『エノケンの青春酔虎伝』(1934年・山本嘉次郎)


 エノケン映画第一作『青春酔虎伝』が作られたのは昭和9(1934)年。当時、浅草松竹座を拠点に活躍していたエノケン劇団=ピエルブリヤント(以下 PB)へ映画製作を持ちかけたのは、昭和7年に発足されたばかりの新興映画会社P.C.L.(写真科学研究所)のプロデューサー森岩雄。当時、エノケンは松竹専属で、自身も映画に興味を持っていたが、松竹に映画出演をもちかけても、その返事はつれないものだった。P.C.L.といえばその第一作『ほろよひ人生』(1933年)に代表されるようにモダンなスタイルの作風が特徴。ハリウッドの音楽映画やブロードウエイのレビューの影響を強く受けていたエノケンにとっても、洋画劇場で封切られるP.C.L.映画での映画製作は渡りに舟。そこで監督には、日活京都で活躍していた山本嘉次郎を指名。その理由は「譜面がわかるから」。

 エノケンと山本が目指したのは、ハリウッドの音楽映画と思われる。特に、1932年から33年にかけて、立て続けに公開されていたエディ・キャンター喜劇からヒントを得ている。小柄な身体でチョコマカ動くキャンターの特徴は、エノケン同様、ぐるぐると大きな目玉。オープニング、オープンエアで女子学生たちと、二村定一、如月寛多、そしてエノケンが唄う「プランタン」は、キャンターの『突貫勘太』(1931年)の挿入歌「(My Baby Said)Yes.Yes!」(コン・コッラッド作曲)。『青春酔虎伝』の中盤で、リラ子たち女子学生にエノモトがからかわれるシーンでも演奏されるが、ビジュアル的にも『突貫勘太』の「Yes.Yes!」ナンバーでもよく似た状況が見られる。試験勉強をしながら唄う「僕はユウウツだ」も、オリジナルはキャンターの「フーピー」というミュージカルの「My Baby Just Cares For Me」。

 ことほどさように、エノケン映画のモダニズムは日本映画ばれしたハリウッド音楽的要素が魅力的である。しかし、現場での撮影は困難をきわめたようで、撮影が行われた34年3月は、PBは公演中だった。終演後、浅草から世田谷区砧のP.C.L.スタジオまで一座全員が移動し、そのまま夜食、仮眠をとり、早朝から昼過ぎまで撮影をして、再び浅草の舞台に立つというハードスケジュールだったという。

 クライマックス、二村が経営するビアホール(タイアップは『ほろよひ人生』同様ニッポンビール)でのアクションシーンは、後のジーン・ケリーや現在のジャッキー・チェンもかくやの展開だが、エノケンは二階のバルコニーから天井のシャンデリアに飛び移る際に、シャンデリアを掴み損ねてそのまま落下。しかし、キャメラの唐沢弘光は撮影を続行。脳震盪を起こしたエノケンは病院に運ばれたものの、その落下シーンはそのまま映画に使用されている。このアクシデントを機に、エノケン映画撮影中は、舞台を休演することとなり、映画製作をめぐっては、舞台を仕切る松竹とP.C.L.の間で様々な折衝が行われたという。

 本作の中盤で、エノモトが見合いをするシーンがあるが、これは昭和9年1月に開場なったばかりの東京宝塚劇場。劇中登場する舞台は、東宝専属男女優による「男装の麗人/さくら音頭」公演と思われる。

製作=P.C.L.映画製作所 配給=東和商事映画部
1934.05.03 日比谷映画劇場/10巻 2,312m 84分 白黒

<スタッフ>
演出:山本嘉次郎 /原作・脚色:エノケン文芸部、P.C.L.文芸部 /撮影:唐沢弘光 /音楽:紙恭輔、栗原重一/美術:北猛夫 /録音:早川弘二 /現像:小野堅治/振付:鹿島光滋

<配役>
エノモト:榎本健一/二村:二村定一 /如月:如月寛多/モリ:森健二/エノモトの父:柳田貞一/同 母:英百合子/同 姉綾乃:花島喜代子/綾乃の夫:吉川道夫/リラ子:堤真佐子/マチ子:千葉早智子/トリ子:堀越節子/女舎監:武智豊子/堀先生:丸山定夫/課長:藤原釜足/女秘書マユミ:高清子/老事務員:中村是好/伯爵:大川平八郎/花売娘:北村秀佐江/タップソロの女:宏川光子/角力取:岸井明/暴力団:大友純

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