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佐藤利明(娯楽映画研究家)

 モダンなP.C.L.映画のなかにあって、都会のサラリーマン層から庶民まで幅広い人気を獲得したのが、人気コメディアンの名前が冠となったコメディ。

 浅草オペラ出身で、抜群のボディアクションと、独特のダミ声が特徴の榎本健一は、“エノケン”の愛称で庶民に親しまれ、戦前、戦中から戦後の、喜劇映画の黄金時代の中心的存在だった。浅草で劇団「ピエル・ブリヤント」を旗揚げ、「エノケン一座」の座長として、ステージですでに喜劇の黄金時代を築いていたエノケンが、一座ごとP.C.L.に招聘されて初主演したのが『エノケンの青春酔虎伝』(1934年)。監督は日活から移籍してきたばかりの山本嘉次郎だった。

 エノケン一座総出演のカレッジ・コメディは、当時人気があったハリウッドのエディ・カンター主演のコメディを意識したもので、エノケンや一座の花形歌手でジャズシンガーの二村定一が歌う主題歌は、カンターの『突貫勘太』の主題曲『Yes,Yes』の替え歌。ステージ同様、外国曲をふんだんに取り入れるモダンな感覚、親しみ易いキャラクターで、「エノケン映画」は、昭和10年代、東宝の看板となる。

 しかもクライマックスでは、親友・二村が銀座にオープンしたビアホールで悪漢たちを相手に大立ち回りを繰り広げる。吹き抜けセットの空間を最大限に活かして、エノケンが走り回り、シャンデリアに飛びつくなどのアクションは、ステージを知らない観客たちに、強烈なインパクトを与えたことだろう。

 映画の専属契約を果たしたエノケンは、一座を率いてすぐに『エノケンの魔術師』(1934年)に出演、ここでは「月光値千金」を唄っている。『エノケンの近藤勇』(1935年)、『どんぐり頓兵衛』(1935年)などの当たり狂言が続々と映画化されるなか、エノケンは舞台でも丸の内へ進出。昭和11(1936)年には、ポリドールレコードと専属契約を結び、映画主題歌を次々と吹き込むこととなる。

 なかでも、エノケンと山本嘉次郎のハリウッド志向、エノケンと二村が歌い踊る音楽場面の数々など、ミュージカル趣味が横溢した『エノケンの千万長者 正續篇』(1936年)のモダニズムは、戦前のエンタテインメントの質の高さを感じさせてくれる。

 そしてエノケンと山本コンビの最高作ともいうべき『エノケンのちゃっきり金太 正続篇』(1937年)が登場する。マッカレー原作の『地下鉄サム』を時代劇に翻案、エノケンの巾着切りと、彼を追いかける岡っ引きの中村是好とのドタバタ。歌とギャグが物語を押し進めるロードムービーは、のちのエノケン映画のひとつのスタイルを作ったともいえる。

 さて、エノケンが子供たちに愛された“動”のコメディアンなら、彼と喜劇王の名前を二分した古川緑波は、“ロッパ”と呼ばれたインテリ好みの“静”の話芸の達人。男爵家に生まれ、早稲田大学在学中に文藝春秋社に入社、雑誌『映画時代』の編集を手がける。同時に素人芸には定評があり、徳川夢声と「ナヤマシ会」を結成。「声色」と呼ばれていた物真似を、自ら「声帯模写」と命名、人気を獲得。こうして文化人から舞台の喜劇人となったロッパは、エノケンと同時期、浅草の「笑(わらひ)の王国」に参加、持ち前の話芸と知性で一世を風靡した。P・C・L映画第一作の『ほろよひ人生』(1934年・木村荘十二)でも自慢のノドを披露し、P・C・Lコメディの常連となった。

 「笑の王国」は、昭和10(1935)年に東宝に引き抜かれ、「古川緑波一座」と改名。有楽座のヒット狂言をそのまま映画にした『歌う野次喜多』(36/監督:岡田敬・伏水修)では歌手・徳山璉と名コンビを組み、ロッパ喜劇の味を全国のファンに届けた。名曲「モンパパ」を歌うふたりの姿、スマートなやりとりは、まさしくインテリ好み。そのモダンなテイストは、続く『ハリキリ・ボーイ』(1937年・大谷俊夫)でさらに発揮される。恐妻家のサラリーマンの悲哀をペーソスたっぷりに演じる都会派喜劇で、のちの東宝サラリーマン映画のルーツ的な作品でもある。

 また『日本女性読本 第三話 楽しき哉ロッパ君』(37/監督:大谷俊夫)には、有楽座の舞台の模様がそのまま映画に記録されている。タップダンサー、レビューガールたちが繰り広げる舞台のリハーサルや、ロッパが歩く東宝の映画街のロケーションに、舞台全盛時代の片鱗が伺える。

 やがてエノケン同様、『ロッパのガラマサどん』(1938年)、『ロッパのおとうちゃん』(1938年)などなどの冠(かんむり)喜劇が登場する。なかでも『ロッパの大久保彦左衛門』(1939年)で演じた彦左は、当たり役になり、喜劇ではないが『長谷川・ロッパの 家光と彦左』(1941年・マキノ正博)など、さまざまな映画や舞台で演じることとなった。また、内田百閒原作の『ロッパの頓白先生』(1939年)など、ロッパのインテリぶりが感じられる作品が多く、戦時中の時局に迎合した映画でも、個性派俳優として活躍。身体の動きがメインのエノケンとは、対称的な個性を発揮している。

 戦前、一度も競演することのなかったエノケンとロッパが、初めてスクリーンで顔を合わせるのが、山本嘉次郎の『新馬鹿時代 正続篇』(1947年)であった。冒頭、カメラ目線で主題歌「ちょいといけます」をデュエットする二大喜劇王の姿は、開放的な戦後の息吹を感じさせてくれる。

 戦後、エノケンは自らのプロダクションを立ち上げて『エノケンのホームラン王』(1948年)など精力的に映画制作をつづけ、一方ロッパは、東宝や新東宝のアチャラカ映画で活躍することとなるが、残念ながら往事の勢いを取り戻すことはできなかった。しかし、オールスター出演の喜劇映画では、喜劇のパイオニアとして、後輩たちを見守る存在として、『落語長屋は花ざかり』(1954年)、『極楽大一座 アチャラカ誕生』(1956年)、『勢揃い江戸っ子長屋』(1958年)など、数多くの作品に出演している。






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