920〜)は、ジュディ・ガーランドとのコンビの『青春一座』(38)など「裏庭ミュージカル」、 『初恋合戦』(38)など「アンディ・ハーディ」シリーズで知られる。

 低予算でしかも庶民の心を掴むファミリー映画は1940年代にかけてのMGMの一つのジャンルをなした。その体制のなかから、ジュディ・ガーランド、エリザベス・テーラー、ジェーン・パウエルといった時代を象徴するスターが誕生。MGMには、子役専門の学校が設けられて、撮影の合間にはきちんと教育が受けられるような体制がとられていたという。

【人気シリーズの時代】

 ウイリアム・パウエルとマーナ・ロイの夫婦探偵が活躍する「影なき男」シリーズは「マルタの鷹」のダシール・ハメット原作。1936年から1947年にかけて6本が作られた。コメントはノラ役のマーナ・ロイ(05〜93)。その第1作『影なき男』(34)は翌1935(昭和10)年に日本公開。マキノ正博監督が、第二次大戦中の1942(昭和17)年に発表した『待って居た男』(東宝)は、『影なき男』にインスパイアされ、長谷川一夫と山田五十鈴をニックとノラに見立て撮った時代劇として知られている。

 リュー・エアーズの当たり役「ドクター・キルディア」も、この頃のヒットシリーズ。「影なき男」と共に、1950年代にテレビ映画化されることになる。

 1930年代のMGM名物の一つが、ジャネット・マクドナルドとネルソン・エディによるオペレッタ。『浮かれ姫君』(35)、『ローズ・マリイ』(36)、『君若き頃』(37)は、日本でもほぼ同時期に公開され、華やかなオペレッタ映画は、宝塚などのわが演劇界にも大きな影響を与えている。

【新しいスターの発掘】

 MGM英国スタジオで製作された、ロバート・テイラーの『響け凱歌』(38)で“発見”されたヴィヴィアン・リーは、『風と共に去りぬ』(39)のスカーレット・オハラ役に抜擢される。

 また、イギリスで見いだされたグリア・ガースンは、ロバート・ドーナットのアカデミー主演賞を受賞『チップス先生さようなら』(39)に出演。その頃の事情を語るゲストは、同作で生徒役として出演していたイギリス生まれの子役出身のロディ・マクドゥール(28〜98)。

 サルバーグの人材発掘によって、MGMの顔となった個性派スターがスペンサー・トレイシー。フリッツ・ラングの衝撃作『激怒』(36)でMGMにお目見えした。彼がオスカーを獲得した『我は海の子』(37)で共演したフレディ・バーソロミューが語るトレイシー像は、妥協知らずの役者魂を感じさせてくれる。ミッキー・ルーニー共演の『少年の町』(38年)のフラナガン神父は、トレイシーの当たり役となり、続篇『感激の町』(41)も作られることになる。『少年の町』の脚本は、1940年代後半からMGMの製作担当重役となるドア・シャーリー(05〜80)が手がけている。


第2部 THE LION REGINS SUPREME/MGMスタイルの確立 PART2

【『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』】

 『踊る不夜城』(37)で「♪いとしのゲーブルさん」を歌い、『青春一座』(39)で「♪グッド・モーニング」を歌ったジュディ・ガーランドは、MGMを代表するミュージカル女優。やがてMGMのシンボル的な作品『オズの魔法使』(39)でドロシー役に抜擢され「♪虹の彼方に」歌って世界のアイドル的存在となり、1940年代を駆け抜けることになる。彼女について語り唄うのは、マンチキンの国の「ペロペロ飴組合」の1人を演じたジェリー・マーレン(1920〜)。

 1939年、映画史を飾る最高傑作の一つをMGMが世に送り出した。メイヤーの娘婿デヴィッド・O・セルズニック製作、ヴィクター・フレミング監督の『風と共に去りぬ』である。アトランタでのプレミアの模様に続いて、『愚者の歓喜』(39・未)の「♪リッツで踊ろう」にのせてクラーク・ゲーブル名場面集が展開される。
 『オズの魔法使』が日本で初公開されたのは、1954(昭和29)年。製作後15年経ってからのこと。同様に『風と共に去りぬ』も1952(昭和27)年まで公開されることはなかった。戦前の公開予定だったが、第二次世界大戦の勃発により叶わぬことになった。戦時中、小津安二郎監督がシンガポールで『風と共に去りぬ』を見て驚嘆したという。

【MGM女優競演の宴】

 『風と共に去りぬ』の現場で実質的に演出していた名匠ジョージ・キューカーの代表作の一つで、ノーマ・シアラー、ジョーン・クロフォードなどMGMの女優をズラリと揃えた『The Women』(39)は、残念ながら日本では未公開。

 この映画を最後に、サルバーグの妻だったノーマ・シアラーはMGMを去り、ジョーン・クロフォードも1943年にMGMを去る。そしてグレタ・ガルボは、ビリー・ワイルダー脚本、エルンスト・ルビッチ監督の『ニノチカ』(39)でコメディに挑戦、大成功を収めるが、続く『奥様は顔が二つ』(41)を最後に女優から引退、自らが生きるハリウッドの伝説となった。『ニノチカ』は、後にフレッド・アステアとシド・チャリシーの『絹の靴下』(57)としてミュージカル・リメイクされることになる。

【新時代のピンナップガール】

 1940年代、MGMミュージカルで可憐な魅力を振りまいた『姉妹と水兵』(43年)や『百万人の音楽』(44)のジューン・アリスン(17〜2006)が、ファン雑誌の表紙を彩ったムービー・スターの時代を語る。
グラビア・スターのトップは『美人劇場』(47)の銀幕の美女・ラナ・ターナーだった。やはり『美人劇場』で美しさを振りまいた、ヘディ・ラマーのエキゾチシズムは、1940年代のMGMの象徴でもあった。

【キャサリン・ヘップバーンの時代】

 その一方で、実力派女優キャサリン・ヘプバーン(07〜2003)が、ジョージ・キューカー監督『フィラデルフィア物語』(40)でMGMに出演。本人がコメントゲストとして登場する。やがてMGMのドル箱となるヘップバーンとスペンサー・トレイシーのコンビ作は、『女性NO,1』(42)、『アダム氏とマダム』(49)などMGMだけでなく、トレイシーの遺作となったコロムビアの『招かれざる客』(67)まで、9本作られることになる。ジョージ・キューカー監督(1899〜83)がコメントゲストとして想い出を語る。

【MGM映画と第二次世界大戦】

 やがてヒトラーがポーランドへ侵攻、第二次世界大戦が始まると、ハリウッド映画はプロパガンダを担うことになる。イギリス空襲を描いた『マーガレットの旅』(42)では、名子役マーガレット・オブライエンが出演。グリア・ガースンがオスカーを受賞した『ミニヴァー夫人』(42)などの時局映画が製作された。

 ジェームズ・スチュワートの入隊に続き、妻キャロル・ロンバートの死で失意のどん底のクラーク・ゲーブルが入隊、ロバート・テイラーたちMGMスターが続々と戦争に参加。その間のスター不在を補ったのが、『姉妹と水兵』(43)のヴァン・ジョンソン。『町の人気者』(43)で、自分が演じた役が戦死したエピソードを語って、本人が思わず涙ぐむのが印象的。

【動物と子供】

 コメントゲストとして出演しているロディ・マクドウォールが出演した『名犬ラッシー/家路』(43)は、戦時中から戦後にかけての、MGMのファミリー路線のきっかけとなった動物映画。製作はコメントゲストのサミュエル・マークス。この成功により、エリザベス・テーラーの『緑園の天使』(44)、グレゴリー・ペックの『仔鹿物語』(46)が作られることになる。この三作は、世界中の人々に今なお愛され続けている。

第3部 THE LION IN WINTER/そして現在へ

 メイヤーとサルバーグが築き上げたMGM王国は、戦後の波のなかで翻弄されていく。しかし同時にMGMが誇るミュージカル映画というジャンルが撩乱。卓抜したエンタティナーたちのパフォーマンスがスクリーンで披露され、世界中の映画ファンを魅力していった。やがて短い夏が終わり、映画界そのものに秋風が吹き、厳しい冬の時代を迎えていくことになる。

【フリード・ユニットとMGMミュージカル】

 MGM創立25周年パーティに集まるスターたち。まさしくキラ星のごとく輝いている。夢の工場の様子を語るのはリカルド・モンタルバン。 ジーン・ケリーとともに『踊る大紐育』(49)や『雨に唄えば』(52)で MGMミュージカルを支えたスタンリー・ドーネン監督(1924〜)。そして“水着の女王”ことエスター・ウイリアムズ(1922〜)の三人。

 MGMミュージカルの中心的人物といえばプロデューサーのアーサー・フリード。元は作詞家だったが、アシスタント・プロデューサーとして参加した『オズの魔法使』と『青春一座』(39)の成功により映画製作を任される。やがてジーン・ケリーやヴィンセント・ミネリ監督といった逸材をニューヨークから招聘、人材を充実させた。ジュディ・ガーランドを中心に1940年代、ミュージカルが量産され、なかでもヴィンセント・ミネリ監督による『若草の頃』(44)の成功は、フリード・ユニットと呼ばれた製作チームの勝利でもあった。

 その『若草の頃』が縁で、ジュディと結婚したヴィンセント・ミネリ(03〜86)は、ブロードウェイで衣装デザイナー、舞台の美術監督を歴任、ハリウッドに招かれて『キャビン・イン・ザ・スカイ』(43)で監督デビュー。ジュディの想い出について語る貴重なインタビューは見もの。ここで紹介される「♪隣の彼氏」「♪トロリー・ソング」「♪ハブ・ユア・セルフ・メリー・リトル・クリスマス」は『若草の頃』の名曲。ちなみに二人の娘がライザ・ミネリ。引き続きコメントするドロシー・レイとドロシー・タトル(18〜98)の二人は『若草の頃』や『The Harvey Girls』(46)でジュディ・ガーランドと共演したMGM専属ダンサー。

 創立20周年を記念して企画された大作レビュー映画『ジーグフェルド・フォーリーズ』(46)は、当初1943年の公開を目指して作られていたが、様々なトラブルに見舞われ、最終的にミネリが仕上げた。ジュディの「♪偉大な女性のインタビュー」が紹介される。製作の裏側について、メイクアップを手がけたウイリアム・タトルが語り、「♪ビューティ」のバブルマシンの顛末について、MGMが誇る美脚ダンサーのシド・チャリシー(21〜2008)が語る。

【ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンの革新】

 MGMミュージカルは、ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンという二人の才能によって、さらなる開花を遂げる。『錨を上げて』(45)のケリーとアニメのジェリーのダンス裏話をドーネン、「トムとジェリー」のクリエイター、ウイリアム・ハンナ(10〜2001)とジョセフ・バーバラ(11〜2006)が語る。

 この『錨を上げて』を製作したジョー・パスタナックは、ユニバーサルでディアナ・ダービンをスターに育てた人。クラシック音楽を愛したその大衆路線は、『姉妹と水兵』(43)のオールスター映画を観て、『錨を上げて』のソプラノ歌手・キャサリン・グレイスン『スイングの少女』(50)のジェーン・パウエルの歌声などを聞けば、ダンス中心のフリード映画との違いは一目瞭然。この二人によって、MGMミュージカルが充実していくことになる。

 またフランク・シナトラは、当時空前絶後の人気を誇った若手歌手。『錨を上げて』や『下町天国』(47)、『私を野球につれてって』(49・未)、『踊る大紐育』(49)などで、ダンスや演技も開眼。後の俳優人生のきっかけとなった。元水泳選手のエスター・ウイリアムズの一連の水中バレエ映画もMGMミュージカルの花形だった。その数々の裏話を本人が語りながら、『百萬弗の人魚』(52)などのクライマックスが展開される。」

【MGM王国の陰り】

 MGMのゴージャスな映画作りに陰りが見え始めたのが、第二次大戦後の1940年代半ば。マーヴィン・ルロイ監督の『心の旅路』(42)などの良質の作品は、製作費に糸目をつけないメイヤーのやり方で作られてきた。しかし大衆の好みが変化し、ニューヨークのニコラス・スケンクと往年のスタイルを維持しようとするメイヤーの軋轢はますます大きくなる。

 ジョー・パスタナック製作、フンク・シナトラとキャサリン・グレイスン主演のミュージカル『The Kissing Bandit』(48年)は、失敗作の烙印を押されてしまう。フリード・ユニットのヴィンセント・ミネリ監督の『踊る海賊』(48年)もまた巨額の製作費をかけ、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーランドの魅力を凝縮した傑作となったが、当時は興行的に失敗。

 失敗のテコ入れとしてスケンクが投入したのが、RKOの製作担当重役ドア・シャーリー。メイヤーとは、イデオロギーも映画に対するスタンスも正反対のシャーリーが映画に求めたのはリアリズム。二人の資質の違いについて語るのは、『踊る不夜城』(37)などで活躍、後に政治家となるジョージ・マーフィ(02〜92)。マーフィは、シャーリー製作の『戦場』(49年)に、ヴァン・ジョンソン、リカルド・モンタルバンとともに出演。その製作の裏側を語る。

 そのシャーリーのリアリズムに対抗したのが、メイヤーの“THERE'S NO PLACE LIKE HOME”(=お家がいちばん/『オズの魔法使』のテーマ)スタイルのファミリー映画。『若草物語』(49年)は、ジューン・アリスン、ジャネット・リー、マーガレット・オブライエン、エリザベス・テーラーたち若手女優の競演による華やかな作品。

【ジュディ・ガーランド】

 シャーリー派とメイヤー派に分かれた1940年代末。メイヤー派のアーサー・フリードが、次々と傑作ミュージカルを製作。1950年代、MGMミュージカル最後のスターとなったデビー・レイノルズ(1932〜)は、テレビに出たいと会社に申し出たエピソードを語る。テレビの台頭と映画の沈滞について、MGMの広報担当だったジム・マホニーが解説する。

 キャメラを屋外に持ち出した『踊る大紐育』(49)をはじめとするミュージカルで、フリード・ユニットは充実していた。1950年アカデミー生涯功労賞を受賞したメイヤーの功績を、ジム・マホニーのコメントと、MGMスターの名場面で紹介。『踊る海賊』の「♪ビー・ア・クラウン」、アステア&ジュディの『イースター・パレード』(48)の「♪ミシガンへ帰りたい」などを唄ったジュディ・ガーランドについて、ジーン・ケリー(12〜96)、ヴィンセント・ミネリ監督が語る。『ザッツ・エンタテインメント PART3』でも紹介されていた「アニーよ銃をとれ」のジュディ降板の顛末について、スタジオ責任者だったドア・シャーリーのコメントは、ファンにはささか切なく感じる。40年代の終焉と共に、ジュディ・ガーランドの時代が終わりを告げる。『サマーストック』(50)の「♪フレンドリー・スター」、『ガール・クレイジー』(43)の「♪バット・ノット・フォーミー」と、ミッキー・ルー二—のコメントで、コーナーは幕を閉じる。

【メイヤーの時代の終焉】

 ドア・シャーリー体制になって、MGM映画は夢のような世界だけでなく、リアリティのあるメッセージ性の強い、社会派映画がメインとなってくる。ジョン・ヒューストン監督の『アスファルト・ジャングル』(50)と『勇者の赤いバッチ』(51)は、それまでのMGM映画にはないリアルな描写で、高い評価を受けることになる。ゲストのジョン・ヒューストン監督(06〜87)が、メイヤーとシャーリーの対立、そして自分とメイヤーの戦いについて語るのは、いかにも男性派のヒューストンらしいコメント。

 1951年6月23日、メイヤーは解雇され、MGMの黄金時代はひとまず終焉を迎える。メイヤーの辞任スピーチが紹介されるが、映像は雄弁、その寂しさと敗北感がひしひしと伝わって来る。ゲストは『暴力教室』(55)のリチャード・ブルックス監督(12〜92)。MGMではエリザベス・テーラーの『雨の朝巴里に死す』(54)や『熱いトタン屋根の猫』(58)などを演出した新世代の監督と、旧世代のプロデューサーのひとときの邂逅が語られる。

 シャーリーは、メイヤーとサルバーグが作り上げた娯楽映画路線にも力を入れた。スチュワート・グレンジャーの剣戟映画『血闘(スカラムーシュ)』(52)、クラーク・ゲーブルの『モガンボ』(53)、カーク・ダグラスの『悪人と美女』(52)、『フィラデルフィア物語』(40)のミュージカル・リメイク『上流社会』(56)などなど、いずれもこの時期のMGMを代表する作品となった。

 そして、1950年代前半はミュージカルがさらに充実。『ショウ・ボート』(51)は、エドナ・フーバー原作ミュージカルの三度目の映画化にして、ナンバーも規模もグレードアップ。そしてジーン・ケリーの野心とヴィンセント・ミネリ監督の美術センス、ジョージ・ガーシュインの音楽による『巴里のアメリカ人』(51)は、アカデミー作品賞を獲得。クライマックスの18分におよぶ「♪パリのアメリカ人バレエ」の大胆な試みは、ミュージカルの革命でもあった。

【『雨に唄えば』とMGMミュージカルの成功】

 フリード・ユニットによるMGM映画の黄金時代へのオマージュを込めた傑作が『雨に唄えば』(52)。ジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンによるミュージカル・コメディは、1920年代末のトーキー移行期のドタバタをフリードが作詞した名曲の数々で綴る、いわば極めつけのMGMミュージカルだった。ドーネン監督とヒロインを演じた当時まだ新人だったデビー・レイノルズが語る製作の裏側は、現場の熱気を感じさせてくれる。

 余談だが、これらのMGMミュージカルは、日本では昭和20年代に一挙に公開された。『若草の頃』(44)から『雨に唄えば』にかけてのMGMミュージカルのエポックがまとめて公開されることで、日本のポピュラーシーンにも大きな影響を与えた。その頃の日本では、映画音楽も含めた洋楽を幅広く“ジャズ”と呼んでいた時代だが、日本の歌手たちがMGMミュージカルのナンバーを日本語でカバーしたものがラジオなどで流れ、スタンダードとして浸透していった。

 【映画の大型化と資質の変化】

 テレビに対抗するべく、この時期、次々と横長のワイド(MGMではメトロスコープと呼んでいた)映画が大型化されることとなった。スタンリー・ドーネンの『掠奪された7人の花嫁』(54)や、ヴィンセント・ミネリの『ブリガドーン』(54)などは設備対応していない劇場のため、スタンダードサイズと2タイプ撮影していたというから、現場の混乱が想像される。『掠奪された7人の花嫁』のスペシャルコレクションDVDには、未上映に終わったスタンダード版(といってもヨーロッパビスタサイズ)が収録されている。

 相次ぐスターの契約解除を経て、新時代のMGMを支えたのは、ニューヨークのアクターズ・スタジオ出身のポール・ニューマン、マーロン・ブランド、モンゴメリー・クリフトといった実力派の俳優たち。ポール・ニューマンの『傷だらけの栄光』(56)のリアリズム。リチャード・ブルックス監督の『暴力教室』(55)がもたらしたもう一つの変革は、主題歌「♪ロック・アラウンド・ザ・クロック」でのロックの誕生=音楽革命だった。

 その革命児がキング・オブ・ロックと後年謳われることになるエルヴィス・プレスリー。『監獄ロック』(57)は、MGMミュージカルの リチャード・ソープが監督。長年培ったミュージカルのノウハウが活かされ、エルビスのカリスマ性と音楽性により、プレスリー映画がドル箱として連作されることになる。

 レジャーの多様化、テレビの普及により、映画の斜陽化に歯止めがかからなくなって、シャーリーは1956年に退陣。そうしたなかMGM大作の復活を目指して『愛情の花咲く樹』(57)で起死回生を図るも、結果的に失敗してしまう。

【テレビへの進出】

 そして1957年10月29日、ルイス・B・メイヤーが72歳で白血病で亡くなる。その死について、ミッキー・ルーニーとジョージ・マーフィ、ジューン・アリスンがコメントをする。

 MGMは時流にのってテレビに進出。1930年代の二大シリーズのリメイクは、海外セールスも含めて好調となる。ピーター・ローフォードとフィリス・カークの「影なき男」(57〜59)、日本でも大ヒットしたのが「ドクター・キルディア」(61〜66)。キルディアを演じたリチャード・チェンバレン(1934〜)がゲストとして登場。

【『恋の手ほどき』と『ベン・ハー』】

 MGMはそれまでタブーだったアンモラルなテーマも積極的に取り入れる。『熱いトタン屋根の猫』(58年)で、ポール・ニューマンとエリザベス・テーラーが演じたセックスレスの仮面夫婦は、当時としては衝撃的だったが、テネシー・ウイリアムズの戯曲のように夫がホモセクシャルとは描けなかった。しかし生粋のMGMのスター、テーラーの成熟は、この作品の最大の成果だろう。彼女は『愛情の花咲く樹』(57)、『熱いトタン屋根の猫』、『去年の夏突然に』(59)と三年連続でノミネートされるも、念願のオスカーを獲得したのは『バタフィールド8』(60年)だった。

 MGMミュージカルの有終の美を、作品賞はじめ9つのオスカーで飾ったのが、フリード製作、ミネリ監督、レスリー・キャロン主演の『恋の手ほどき』(58)だった。『メリー・ウィドウ』(34)以来のMGM出演となるモーリス・シュバリエの共演は、MGMミュージカルにフランスのエスプリを加えることとなった。風刺画家セムの雰囲気を再現したミネリのビジュアルセンス、ナンバーの楽しさ、品の良さは、上質のシャンパンのようで、MGMミュージカルの成熟を感じさせてくれる。

  1950年代末、奇跡的な起死回生を果たしたのが、ウイリアム・ワイラーの『ベン・ハー』(59)。チャールトン・ヘストン(24〜2008)がゲストとして当時を振り返る。ベン・ハーとメッサラ(スティーヴン・ボイト)宿命のライバルが戦車競争のビジュアルとモンタージュは、MGMが作り上げた最高の名場面の一つ。ミュージカル『恋の手ほどき』とスペクタクル『ベン・ハー』は、MGM映画最大の成功作であると同時に、MGMスタイルの終焉を告げる作品でもあった。しかし政府は市場の独占という理由で、各映画会社に直営映画館チェーンを手放すように命じる政策をとる。これが夢の工場と観客をつなぐシステムを実質的に崩壊させることなる。

【1960年代の大作主義】

 1960年代、映画はプロデューサーのものではく、作家=監督のものとなったことがデヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』(65)を通して語られる。ロシア革命という激動の時代を生きた、医師で詩人のユーリ・ジバゴ(オマー・シャリフ)の生々流転を描いた、ボリス・パステルナークの原作を、空前のスケールで描いた大作。『風と共に去りぬ』『ベン・ハー』と並ぶMGM映画の代表作の一本として今なお燦然と輝いている。ゲストは70年代に『エルビス・オンツアー』(70)などのプロデューサーとして活躍、90年代にMGMミュージカルのドキュメントなどを手がける、MGMの上級副社長・ロジャー・メイヤー。

 60年代後半、ならず者のアンチ・ヒーローたちが活躍する戦争アクションが大ヒットする。リー・マーヴィンの『特攻大作戦』(67)について、出演者のアーネスト・ボーグナイン(1917〜)が証言。この『特攻大作戦』は80年代にTVムービーとして、マーヴィン主演で三本の続篇が作られることとなる。

 60年代末を飾った、スタンリー・キューブリック監督、アーサー・C・クラーク原作の『2001年宇宙の旅』(68)のビジュアル・ショックは、SF映画の歴史を塗り替えた。日本でもシネラマ劇場のテアトル東京でロードショーされ、大ヒット。「目で見る33年後の現実」というキャッチコピーがポスターに踊っていた。

【MGMスタジオの終焉】

 1969年、MGMは巨額の赤字を抱え、トップの交代劇が繰り返されていた。そこに目をつけたのが、ラスベガスの投資家カーク・カーコリアン。映画には興味がないというオーナーは、スタジオ売却を決定。コストがかさむ撮影所のセットは取り壊され、住宅会社に販売されることになる。メイヤーとサルバーグが築きあげた夢の工場の最期について、ロジャー・メイヤーが回想する。

 ここではテレビ番組“60 MINNUTES”のフィルムを使って、ホストのマイク・ウォレスがMGMスタジオの最期をレポートする。『ショウ・ボート』(51)、『バンド・ワゴン』(53)の荒れ果てたセットは痛々しい。さらに、MGM映画で作られた様々な小道具が、オークションに掛けられる。『オズの魔法使』(39)でジュディ・ガーランドが履いていた“ルビー・スリッパ”が、グレタ・ガルボのガウンとともに、最高値がつけられたという。

 その後のMGMについては、映像で紹介されている通り。CNN創業者であり、メディア王とマスコミに呼ばれたテッド・ターナー(1938〜)が、1986年にオーナーになったことは、映画ファンにとって幸運だった。この時代、MGMのクラシック映画のアーカイブス化がなされ、テレビへの供給、ソフト化も含めて、過去の作品を現在のファンが気軽に楽しめる状況になったことが最大の収穫だろう。

 【そして夢は続く】

 『ザッツ・エンタテインメント!』(74)とその続篇の大ヒットにより、映画ファンはMGMミュージカルの楽しさに目覚め、新たなるMGM映画ファンが次々と生まれていった。ビデオ時代になり、レーザーディスク、DVDとソフトのスペックが変わってくほどに、ファンの幅が広がってきている。21世紀の現在、ワーナーホームビデオのDVDカタログには、MGMのクラシック映画の主要作品がズラリと並んでいる。この「ライオンが吼える時:MGM映画の歴史」をご覧いただいて、ご興味を持たれた映画を気軽に観ることができる。まさしく“THANKS HEAVEN!”である。

よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。