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山田洋次監督の「覚悟」『男はつらいよ 望郷篇』(1970年8月25日・松竹大船・山田洋次)

文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト・近藤こうじ

2023年4月29日(土)「土曜は寅さん!4Kでらっくす」(BS テレ東)で第五作『男はつらいよ 望郷篇』放映! 拙著「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)から、放映作品を抜粋してご紹介します。(期間限定)

 ぼくは衛星劇場でインタビュー番組「私の寅さん」のホストを、二〇〇八年から二〇一〇年にかけて約二年間、二十二回に渡ってつとめました。そこで山田洋次監督にご出演して頂き、「男はつらいよ」誕生の前後について、検証しながら伺いました。

 テレビ版がいかにして誕生したのか、そして一九六九年という時代に「男はつらいよ」を生み出した意味、そしてお茶の間にテキ屋が登場するという意外性と、その衝撃について、リアルタイムに間に合わなかった世代としては、当事者である山田監督のお話は、まさしく貴重な体験となりました。

佐藤「ホームドラマと言うのは定着者のドラマにもかかわらず『男はつらいよ』というのは放浪者が出てくる。これは当時のホームドラマではなかったことではないでしょうか。」
山田「そうねえ、ホームドラマなんですよ、で、そこに放浪者が出たり入ったりすることで、定着した世界が際立つし、また放浪者の喜びとか悲しみも出てくるんじゃないか、非常に対照的な世界を描くことができたんじゃないかな。」
佐藤「『愚兄賢妹』という仮題がついてた、そのコンセプトの中に、寅さんとさくらという兄妹なんだけれども、放浪者と定住者というね。これがたぶん、後に四十八作続くシリーズの、ほんとに大きな原動力になったんでしょうね」
山田「まあ最初からきちんと設定したわけではなかったけれど、運がよかったんでしょうね、妹の世界とお兄さんの世界がうんと対照的になって対照的でありながらお互いに惹かれあって、続いていくっていうのかなあ、放浪者は常に定住したいって言う憧れがあるし、定住者は常に旅立ちたいっていう憧れを持ってるっていうことなんですね」

衛星劇場「私の寅さんスペシャル」(二〇〇八年八月)

 『男はつらいよ』は、放浪者と定住者の物語であり、テキ屋とカタギの「あにいもうと」という、それまでのテレビドラマでは、およそ共存できない設定を、結びつけることで成立したドラマだったのです。これは放送された一九六八年から一九六九年という時代なればこそ、だと思います。
 ベトナム戦争が泥沼化し、学生運動は高校生にまで波及していました。世の中は騒然とし、ぼくの子供の頃の記憶では、デモ隊と警官隊の衝突は日常茶飯事。火炎瓶が飛び交う日常が、テレビのニュースで報じられていました。そういう時代に、テキ屋を主人公にしたホームドラマを作るということは、一方では時代を反映した当然のことでもあり、もう一方では、かなりアヴァンギャルドな試みであったのではないでしょうか?
 そのテレビシリーズが最終回で、車寅次郎がハブに咬まれて死ぬ、という衝撃的な結末を迎え、それゆえに映画シリーズが誕生したことは、このコラムでも時系列でお伝えしてきました。山田洋次監督は、第一作『男はつらいよ』、第二作『続・男はつらいよ』を演出した後、第三作をシナリオ共作者であった森崎東監督、第四作をテレビシリーズのプロデューサーでありディレクターであった小林俊一さんが演出することになり、シナリオを手掛けられていました。作品を見てわかるのは、第一作から第四作までの「男はつらいよ」は、エピソードも含めて、テレビ版の延長線上にあるというか、発展したかたちでのTHE MOVIEだったことです。
 シリーズは、低迷する映画界で異例ともいうべきヒットとなり、ドル箱となった「男はつらいよ」は次々と製作されることになります。この頃の映画館の熱気は凄かったです。小学一年生の夏休みの終わり頃、ぼくはこの第五作『望郷篇』を銀座松竹で、父親と一緒に観たのですが、ほとんどが男性客、おじさんばかりでした。寅さんの一挙手一投足に場内が割れんばかりの笑いに包まれていました。ポップコーンの匂いと共に、その熱気は今でもありありと覚えています。

山田「で、もう一本どうしてもやりたいってことになった時に、その三作、四作、監督が違うと、不思議なもんで、いい悪いじゃなくてねえ、同じキャスティングで僕が脚本書いて、同じ衣装を着て出てるんだけども、不思議なもんで監督が変わると、ぜんぜん色合いが変わってきちゃうわけですね。だから、もう一回僕の、僕の味付けで、僕の好きな色合いに映画を作ってお仕舞いにしたいと、だから第五
作は、『じゃ僕が撮る』って言って、そう言って一九七〇年、僕は『家族』って言う映画を作ってたんだ。その『家族』を途中で切り上げてそして『望郷篇』っていう作品を作ったんです。」
佐藤「そうしますと『望郷篇』は山田監督の中で『完結編』として取り組んだ作品ですね。」
山田「そうです、そうです。」
佐藤「で、そこにテレビ版のおばちゃんやくの杉山とく子さん、さくら役の長山藍子さん、博士役の井川比佐志さんと…」
山田「そうそうそう、長山さんが出て、井川さんが出てね」
佐藤「それで有終の美を飾るつもりでつくることになったと。」
山田「うん、だからそういう意気込みがあるわけですよ、これでお仕舞いにすると、そういう僕の意気込みやら、渥美さんたちの意気込みやらが、こう、ひとつの力になったんじゃないかなあ、とても元気のある映画ができたんですね。そしたらこれがまた、今までを上回るヒットを遂げちゃったんで、まあ、終わるに終われなくなっちゃったっていうか、今度はもう観客に押されるようにして、今さらやめるわけにはいかないっていう感じがしてきちゃってね。」

衛星劇場「私の寅さんスペシャル」(二〇〇八年八月)

 山田監督は「幕引き」として、第五作『望郷篇』にあらゆるエッセンスを入れています。冒頭の「寅さんの夢」では、おいちゃんの臨終に駆けつける寅さん、タイトルバック明けには、その「夢」の延長として、暑くてノビているおいちゃんを、おばちゃんが冗談で、虫の息だと寅さんを担いでしまいます。上野から電話をして、それを聞いた寅さんが、柴又に帰ってくる途中に、葬儀屋などの手配をしてきます。御前様にも近所の人にも、おいちゃん危篤を伝えて大ごとになる、冒頭の爆笑シーンとなって行くのです。
 そういえば第二作『続・男はつらいよ』で、最愛の散歩先生(東野英治郎)が亡くなって放心状態の寅は、御前様から「こういう時こそお前がしっかりせんといかんのじゃないか」と叱咤されます。翌日のお葬式では、寅さんの態度が一変して、仕切ること仕切ること、見ていて気持ちの良いほど、寅さんはハリキリでした。
 寅さんの冠婚葬祭一式の取り仕切りの鮮やかさは、シリーズでしばしば出てくることになります。『望郷篇』でも、おいちゃん危篤と聞いて、先回りして、いろいろ段取っている寅さんの姿は描かれているわけではありませんが、そのテキパキとした差配は想像できます。なぜそこまでするのでしょうか?
「しかたがねえだろ、ったく、おじちゃんが死にでもしなきゃね、オレは恩返しができないんだよ。さすがとらやの旦那さんの葬式だ。立派な葬式だったって人に羨ましがられるような葬式を出してえなって思ってたのよ!」
 この理屈もむちゃくちゃですが、この茶の間の喧嘩シーンで、劇場の笑いはピークに達します。まだ七歳になったばかりのぼくは、とにかくお腹を抱えて、椅子から転げ落ちそうになって、大笑いしました。そして、次のシークエンスでは、舎弟の登(津坂匡章)がしばらくぶりに柴又を訪ねて来て、寅さんが若い時に世話になった、北海道の政吉親分(木田三千雄)危篤を告げます。
 結局、寅さんはさくらから『続 男はつらいよ』で満男にあげた五千円を拝借して北海道に行き、政吉親分の最後の頼みを聞きます。小樽で機関士をしている息子・澄夫(松山省二)に一目会いたいという、親分の願いを叶えてあげようと寅さんは小樽へと向かいます。
 ここからのシークエンスは、それまでの「葬式」をネタにした喜劇から一転、シリアスな「父子の確執」の物語となります。機関車D51の勇壮な描写は、実に丁寧かつダイナミックで、少年時代から鉄道ファンである山田監督の熱い想いが伝わってきます。病床の父のことを伝えても、頑なに澄夫は父に会いません。なぜ澄夫が父親に対してこれだけ反発しているのか、澄夫の言葉で語られます。
 父子の確執は、『男はつらいよ』に限らず、山田洋次監督の作品にはしばしば描かれています。博と父のコニミュケーション不全、寅さんと亡くなったお父さんの関係、第十九作『寅次郎と殿様』の殿様(嵐寛寿郎さん)と亡くなった息子の確執、『息子』(一九九一年)もありました。そして『東京家族』(二〇一三年)でも、父子のギクシャクした関係が描かれています。
 この第五作『望郷篇』の澄夫のエピソードは、実はテレビ版の第十話(山田洋次・森崎東脚本)のリフレインでもあります。熊本に住む、寅さんが昔世話になった東雲の銀蔵親分(杉狂児)の危篤となり、昔芸者に産ませた息子を探して欲しいと頼まれます。その息子は今は機関士となっていて、という物語です。これが第五作の澄夫のシークエンスへと発展していくわけですが、映画版の機関車の描写の力強さは、何度見ても興奮します。これぞ映画のチカラです。
 この機関士の姿を見た寅さんが「額に汗して油まみれになって働こう」と決意するのも納得です。映画の後半、浦安を舞台にしてからの三浦節子(長山藍子)とのエピソードには、杉山とく子さん、井川比佐志さん、佐藤蛾次郎さんのテレビ版のレギュラーが勢揃いします。
 倍賞千恵子さん扮するさくらと、テレビでさくらを演じていた長山藍子さんの「二人のさくら」の共演は、リアルタイムでテレビを観ていたファンにとっては、この上ないプレゼントでした。
 山田監督の「これでお仕舞いにすると、そういう僕の意気込みやら、渥美さんたちの意気込みやらが、こう、ひとつの力になったんじゃないかなあ、とても元気のある映画ができたんですね。」という言葉通り、第五作は力強い作品となり、映画『男はつらいよ』の世界が、この作品から広がってゆくことになりました。

この続きは、拙著「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)でお楽しみください。


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