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『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』(1983年・米英・アーヴィン・カーシュナー)

 娯楽映画研究所シアターで、ショーン・コネリーが『ダイヤモンドは永遠に』(1971年)以来12年ぶりに、ジェームズ・ボンドを演じた『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』(1983年・米英・アーヴィン・カーシュナー)を10数年ぶりに再見。イオン・プロダクション製作の007シリーズではなく、ジャック・シュワルツマン率いるタリア・フィルムの製作による単発作品。製作総指揮のケヴィン・マクローリーが、イアン・フレミング「サンダーボール作戦」の原作者の一人として映画化権を所有していたために、映画化が実現した。


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 というのも、シリーズ第四作『007/サンダーボール作戦』(1965年・テレンス・ヤング)の原作小説は、もともと第一作『007は殺しの番号』以前に、映画用シナリオとして執筆されたものの映像化されなかった“James Bond, the Secret Service”をベースにイアン・フレミングが小説化。“James Bond, the Secret Service”は、イアン・フレミング・ケヴィン・マクローリー、ジャック・ウィンティンガムの共作で、フレミングが二人の許諾なしに「サンダーボール作戦」にリライトして出版。そこでマクローリーが、フレミングを提訴。裁判の結果、フレミング側が「スペクター及びブロフェルド」の小説における権利、マクローリーが「スペクター及びブロフェルド」の映画化権を折半することに。小説版も共同著者としてクレジットすることで1963年に和解した。

 小説はそのまま「スペクター及びブロフェルド」を登場させることができたが、映画では1961年の『007は殺しの番号』、1962年の『007/危機一発』(テレンス・ヤング)「スペクター及びブロフェルド(を匂わせる描写)」をしてきたものの、1963年の『007/ゴールドフィンガー』(ガイ・ハミルトン)には、「スペクター及びブロフェルド」を登場させることができなかった。この三作でボンド映画はドル箱シリーズとなり、空前のスパイ映画ブームが世界中に巻き起こっていた。

 そこで「サンダーボール作戦」の映画化権を取得したマクローリーは、ワーナーブラザースで、リチャード・バートン主演のボンド映画製作を発表。バートンは、かつてボンド役候補に上がっていたビッグスター。それでは困ると、本家イオン・プロのアルバート・ブロッコリが、マクローリーと交渉して、第四作『サンダーボール作戦』のプロデューサーとしてマクローリーの名前をクレジットするので、10年間はマクローリーがボンド映画を製作しないという取り決めがなされた。

 なので本家では、その10年間は「スペクター及びブロフェルド」を登場させることができた。第五作『007は二度死ぬ』(1967年・ルイス・ギルバート)でブロフェルド(ドナルド・プレザンス)を登場させ、『女王陛下の007』(1969年・ピーター・ハント)でブロフェルド(テリー・サヴァラス)にボンドの妻を殺させ、『ダイヤモンドは永遠に』(1971年)で、ボンド(コネリー)はブロフェルド(チャールズ・グレイ)に復讐を果たした。で、コネリーはボンド役から引退していた。

 以降の本家シリーズに「スペクター及びブロフェルド」が登場しないのは、そういう権利上の問題である。その後、それがクリアされるプロセスも2000年代のハリウッド再編と大きく関わっていくのだが、それは改めて別項にまとめます。

 さて、取り決めから10年経ったので、1970年代、マクローリーが「ボンド映画企画」を始動させる。ショーン・コネリーに共同製作を持ちかけ、「ハリー・パーマー」シリーズの原作者・レン・デイトンと「サンダーボール作戦」を原作とする“WARHEAD”のシナリオを執筆。コネリーも共同製作、脚本、総監督の予定だった。監督にはリチャード・アッテンボロー、オーソン・ウェルズがブロフェルド、トレヴァー・ハワードがMを演じるとアナウンスされた。コネリーはボンド役ではなく、プロデューサーとして製作の全権を任されていた。

 一方、本家はロジャー・ムーアがボンド役を続投していたが、第十二作『007/ユア・アイズ・オンリー』(1981年・ジョン・グレン)で降板を表明。そこでコネリーは、ムーアに“WARHEAD”のボンド役の声をかける。しかし本家、イオン・プロではムーアの後任が見つからず、破格の契約金を用意したため、ムーアは本家のボンド役に返り咲き『オクトパシー』に出演することになった。そうした経緯があって、プロデューサーとしての責任もあって、コネリーがボンド役に復帰することになった。タイトルの『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』は、コネリーの妻・ミシュリーヌ・コネリーが、夫に「もうボンドを演じないとは言わないで」の一言に由来するという。監督は、当初『女王陛下の007』のピーターハントがキャスティングされたが、本家との兼ね合いもあって、『スターウォーズ 帝国の逆襲』(1980年)のアーヴィン・カーシュナーとなった。

 という経緯は、高校生の頃、ボンド・マニアだった僕は、洋書や海外の映画雑誌を通して知っていた。高三の頃、友人に「今度、ショーン・コネリーが“WARHEAD”という007映画を作るんだって!」と話していたが、まさか実現するとは思っていなかった。当時は、ロジャー・ムーアのボンド映画がメイン・ストリームとなっていて、イオン・プロがイアン・フレミング原作の映画化権を持っていることは、映画少年たちも知っていた。なのにボンド映画といえば「スペクター」なのに、最近「ブロフェルド」も出てこない。と誰もが思っていた。本家は、マクローリーとの取り決めで「スペクター及びブロフェルド」を出せないんだということを、よく友人たちに話していた。なので、1983年末に公開される。とアナウンスをされたときには、ああ、これでボンド映画にショーン・コネリーだけでなく、スペクターも、ブロフェルドも復活するんだと、感無量だった。ちょうど、ぼくは二十歳になったばかりの頃だった。

 今回はBlu-rayに収録された「ゴールデン洋画劇場」(C X)や「日曜洋画劇場」(ANB)で放映された吹き替え版を楽しんだ。ショーン・コネリー(田島玲子)、キム・ベイシンガー(田島令子)、クラウス・マリア・ブランダウアー(内海賢二)、マックス・フォン・シドー(中村正)、エドワード・フォックス(羽佐間道夫)と、吹替洋画時代ならではの充実のキャスティング。

 公開されたのは昭和58(1983)年12月10日。この年は、本家、イオン・プロダクションのロジャー・ムーアによる第十三作『007/オクトパシー』(ジョン・グレン)が7月3日にロードショーされて、ロジャー・ムーアV Sショーン・コネリーのボンド対決がメディアを賑わせていた。

 というわけで『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』であるが、当時56歳だったショーン・コネリーが、撮影のためにトレーニングを重ねて、身体を作って、アクションも見事にこなして、成熟したジェームズ・ボンドを、かつての自分のスタイルの延長で演じている。アクションのキレもよく、同年代のロジャー・ムーアと比べると圧倒的に「ジェームズ・ボンド」に見える。クラウス・マリア・ブランダウアーのラルゴも、バーバラ・カレラのファティマ(鈴木弘子)も、オリジナルと違ったキャラ造形で、二人とも「偏執狂・変態」度が高く、やりすぎな感じがいい。

バハマのイギリス領事館職員ナイジェル・フォーセットにローワン・アトキンソン(村山明)。相手がボンドなので意識しすぎてしまい、一緒に歩くときに周囲を気にして挙動不審になる。のちの「Mr.ビーン」を知っていると、なるほど、こういう芸風だったのか、と納得するけど、当時は、なんだろうこの人は?だった。はるかのちにボンド映画のパロディ「ジョニー・イングリッシュ」シリーズを演じることになるのだが、キャリアもこれからのときで、初々しい感じが新鮮。

 また、ボンドの盟友・フィリックス・ライターを元N F Lのスター選手で、僕らの世代ではお馴染みの黒人俳優・バーニー・ケイシー(田中信夫)が演じている。ダニエル・クレイグの『カジノ・ロワイヤル』(2006年)から本家でも、黒人のフィリックス・ライター(ジェフリー・ライト)が演じてきたが、その遥かなるルーツでもある。

 ボンド映画でお馴染みのガン・バレルもないし、モンティ・ノーマン作曲の「ジェームズ・ボンドのテーマ」も流れない。でも、ショーン・コネリーがジェームズ・ボンドを演じているだけで、嬉しくってしょうがない。音楽はミシェル・ルグラン、ハープ・アルバートをフィーチャーしてのサントラは、当時欲しかったがレコード未発売だった。主題歌はラニ・ホール。フレンチ・テイストというか、80年代ポップス特有の軽さが心地良い。


 

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