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ユー・マスト・リメンバー・ディス ワーナー映画の歴史

ご案内:佐藤利明(娯楽映画研究家)

 「クリント・イーストウッドが語る ワーナー映画の歴史」は、ハリウッドを代表するワーナー・ブラザースの創設から現代まで、85年に渡って世界のエンタテインメントの歴史を刻み続けてきた足跡を、数々の証言と代表作の名場面で綴りながら辿っていくドキュメンタリー。アメリカではYou Must Remember This: The Warner Bros. Story”のタイトルで2008年9月24、25、26日の三日間、夜9時からPBSで放送された5時間に及ぶ大作である。製作はLoracプロダクションとワーナー・ブラザース。映画評論家でフィルムメーカーでもあるリチャード・シッケルが製作、構成、演出を手がけ、クリント・イーストウッドがエグゼクティブ・プロデューサーとナレーションを兼任。アメリカでは、ワーナー創設85周年を記念して、放送メディア、出版、そしてDVDソフトと様々なメディアで展開された一大プロジェクトとして大きな話題となった。

 英題“You Must Remember This” は、1940年代のワーナー・ブラザースを象徴する名作『カサブランカ』(42年)の主題歌”As Time Goes By(時の過ぎゆくまま)”の歌詞にちなんだもの。

 製作・構成・演出のリチャード・シッケルは1933年生まれ。ハリウッド黄金期の作品をリアルタイムで観てきた世代、映画評論家としてはタイム誌やライフ誌での評論、ロサンゼルスタイムスの書評などを手がけ、ハロルド・ロイド、ダグラス・フェアバンクス、ケーリー・グラント、ジェームズ・キャグニー、ゲイリー・クーパーといったスター、映画作家ではD.W.グリフィス、クリント・イーストウッド、ウディ・アレン、エリア・カザンなどの評伝を執筆。1970年代からはさまざまなフィルム・アンソロジーの企画、構成、製作を手がけてきた、映画史研究の第一人者である。

 イーストウッドとも長年の友人でもあり、1992年には米ABCで放送された『許されざる者』のメイキング番組“Eastwood & Co: Making Unforgiven”、1996年には著書Clint Eastwood: A Biographyをそれぞれ発表している。

*2009年 限定盤DVD「クリント・イーストウッドが語る ワーナー映画の歴史」ブックレット原稿を加筆修正。

第1部 ワーナー・ブラザースの黎明 A RISING POWER (1923-1937)

 ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー四兄弟が、ポーランドから両親とともにカナダに移民したのが19世紀末のこと。ハリーは父が経営する靴屋を切り盛りし、末弟ジャックはエンタティナーを目指し、三男のサムはさまざまな職業に就く。ユダヤ系移民としての苦労をしながら、20世紀初頭を迎える。時はあたかも映画草創期、ハリーは映写技師となり、兄弟は1903年に興業会社を設立。ジャックが歌を歌い、ハリーが映画を上映するスタイルで巡回興行を始める。巡業先はオハイオ州やペンシルバニア州の鉱山町。ブルーカラーの労働者たちの一夕の娯楽として、映画は大いにもてはやされた。

 やがてペンシルバニア州のニューカッスルで劇場を開設。配給会社を設立し、上映用プリントを配給する中間業者となって、ビジネスを成功させるが、トラストの圧力で撤退を余儀なくされる。ならば映画を製作しようと、1918年に三男のサムを中心としてハリウッドに映画スタジオを設立、長男ハリーたちはニューヨークで資金面と配給を担当。映画会社として軌道に乗り出した1923年、ワーナー四兄弟は、ワーナー・ブラザース・ピクチャーズを登記、設立する。長男ハリーがリーダー、次男アルバートが経理、サムは技術担当、ジャックはプロデューサーと、それぞれ役割を担っていた。

 ワーナー・ブラザースとして初の大きな仕事は、当時、ブロードウェイで1919年から20年にかけて282公演の大ヒットを記録したステージ“The Gold Diggers”の権利獲得だった。ハリー・ボーモント監督の“The Gold Diggers”(23年)は、ホープ・ハンプトン、ウィンダム・スタンディングが出演。1923年9月22日にアメリカで公開された。その後、1929年にはトーキー、テクニカラーの大作『ブロードウェイの黄金時代:Gold Diggers of Broadway』(29年・ロイ・デル・ルース)としてリメイクされ、「チューリップ畑を歩けば」などの楽曲が日本でもヒット。その後、1930年代、バズビー・バークレイの華麗なる映像ページェントで、世界的なミュージカル革命を起こすことになる『ゴールド・ディガーズ』(33年)『ゴールド・ディガーズ36年』(35年)など、計五作作られることとなる。

 第一世界大戦後に、兵士がフランスから連れてきた犬“リン・チン・チン”を主役にした『仇敵めがけて』(25年)が大ヒット。26作も続篇が作られる看板シリーズとなった。リン・チン・チンの伝記の著者であるスーザン・オーリアンが、本編でも解説しているように、ジャック・ワーナーは、若き脚本家ダリル・F・ザナックに、続篇のシナリオ執筆を依頼。その結果、26作も続篇が作られる看板シリーズとなった。

 このヒットは会社の資金を潤沢にすることとなり、ウォール街によるワーナー・ブラザースへの巨額投資を受けることとなる。その資金で、1897年創設のハリウッドの老舗スタジオであるヴァイタグラフ社を1925年に買収。同社の全国配給網を手にすることで、製作、配給体制を強化していくこととなる。

 ハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」は、その後三度映画化されることになるが、初作は『海の野獣』(25年ミラード・ウェッブ監督)で、日本では昭和元(1926)年8月に公開されている。

 ドイツ映画界で勇名をはせたエルンスト・ルビッチがハリウッドに招かれた第二作『結婚哲学』(24年)は、後のロマンチック・コメディのルーツ的作品。都会的で洒脱なルビッチ・タッチは、ビリー・ワイルダー、我が国の小津安二郎といった監督に大きな影響を与えていくこととなる。

サイレント映画の衰退 The Shattered Silence

 1920年代後半、映画界にトーキーの嵐が吹き荒れることとなる。その台風の目となったのがワーナー・ブラザースだった。1925年に買収したヴァイタグラフ社が研究していた、トーキー映画のシステム“ヴァイタフォン”は、レコードに録音した音声をフィルムと同期させて上映するディスク式システムで、ワーナーがそれを完成させた。アラン・クロスランド監督、ジョン・バリモア主演の『ドン・ファン』(1926年)のサウンド版では、このディスク式ヴァイタフォン・システムを導入。観客は画面から音が聞こえてくることに驚嘆の声を上げたという。

 サムとジャック・ワーナーが全力で取り組んだ、本格的トーキーは1927年の『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド)として結実。1927年10月6日にニューヨークを皮切りに上映され、爆発的なヒットとなった。しかし、公開前日の10月5日、40歳の若さで亡くなってしまう。

 主演のアル・ジョルソンが言い放つ“You ain't heard nothin' yet! お楽しみはこれからだ!”の名台詞、「ブルースカイ」などのナンバー、サウンド革命はミュージカル映画第一号から始まったことでも重要だろう。まだ全編トーキーではなく、最後の三分の一が同時録音となっていた。日本では昭和5(1930)年8月に公開され、映画界に大きなショックを与えた。ちなみに日本初のトーキー映画は、公開の翌昭和6(1931)年の松竹映画『マダムと女房』(五所平之助)となる。

製作規定 Braking the Code

 『紅唇罪あり』(33年アルフレッド・グリーン)で、バーバラ・スタンウィックが、貧しさゆえに自らの身体を武器に、金持ちにのし上がろうとするヒロインの行動や言動は、時代をビビッドに反映させていたとはいえ、当時のアメリカの良識家のモラルに反するものでもあった。これらの作品のヒットにより、1930年に制定された自主規制規定「ヘイズ・コード」が、1934年に本格的に発動され、映画における言動や行動、モラルへの規制が厳しくなっていくこととなる。

どん底の時代 The Lower Depths

 そして、1930年代を迎えると、ワーナー・ブラザースは、独自のカラーともいうべきギャング映画、犯罪映画の路線を確立する。第一部でも大きく取り上げられている、『飢ゆるアメリカ』(33年)『家なき少年群』(同年)といった不景気を反映した作品が数多く作られ、そのなかから、ポール・ムニ主演の『仮面の米国』(32年マーヴィン・ルロイ監督)という傑作が誕生する。

ギャング映画 Mob Rule

 同時期、ギャング映画も撩乱する。エドワード・G・ロビンソンの『犯罪王リコ』(31年)は、上昇志向が強く頭の回転の早いチンピラが、暗黒街をのし上がっていく様を描いている。主人公、シーザー・エンリコ・バンデロ、ニックネーム“リトル・シーザー”のキャラクターは、実に魅力的に描かれている。ラスト、悲惨な最後を遂げるのは、この当時のモラルである「犯罪者必罰」の鉄則ゆえだった。

 『犯罪王リコ』はギャング映画に火をつけ、『民衆の敵』(31年ウイリアム・A・ウェルマン)は、当初エドワード・ウッズが主役の予定だったが、準主役のジェームズ・キャグニーに急遽変更して、大成功を収める。その悪辣な表情、豊かな表現力、衝撃の結末と、『民衆の敵』はギャング映画というジャンルをさらに発展させることとなる。

 こうしたワーナー映画のクオリティの高さは、1924年に脚本家として契約し、1929年からはプロデューサーとして活躍したダリル・F・ザナックの功績も大きい。1930年代に入ると、ワーナー・ブラザースのスターが大きく変貌を遂げてきた。エドワード・G・ロビンソン、ジェームズ・キャグニーらの言葉使いは、粗野で乱暴、ブルーカラー中心だった観客層に絶大な支持を受けていた。

 甘いワナ The Velvet Trap

 ジェームズ・キャグニー。1899年、アイルランド系一家の次男としてニューヨークに生まれ、家計を支えるために、大学中退後、ヴォードヴィルやブロードウェイの舞台に芸人として出演。舞台“Sinner’s Holyday”の主演に抜擢され、ワーナーで映画化されることとなり、ハリウッド・デビューを果たす。コメディ、ミュージカル、ギャング映画とその芸の幅は広く、どんな役でも個性的に演じた。そのダンス・テクニックが堪能できるのが、1933年の『フットライト・パレード』だった。

踊る人々 Those Dancing Feet

 1933年は、ミュージカル映画の黄金時代が始まった年でもある。そのキーマンとなったのが演出家のバズビー・バークレイだ。1920年代、ブロードウェイの演出家として数多くのステージを手がけ、1930年にサミュエル・ゴールドウィンの招きで、エディ・キャンター主演の『フーピー』のミュージカル場面を演出、『突貫勘太』(31年)『カンターの闘牛士』(32年)を手がけた後に、ワーナー・ブラザースと契約。そこで手がけた『42番街』(33年)で展開した、バークレイ・ショットと呼ばれる万華鏡のような映像が大好評を博す。ゴールド・ディガーと呼ばれた美脚、美人のダンサーたちをオブジェのように配列し、スタジオの天井から俯瞰で撮影。その華麗なショットは、映画ならではの表現方法だった。

 また、同じ1933年には、フレッド・アステアがRKOの『空中レビュー時代』でスクリーンにお目見え。ジンジャー・ロジャースとのダンスが一世を風靡。バークレイと共に、1930年代のミュージカル黄金時代を築いていくことになる。 

スターらしからぬスター The Unlikely Star

 1930年代初期、ワーナーの異色俳優ジョージ・アーリスは、日本ではあまり知られていないが、その個性はまさしくワーナー・ブラザース的でもあり、その活躍する姿を観ることができるのも、このソフトの良さでもある。そのアーリスの“The Man Who Played God”(32年)に出演したのが、1930年代のワーナーを代表する女優ベティ・デイビスだった。

女優の中の女優 Queen of the Lot

 ベティ・デイビスは、1929年にブロードウェイの舞台でデビューを果たし、翌1930年にハリウッドの進出。ユニバーサルと契約して『悪い妹』(31年)で映画デビューを果たすが、なかなか目が出ずに、ジョージ・アーリスの映画 “The Man Who Played God”で注目を集め、ワーナーと7年の専属契約を交わしたことで、ブレイクすることとなる。1934年、RKOに貸し出されて主演した『痴人の愛』(ジョン・クロムウェル監督)の演技が高く評価され、ワーナーで主演した『青春の抗議』(35年)でアカデミー主演女優賞を獲得。続く『化石の森』(36年)、『札付き女』(37年)、『黒蘭の女』(38年)などで一時代を築き、1938年から1942年の5年間連続で、アカデミー賞にノミネートされている。ワーナー映画の看板女優でもあり、「ワーナー兄弟 五番目の妹」というニックネームがあったほど。

“彼”の原点 The Beginnings of Him

 そして『嵐の青春』(41年)の主演スターで後に第40代アメリカ合衆国大統領となったロナルド・レーガンの俳優としての魅力を、ご本人のコメントも含めて紹介。この番組のエンディング音楽は、ロナルド・レーガン主演の『嵐の青春』(1941年サム・ウッド監督)のテーマ曲“Kings Row Suite”。作曲はエリック・ウォルフガング・コーンゴールド、演奏はワーナー・スタジオ・オーケストラ。

剣を持つ勇者 The Gallant Blade

 1930年代後半のワーナーを代表するスター、エロール・フリンの活躍もまた世界中の少年ファンや若い女性の胸を熱くした。オーストラリアのタスマニア島生まれのフリンは、1933年にオーストラリア映画でデビューを果たし、ハリウッドへ進出。マイケル・カーティズ監督の『海賊ブラッド』(35年)で共演したオリビア・デ・ハヴィランドとコンビを組んで、同監督の『進め龍騎兵』(36年)『ロビンフッドの冒険』(38年)などの冒険活劇で大活躍。マイケル・カーティズ監督の『無法者の群』(39年)や、ラウォール・ウォルシュ監督の『壮烈第七騎兵隊』(41年)など、フリン&デ・ハヴィランドのコンビ作はワーナー・ブラザースの看板でもあった。

第2部 戦争と平和~第二次大戦前後 WAR AND PEACE (1937-1949)

 第二部は『L.A.コンフィデンシャル』(97年)で、1940年代のハリウッドの虚と実を、空気感も含めて見事に再現した、カーティス・ハンソン監督のコメントから始まる。ワーナー・ブラザースが得意とする映画、すなわちワーナー・カラーの映画は、個性的で「荒削りでむき出しな感じがした」とは、まさしく言い得て妙。

社会に潜む恐怖 A Menacing World

 映画にもイデオロギーの波が押し寄せ、忍び寄る戦争のプロパガンダを担うことになる時代がそこまできていた。1937年の『黒の秘密』(アーチー・L・メイヨ)は、ハンフリー・ボガートの労働者が、外国人排斥の“黒い軍団”の一員となり、映画はアメリカに巣食うファシズムをえぐり出す、野心的なものとなった。ここでは、そうした社会派的な作品の試みを紹介している。ユダヤ人の主人公が、冤罪を被り、反ユダヤ主義の人々の犠牲となる悲劇を描いた”They Won't Forget“(37年)は、ワーナーならではの骨太な作品となっている。

嵐の到来 The Gathering Storm

 ヨーロッパを吹き荒れていたナチスの脅威を、第二次大戦参戦前に取り上げたのもワーナー映画『戦慄のスパイ網』(39年アナトール・リトヴァク)だったが、ヨーロッパでの収益を気にする倫理規定の委員長は、この作品に疑問を呈したという。しかし、ジャックとハリーはその忠告を無視して、映画を公開した。ヒットラーの脅威にアメリカが気づく前の話である。

 この頃の戦争映画のキャラクターの共通点について、ジェームズ・キャグニーの“The Fighting 69th”(40年)と、ゲイリー・クーパーの『ヨーク軍曹』(同年ハワード・ホークス)が紹介されている。「個人と集団の板挟み」になるというのが、その特徴だという。前者でキャグニーが演じたジェリー軍曹は、嫌な奴として描かれるが、最後には自己を犠牲にして集団を救う。国家のために命を捧げる主人公が描かれたのは、『ヨーク軍曹』も同様。平和主義者の主人公は、暴力を決して好まない。その男が最後に、仲間のために立ち上がる。これがワーナー映画の愛国心でもあった。

不本意のロマンチスト The Reluctant Romance

 1930年代がジェームズ・キャグニーの時代だとすれば、1940年代のワーナーを象徴するスターがハンフリー・ボガート。1930年代初頭からワーナーで脇役として活躍してきたボガートが初主演した『化石の森』(36年アーチー・L・メイヨ)、『彼奴は顔役だ!』(39年ラウォール・ウォルシュ)、“All Through the Night”(41年ヴィンセント・シャーマン)、『ハイ・シェラ』(41年ラウォール・ウォルシュ)を紹介しながら、映画監督のアンドリュー・バーグマンが、初期のボガートの魅力を語る。そして、ラウォール・ウォルシュ監督自身が、『ハイ・シェラ』でジョージ・ラフトが断ったいきさつを回想する。この『ハイ・シェラ』でボガートが演じた哀れなギャングの末路は、ワーナーの伝統ともなり、1967年の『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン)へと繋がる。

 1940年代を代表する『カサブランカ』「人生には犠牲を払ってでも守るべきものがある」というテーマは、その後、我が国でも日活アクションなどに大きな影響を与え、石原裕次郎映画などの精神的なバックボーンとなっている。

国民の戦い The People’s War

 1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃。アメリカは第二次世界大戦に参戦することになる。ハワード・ホークス監督の『空軍/エア・フォース』(43年)は、演習のためにハワイの基地に向かった部隊が、そのまま戦闘に参加する姿を描いた作品。人間を描く事で、それが観客の感動、感銘に繋がるという映画の基本が、『空軍/エア・フォース』に貫かれている。
ラウォール・ウォルシュ監督の“Objective, Burma!”(45年)は、エロール・フリン主演の戦争映画だが、仲間の死を直裁的に描いて、戦争の悲惨さ、敵への憎しみを煽る場面が展開される。そしてハンフリー・ボガートのタイプの異なる二本の戦争映画『渡洋爆撃隊』(44年マイケル・カーティズ)『北大西洋』(43年ロイド・ベーコン)が紹介される。

尊大さを纏って  A Touch of Insolence

 ボガートとローレン・バコールの出会いとなった、ハワード・ホークス監督の『脱出』の製作の舞台裏について、ハワード・ホークス監督が回想する。19歳のバコールの妖艶な魅力は、1940年代ハリウッド・ヒロインの象徴ともなり、「ただ口笛を吹いて」という名台詞が生まれた。

 続くボガートとバコールの『三つ数えろ』(46年)もまたホークス作品。レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」を映画化したもので、1946年に一度完成したものに、バコールとの絡みを付け加えて、1947年に公開された。

民主主義を夢見て Dreaming Democracy

 第二次世界大戦中、戦意高揚の目的で「キャンティーン映画」と呼ばれるヴァラエティ形式の慰問映画を各社が製作した。ワーナーでは、実際にハリウッドにあった「ハリウッド・キャンティーン」を舞台に、兵士たちと映画スターが交流する、夢のような『ハリウッド玉手箱』(44年デルマー・デイヴィス)を製作。バーバラ・スタンウィック、ジョーン・クロフォード、リチャード・カーソンといったワーナーのスターが次々と登場。スターも兵隊も平等だという“民主主義”を具体的なかたちで見せてくれる。

 またジェームズ・キャグニーが、ブロードウェイの父と呼ばれたジョージ・M・コーハンに扮した伝記ミュージカル『ヤンキー・ドゥードル・ダンディ』(42年マイケル・カーティズ)では、ルーズベルト大統領がコーハンを讃えるシーンや、最大の見せ場であるミュージカル場面で、民主主義を礼賛している。

忍び寄る闇 Darkness Falls

 第二次大戦が終わった1945年、ハリウッドにニューロティック・スリラーや心理サスペンス、そしてフィルム・ノワールのブームが訪れる。ナチスとの戦いが終焉したものの、新たな社会不安が渦巻き始めた時期でもある。「ミルドレッド・ピアース」(45年未公開マイケル・カーティズ)は、母(ジョーン・クロフォード)と娘(アン・ブライス)が一人の男(ジャック・カーソン)を巡って争う。影を効果的に使った演出は、ヒロインの心情の合わせ鏡となり、MGMのトップスターだったジョーン・クロフォードの新境地を開拓、クロフォードは同年のアカデミー主演女優賞に輝いた。

 『悪党は泣かない』(50年未公開)のヴィンセント・シャーマン監督が、クロフォードについて語る。この映画は、実在のギャングでウォーレン・ベイティの『バグジー』(91年)で知られるバグジー・シーゲルの愛人だった女優・ヴァージニア・ヒル(ジョーン・クロフォード)をヒロインにしたノワール。『ユーモレスク』(46年ジーン・ネグレスコ)は、『ミルドレッド・ピアース』に続く、クロフォード主演による音楽映画。

 そして1945年、ストライキが発生。ブルーカラーに支えられてきたワーナーにとって、労働者の味方を標榜していたものの、このストライキが大きな転機となる。マスコミはハリウッドへの共産主義の侵入と報じ、愛国心ゆえ反ファシズムを掲げてきたハリー・ワーナーもまた、1947年の非米活動調査委員会での発言で、反共産主義を明確に掲げることになる。

 1943年には、連合軍でもあったソビエトのスターリン主義をたたえる、ウォルター・ヒューストン主演の“Mission to Moscow”(マイケル・カーティズ)が作られているが、それから数年で、アメリカそのものが大きく転換。「赤狩り」旋風が吹き荒れることとなる。1947年10月、共産主義者の疑いをかけられた、エドワード・ドミトリク監督、脚本家のダルトン・トランボら10人に召喚状が送られ「ハリウッドテン」と呼ばれ、彼らにとって暗黒時代が訪れる。

 そうしたなか作られたのが、聴聞会を再現した『FBI暗黒街に潜入せよ』(51年未公開・ゴードン・ダグラス)

 こうした、戦後の社会不安が渦巻くなか、ジョン・ヒューストン監督が、実に魅力的な悪役たちを描いた佳作『キー・ラーゴ』(48年)を発表。エドワード・G・ロビンソン、クレア・トレヴァー、ハンフリー・ボガートら個性派スターの共演は、ワーナー伝統の味でもあった。

悪夢  Nightmares

 1940年代後半のストライキと赤狩り旋風を切り抜け、1950年代、ワーナーは独自のカラーで生き残ることに成功。反KKK団を訴える『目撃者』(1951年未公開・スチュワート・ヘイスラー)は、リチャード・ブルックスが脚本を手がけた異色作。ジンジャー・ロジャース、ロナルド・レーガン、ドリス・デイといったスターを起用しながら、ダークな雰囲気を漂わせ、社会派作品として高い評価を受けている。

 そしてジョン・ヒューストン監督が父・ウォルター・ヒューストンとハンフリー・ボガートを起用して、男たちの黄金にかける夢と、醜い争いを描いた佳作『黄金』(48年)を発表。ハンフリー・ボガートの狂気に憑かれた表情は、まさしくワーナー映画の“邪悪”な魅力に溢れている。この暗さこそ、ワーナーのノワールの味であり、ファンを引きつけてやまないエレメントである。

 燃ゆる時代に The Fire This Time

 1940年代最後の年、ギャングスター映画史上に燦然と輝く傑作『白熱』(1949年・ラウォール・ウォルシュ)が登場する。ジェームズ・キャグニーが演じる主人公は、マザコンでサディスティック、狂気を秘めた非情の男。その行動原理は不明で、同情の余地はまったくない。ワーナーの数あるノワールのなかで、最も渇いた“邪悪さ”に満ちた一本となった。

第3部  苦難と冬の時代 AGE OF ANXIETY (1950-1969) 

 1950年代のワーナーを代表する作品の一つが、作家テネシー・ウィリアムズの戯曲を、エリア・カザン監督が映画化した『欲望という名の電車』(51年)。かつての銀幕の名花ヴィヴィアン・リーと、アクターズ・スタジオ出身の若手スター、マーロン・ブランドの演技合戦は映画史に燦然と輝く。主人公の内面にある危うさ、不安定さ、狂気、ブランドの演技はそれまでの映画スターにないものだった。

 そして、1940年代末から50年代のワーナー・ミュージカルを一手に担っていたのがドリス・デイ。唄って良し。踊って良し。コメディ演技も良し。アメリカの良心の象徴として、60年代末までミュージカルやコメディで大活躍する。マイケル・カーティズの『夢はあなたに』(49年未公開)は、戦争未亡人のドリス・デイが、子育てをしながら歌手として大成するというコメディで、マーティン・スコセッシの『ニューヨーク・ニューヨーク』(77年)に大きな影響を与えたという。

 そのドリス・デイが颯爽と銀幕に登場したデビュー作『洋上のロマンス』(48年未公開・マイケル・カーティズ)は、バズビー・バークレイがミュージカル場面を手がけたロマンチック・コメディ。主題歌「イッツ・マジック」が大ヒット。ドリスは1940年、18歳でレス・ブラウン楽団の専属歌手としてデビュー。1942年、20歳のとき「センチメンタル・ジャーニー」を歌って一世を風靡する。 

 MGMのスター、ハワード・キールと共演した『カラミティ・ジェーン』(53年)では、西部の鉄火女を好演。主題歌「シークレット・ラブ」はアカデミー主題歌賞に輝いた。

楽園に訪れた危機 Crisis in Paradise

 1950年代、テレビの台頭で映画産業が冷え込んだ時代。ワーナーは苦境に立っていた。“So You Want a Television Set”(53年)でテレビを皮肉っていたジャック・ワーナーだったが、時代の波には勝てず、スタジオはテレビ制作に乗り出す。『ジャイアンツ』(56年)に出演したキャロル・ベーカーが、その頃のジャック・ワーナーについて語る。

 この頃、各社ともにテレビに対抗するため、映画ならではの見せ物的な企画を次々と考案。3Dの立体映画もその一つだった。観客を取り戻すため、ワーナーは、ヴィンセント・プライス主演の『肉の蝋人形』(53年)や、アルフレッド・ヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ』(54年)を3Dで製作。特に前者は、ワーナーでは少なかった怪奇映画、SF映画というジャンルの嚆矢となった。

 レイ・ブラッドベリの「霧笛」を、盟友レイ・ハリーハウゼンがストップモーション・アニメで描いた『原子怪獣現わる』(53年ユージン・ローリー)は、我が国の『ゴジラ』(54年)にも大きな影響を与えたという。このヒットで、ワーナーは巨大なアリが暴れる『放射能X』(54年ゴードン・ダグラス)などモンスター映画を連作。そして、いよいよワーナーはテレビに進出。「マーベリック」「サンセット77」などの番組は日本でも放映され、吹き替え音声による洋画テレビブームを巻き起こすこととなる。

ニューフェイス誕生  Arias for Anthropomorphs

 世界の子供たちに親しまれているワーナーのアニメーション。バッグズ・バニーが活躍する「ルーニー・テューンズ」のルーツは、1930年代にさかのぼる。ワーナー映画のタイトルを製作していたレオン・シュレジンガーのプロダクションで、アニメを製作。ディズニー出身のアニメーター、ヒュー・ハーマンとルドルフ・アイジングが参加して「ルーニー・テューンズ」「メリー・メロディーズ」が作られた。

 その後、異才テックス・アヴェリーがターマイト・テラス・スタジオを任され、ワーナー独自の過激なアニメが誕生する。このシュレジンガーのプロダクションが1944年にワーナーに買収され、チャック・ジョーンズという天才アニメーターを得て、時代にビビッドに対応した数々の短編アニメが産み出されることとなる。

広がる世界 A Wide,Wide World

 1950年代の映画界の大変革といえば、ワイドスクリーン化だろう。『銀の盃』(54年ヴィクター・サヴィル)は、ポール・ニューマン初主演、ヴァージニア・メイヨ、ピア・アンジェラによる史劇。最後の晩餐でキリストが弟子に注いだ聖杯の辿る数奇な運命を描いたものだが、マット合成を駆使したヴィジュアルが斬新な作品。

 シネマスコープの画角を効果的に使って、斬新で深い画面構成を作り上げたのが、エリア・カザン監督の『エデンの東』(55年)だった。スコッセシによる画面解説は、演出家の立場からの視点で実に興味深い。

 そして、エリア・カザン自身がジェームズ・ディーンとの出会いの瞬間について語る。ジェームズ・バイロン・ディーンは、1931年、インディアナ州のマリオンに生まれ、幼くして母親を亡くし、父方の叔母夫妻に育てられ、UCLAで演劇を学び、中退後ニューヨークのアクターズ・スタジオで本格的に演劇に取り組む。アクターズ・スタジオ創設者の一人でもあるエリア・カザン監督が、『エデンの東』の主役・キャルに抜擢。父親への愛に飢えた孤独な青年を好演し、続く『理由なき反抗』(55年ニコラス・レイ)でも傷つきやすく反抗的な若者・ジムをナイーブに演じた。そしてエリザベス・テイラー、ロック・ハドソンの『ジャイアンツ』(56年ジョージ・スティーブンス)では、屈託を持つ牧童ジェット・リンクを独自のメソッドで演じきって、大器を感じさせた。しかし、映画完成直前の1955年9月30日、自動車事故で帰らぬ人となってしまう。

巨匠の時代 An Age of Authors

 1950年代、映画史上に名高い、巨匠たちが次々と代表作をワーナーで製作。ジョン・フォード監督の『捜索者』(56年)は、それまでの勧善懲悪の西部劇とは一線を画した傑作。ジョン・ウェインの鬼気迫る演技、執念に取り憑かれた男は、西部劇ファンを驚かせた。また、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(59年)は、ウェイン、ディーン・マーチン、リッキー・ネルソンの異色トリオによる、娯楽映画のあらゆる手が詰まった傑作西部劇。主人公たちの相棒感覚、緩急自在の演出、特にクライマックスの決闘シーンは、日本のアクション映画にも大きな影響を与えている。

 サスペンスの巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督もまたワーナーで異色の傑作をものしている。交換殺人をテーマにしたロバート・ウォーカーの『見知らぬ乗客』(51年)と、冤罪の恐怖を描いたヘンリー・フォンダの『間違えられた男』(56年)の二本は、いずれも主人公が内面で感じる“恐怖”を、流麗な映像、斬新な演出で描いている。目で見るサスペンスだけでなく、心で感じる“恐怖”が1950年代のヒッチコック作品にはある。

 そしてエリア・カザン監督の『群衆の中の一つの顔』(57年)は、ブルース・シンガー役のアンディ・グリフィスが、テレビによって時代の寵児となり、マスメディアに利用されていく恐怖をブラックに描いたドラマ。 久々に映画に復帰したパトリシア・ニールの好演が光る。

兄弟の対立 Brothers at Arms

 1948年、ハリウッドの大手五社が、映画上映について、自由競争を抑制するトラストを組んでいる、と司法省と連邦取引委員会が裁判を起こし、映画会社は敗訴。これにより、ハリウッド・メジャーは、全米映画館への配給網を売却せざるおえなくなり、いわゆる製作配給一貫のブロックブッキング・システムが崩壊した。

 テレビの台頭もあり、ワーナーに限らず大手スタジオの経営は悪化、創業50周年のワーナーは撮影スタジオを、銀行を中心としたグループに売却。ところが1956年、売却取引が完了したときに、ハリー・ワーナーとアルバート・ワーナーは、売却先のグループの背後にいた投資家が、ジャック・ワーナーだったことを知る。ここではジャックの側の視点で、この騒動の顛末が紹介されているが、ワーナー兄弟の関係は、これを機に悪化してしまう。

 また、1956年には、1948年以前の作品のすべてを、配給会社a.a.p.(アソシエーテッド・アーティスツ・プロダクションズ)に売却することとなる。その後、テッド・ターナーがMGM/UAを買収した際にこれらの作品の版権も手に入れ、現在ではワーナー・ホームビデオからリリースされている。

 さて、ロザリンド・ラッセル主演のブロードウェイヒットの映画化『メイム叔母さん』(58年)、オードリー・ヘップバーンの大作『尼僧物語』(59年フレッド・ジンネマン)、そしてビリー・ワイルダー監督がリンドバーグの大西洋横断飛行を映画化した『翼よ!あれが巴里の灯だ』(57年)、ローレンス・オリビエ製作・監督・主演のマリリン・モンローの『王子と踊り子』(57年)など次々と大作を製作。これらの作品は、ハリウッドでは往事の勢いを失ってしまったと紹介されているが、日本では映画黄金時代の昭和30年代前半にロードショーされ、それぞれ大ヒット。

 そして、ジャック・ワーナーが鳴り物入りで製作したのが、ジョージ・キューカー監督のミュージカル大作『マイ・フェア・レディ』(64年)。アラン・J・ラーナー作詞とフレディック・ロウ作曲による、ブロードウェイの大ヒットミュージカルを、オードリー・ヘップバーン主演で絢爛豪華に映画化。全世界で大ヒットするブロックバスター作品となった。

より過激に Potty Mouths

 1960年代、映画のスタイルが大きく変わってきた。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが、中年夫婦の醜悪さをむき出しにした『バージニア・ウルフなんてこわくない』(66年マイク・ニコルズ)は、エドワード・アルビーの傑作戯曲を映画化。1950年代にテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」を映画化したのもワーナーであり、これもまたワーナー・スタイルの一本。エリザベス・テイラーの悪口もまた、1930年代にヘイズ・オフィスに睨まれたジェームズ・キャグニー以来のダーティ・ワードを継承しているともとれる。

なぜ ベトナムへ? Why Are We In Vietnam?

 1960年代末、ニュー・シネマの原点となったのが、実在のギャングたちの顛末をオフビートに描いた、アーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』(67年)。ウォーレン・ベイティ自身が暖めていた企画を、フェイ・ダナウェイとの共演で実現させたもの。ワーナー伝統のギャング映画でありながら、ベトナム戦争の時代の若者の気分を反映させた傑作として、今なお斬新な印象を与えるクラシックとなっている。

 ヴァイオレンスにユーモアという点では、ポール・ニューマンの『暴力脱獄』(67年スチュアート・ローゼンバーグ)もまた1960年代を象徴する傑作。製作中の1967年、ジャック・ワーナーは、スタジオ経営と音楽ビジネス(ワーナー・ミュージック)を、カナダ人投資家のエリオットとケネスのハイマン兄弟に売却。ワーナー・ブラザースは、彼らの独立プロダクション、セブン・アーツ・プロダクションズと合併、ワーナー・ブラザース=セブン・アーツと社名が変更されるが、1969年には再びオーナーが変わることとなる。

 そして、1960年代最後の年、サム・ペキンパー監督が“滅びゆく男たちへの挽歌”をヴァイオレンスたっぷりに描いた、西部劇大作『ワイルドバンチ』(69年)が登場する。これらの作品は、ワーナーらしさを纏いながら、時代の合わせ鏡ともなっている。

第4部 新たなる伝説の始まり STARTING OVER (1970-1990) 

 1969年、ハイマン兄弟は、スティーブ・ロスが総帥のキニー・ナショナル・カンパニーからの買収提案を受け入れ、経営陣が一掃される。社名もワーナー・ブラザースに戻り、1970年代の躍進が始まる。その立役者となったスティーブ・ロスが映画事業の復活を目指して、テッド・アシュリー、フランク・ウェルズ、ジョン・カリーの三人を抜擢して、新しい映画作りを目指す。

 『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(70年マイケル・ウォドレー)は、1969年にニューヨーク郊外で開催された史上空前の音楽フェスティバルのライブドキュメント。この企画を持ちかけたのが、フレディ・ワイントロープ。後にブルース・リーの『燃えよドラゴン』(73年)などを手がけるプロデューサー。こうして、新生ワーナーには逸材が集結していくこととなる。

 そして、その逸材の最たるものが、クリント・イーストウッドだった。ワーナー・ブラザースとイーストウッドの出会いは、本編に詳しいが、この『ダーティハリー』(71年ドン・シーゲル)から、40年近くに及ぶ、ワーナーとイーストウッドのリレーションが始まる。

 ロバート・アルトマン監督の『ギャンブラー』(71年)、スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』(同年)、ジョン・ブアマン監督の『脱出』(73年)の三作にも、1970年代のワーナー映画が到達した、ヴァイオレンスの新生面が見られる。“新しいヴァイオレンス”。“暴力の様式化”は、良識家の眉をひそめさせたが、若者たちの圧倒的支持を受けた。実はこうしたヴァイオレンスの革新こそ、1930年代のギャング映画から21世紀を超えた現在まで、ワーナー映画がリードし続けてきたものでもある。こうした作品を産み出すことができたのが、ジョン・カリーであり、彼らを見守るスティーブ・ロスいればこそ。

 マーティン・スコセッシの佳作『ミーン・ストリート』(73年)もまた、そうした70年代の秀作。ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテル、現在までリーディング・スターとして活躍するスターのキャリアもまた、70年代から本格的に始動する。『民衆の敵』(31年)を作ったスタジオの伝統は、こうしてスコセッシに受け継がれていることがわかる。

 そして1973年、ブロックバスター作品『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン)の登場で、ハリウッドにはホラー映画ブームが巻き起こり、日本ではオカルト映画と呼ばれ、社会現象となった。

 一方、『ブレージングサドル』(74年)のメル・ブルックス監督は「低俗で下品」と散々な評価。その後、20世紀フォックスで数々のコメディ映画を演出し、21世紀にはブロードウェイ・ミュージカル「プロデューサーズ」で大成功を収めるメル・ブルックスだが、そのお下劣さはワーナーのカラーには合わなかったようだ。

 そしてシドニー・ルメット監督、アル・パチーノ主演の『狼たちの午後』(75年)の新しさは、数々のコメントにある通り。この映画にリスペクトを捧げたのが、ジョン・トラボルタ主演の『ソードフィッシュ』(2001年ドミニク・セナ)で、ジョエル・シルヴァーの製作によりワーナー・ブラザースが公開している。

 この時期のワーナー映画の反骨精神、骨太の製作姿勢は、ニクソン大統領が失脚するきっかけとなった「ウォーターゲート事件」を題材にした『大統領の陰謀』(76年アラン・J・パクラ)に如実に現れている。ロバート・レッドフォード、ダスティン・ホフマンの二大スターを起用して、エンタテインメント性の高い社会派大作、という冒険は、スティーブ・ロスの決断によって実現。保身ではなく、チャレンジの姿勢が1970年代のワーナー映画に共通している。

孤高の天才 A Genius in the System

 スタンリー・キューブリック監督は、暴力を祝祭的に描いた『時計じかけのオレンジ』(71年)、18世紀のヨーロッパを仔細に再現した大作『バリー・リンドン』(75年)、スティーブン・キング原作のホラーを香り高くクールに映画化した『シャイニング』(80年)、そして戦争の真実を淡々と描破した『フルメタル・ジャケット』(87年)と、寡作ながら1970年代以降の作品のすべてをワーナー・ブラザースで製作。その孤高の天才ぶりと作品について、『シャイニング』のジャック・ニコルソンの「彼の映画が好きなのは、完全に意図的だからだ」というストレートな言葉に集約されている。

堅実なる天才  A Genius of the System

 クリント・イーストウッドが、初めてビッグバジェットの大作を手がけた『アウトロー』(76年)の裏話から、イーストウッドの映画作りのスタンス、ワーナー・ブラザースとの信頼関係、作品のクオリティの高さを伺い知ることができる。何よりも、本人が「自作を語る」スタイルでの紹介が、ファンにとっては最高の贅沢だろう。『ダーティーハリー3』(73年)でのヒロイン、タイン・デイリー扮する女性刑事との職場ロマンス 、『ダーティファイター』(78年)のオランウータンの相棒。西部の男になりたかったサーカスの男『ブロンコ・ビリー』(80年)では「フランク・キャプラを目指した・・・」といった、エピソードが語られる。イーストウッド映画もまた、ワーナーのカラーを象徴している。

夢のフライト A Flight of Fancy

 1970年代末、大作SFブームが巻き起こり、各社はSFXを駆使した大作を次々と製作していた。ワーナーは、アメリカが生んだ最大のヒーローを、最新のSFXを駆使して映画化。リチャード・ドナー監督の『スーパーマン』(78年)には、往年のハリウッド映画の“ロマンチック・コメディ”の再生ともいうべき、ロイス・レイン(マーゴット・キダー)とスーパーマン/クラーク・ケント(クリストファー・リーブ)のロマンスも盛り込まれ、世界的大ヒットとなった。

変化の時 Time for a Change

 1970年代のワーナー・カラーを作ってきた、プロデューサーのジョン・カリーが限界を感じて辞意を表明。スティーブ・ロスは、新しいパートナーとして、テレビに詳しいボブ・デイリーを招き入れることになる。

 ローレンス・カスダン監督、キャスリーン・ターナー主演『白いドレスの女』(81年)は、ヒッチコックが作ってきたサスペンスに、現代的な感覚を取り入れ、セックスを全面に押し出し大成功を収める。この映画の成功により、1980年代の映画のスタイルが確立していくこととなる。新しいスターも続々と登場する。『卒業白書』(83年ポール・ブリックマン)のトム・クルーズ、スティーブン・スピルバーグ監督の人間ドラマ『カラーパープル』(85年)のウーピー・ゴールドバーグ・・・

 1976年、ユニバーサルの『ジョーズ』でセンセーショナルに登場した、スティーブン・スピルバーグ監督は、1980年代、ワーナーで人間を描く大作ドラマを手がける。『カラーパープル』では黒人の哀しみ、J.G.バラード原作の『太陽の帝国』(87年)では、世界大戦のなか大人へと成長を余儀なくされる少年(クリスチャン・ベール)を描いて、スペクタクルだけではないドラマ作家としての力量を発揮、演出家としてますます円熟していくこととなる。

 1982年8月2日、ワーナー・ブラザースの創設者で、ワーナー四兄弟の末弟、ジャック・L・ワーナーが86歳の天寿を全うした。一つの時代が終焉したのだ。

 それから10年後、1969年からワーナーを復活させ、70年代〜80年代末までの黄金時代を築いたオーナー、スティーブ・ロスは1992年12月20日に亡くなってしまう。スピルバーグたちが語るその人柄に、この時代のワーナーのクオリティの高さのバックボーンを感じる。

 かつてジャック・ワーナーの右腕として活躍していたダリル・F・ザナックは、20世紀フォックスのオーナーとしてハリウッドに君臨したが、その息子リチャード・ザナックもまたプロデューサーとして、スピルバーグの『ジョーズ』を製作するなどハリウッドに貢献してきた。そのリチャード・ザナックの企画による心暖まるドラマ『ドライビング Miss デイジー』(89年ブルース・ペレスフォード)のエピソードも、この時代の映画制作の裏側が垣間見える。

 そして1989年、ワーナーの90年代の成功の先駆けとなる、ティム・バートン監督の『バットマン』が登場する。 バットマン(マイケル・キートン)とジョーカー(ジャック・ニコルソン)の対決は。独特のダークな美学に裏打ちされたヴィジュアル、清濁合わせ呑んだヒーローは、若い世代の圧倒的な支持を受けて、シリーズ化されることとなる。

第5部 息づく伝統と巨大メディア A LIVING TRADITION (1988-2008) 

 1980年から99年まで、ワーナー・ブラザースの会長兼CEOを勤めたロバート・デイリーは「確実に大きな収益を得られる映画が1年に3〜4作品は必要だ」と、ビッグバジェット映画の重要性について語る。同時に、ドル箱があれば、個性的な作品、質の高いドラマも製作し続けることができる。映画の持つ矛盾でもある“ビジネス”と“文化”“娯楽”と“芸術”を両立させていることは重要なこと。 

 事業を拡大させながらも、クリント・イーストウッド監督の『バード』(1988年)のような、スタイルを持った作品を製作している。クリエイターにとって、テリー・セメルのようなスタジオ・トップは理想的な存在だったろう。伝説のジャズ・プレイヤー、チャーリー・パーカーの伝記は、ジャズ・マニアに向けて作られた“観客を選ぶ映画”でもあるが、こうした良品は“必要な映画”でもある。 

 マーティン・スコセッシの『グッドフェローズ』(90年)も、作家性の強い作品だが、現代的なヴァイオレンスとダーティ・ワードに溢れた、ワーナー伝統のギャング映画でもある。ここでスコセッシが“ロードムービー”と語っているのは、1940年代にパラマウントで連作された、ビング・クロスビーとボブ・ホープ主演の喜劇“珍道中シリーズ”のこと。 ケビン・コスナーが自ら企画した『ボディガード』(1992年)も、ヒロインにホイットニー・ヒューストンを起用するという、冒険をワーナーのトップが認めたことで作品の成功につながった。ことほど左様に、製作者の決断と直感は重要ともいえる。

 そうした製作環境だったからこそ、イーストウッドが十年暖めていた、“最後の西部劇”『許されざる者』(92年)が、アカデミー作品賞、監督賞などを獲得、興行的にも世界的な大成功を収めたといえる。『許されざる者』のメイキング映像は、本作の演出をしているリチャード・シッケルがディレクターをつとめたもの。

 こうした作家の映画を支えているのが、大作映画。往年の人気テレビドラマを大作映画としてリニューアルさせるのも1990年代あたりから。『逃亡者』(93年アンドリュー・デイヴィス)は、無実の罪を着せられたハリソン・フォードが、トミー・リー・ジョーンズの捜査官に執拗に追われる、危機また危機のアクション。このヒットにより、トミー・リー・ジョーンズのキャラクターをスピンオフさせた『追跡者』(98年スチュアート・ベアード)が製作された。

 そして、カーティス・ハンソン監督の『L.A.コンフィデンシャル』(97年)もまた、ワーナー・ブラザースでなくては成立しなかった企画だろう。1940年代のロサンゼルスを舞台に、警察の腐敗とセルロイド・ロマンスと呼ばれた映画界の裏側が描かれる。華やかなイメージの裏にある現実。フィルム・ノワールとしても、時代を描いた映画としても、映画史上に残る傑作となった。

スタンリーに捧ぐ For the Love of Stanley

 孤高の天才、スタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』(87年)以来、12年ぶりとなった新作『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)は、トム・クルーズとニコール・キッドマンの倦怠期の夫婦に忍び寄る、静かな崩壊の恐怖を描いた作品。1972年にキューブリックが映画化権を獲得していたが、なかなか実現を見なかった。ニューヨークを舞台にした物語だが、撮影はロンドンで極秘裏に進められ、完成後、公開を待たずにキューブリックは亡くなってしまう。同時に進められていたのが、スピルバーグとのコラボによるSF大作『A.I.』(2001年)だった。

シリーズもの Franchise Players

 1999年、映像革命と呼ばれ、世界的に大ヒットしたのが、ウォシャウスキー兄弟のSF大作『マトリックス』だった。製作はジョエル・シルヴァー、主演はキアヌ・リーブス。CGを使った斬新なヴィジュアルは時代の花形となり、公開後もDVDが驚異的な売り上げを記録。1999年のアカデミー賞では、視覚効果賞、編集賞、音響賞、音響賞と、技術部門を総なめにした。香港映画でおなじみのワイヤーアクション、バレット・タイムと呼ばれる特殊な撮影(被写体は静止したまま、キャメラアングルだけが変化)によるヴィジュアル・ショックは、その後の映画の演出を大きく変え、ビッグバジェットのヒット・シリーズとして三作作られた。

 そして21世紀に入って、ファンタジー大作のヒット・シリーズが登場。『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001年クリス・コロンバス)は、イギリスの児童文学作家J・K・ローリングが1997年に発表したファンタジー小説の映画化。ハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)が繰り広げる冒険の数々を、原作に沿って映画化が続けられ、空前のヒットを続けている。

クルーニー効果 The Clooney Factor

 クリント・イーストウッドがそうだったように、ジョージ・クルーニーは俳優でありながら、プロデューサー、監督をつとめ、自身が納得する映画作りを続けている。そのフィールドの中心がワーナー・ブラザースということになる。『パーフェクト・ストーム』(2000年)で、クルーニーが新しい時代のスターになったと紹介されている。

 クルーニーは、映画評論家でニュースキャスターだった、ニック・クルーニーの息子で、下積みを経て、32歳でワーナー製作のテレビドラマ「ER緊急救命室」のオーディションに合格、1994年の放映開始とともに、一躍人気を獲得した。1997年『バットマン&ロビン Mr.フリーズの復讐』でバットマンを演じ、2000年に『スリー・キングス』(デヴィッド・O・ラッセル)に出演、スティーブン・ソダーバーグ監督と製作プロダクション“セクション8”を設立(2008年に解消)、自ら映画製作に乗り出した。『オーシャンズ〜』三部作(2001〜2007年)のエンタテインメント性と、自ら監督もした“赤狩り”を描いた『グッドナイト&グッドラック』(2005年)での真摯な製作姿勢によりイーストウッドの後継者的存在となりつつある。『シリアナ』(2005年)ではアカデミー助演男優賞を獲得している。

世界の観客に向けて A World Audience

   トム・クルーズ主演の『ラスト・サムライ』(2003年)は、渡辺謙を一躍国際スターにしたことでも記憶されている。映画の題材も、アメリカ中心のものから、世界マーケットを意識したものに変化してきている。アメリカ国内での興業収益がふるわなくても、世界でヒットするなら、それもまたビジネス、という考え方はそれまでのハリウッドにはなかったもの。

受賞の数々 Glittering Prizes

 「ハイ・コンセプトでリスクが伴うと、より劇的でリアルに仕上がる」とは、『ミスティック・リバー』(2003年)のクリント・イーストウッド監督自らの言葉。ビッグバジェット作品の合間に、良質の作品を作り続けるという姿勢は、21世紀になって、ますます強い傾向となり、アンチ・ハリウッド的な『ミスティック・リバー』は、ワーナーだからこそ成立した企画、というのにはイーストウッドならずとも驚いてしまう。

 続くイーストウッドの25番目の監督作品『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)は、3000万ドルの低予算、わずか37日という短期間のローバジェット作品として作られた。これまでのアメリカ映画とは一線を画した味わいが高い評価を受け、全米で1億ドルの興行成績を記録。アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞(ヒラリー・スワンク)、助演男優賞(モーガン・フリーマン)の四部門に輝いた。

 良質な作品ということでは、ニキ・カーロン監督、シャーリーズ・セロン主演の『スタンドアップ』(2005年)、ポール・ハギス監督、トミー・リー・ジョーンズ主演の『告発のとき』(2007年)の二作は、いずれも従来のハリウッド映画とは異なるテーマを内包した作品だった。しかし、『スタンドアップ』は、サイレント時代から、労働者階級に向けて映画製作を続けてきたワーナーならではの企画ともいえる。 

 そしてポール・ハギスが脚本を執筆した、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島二部作」は、日米双方の側から戦争を描いた渾身の大作。渡辺謙が栗林中将に扮した『硫黄島からの手紙』(2006年)は、軍人の内面と極限における状況を描いて傑作となった。

  マーティン・スコセッシ監督が、念願のアカデミー監督賞、作品賞を獲得した『ディパーデッド』(2006年)は、マット・ディモンとレオナルド・デカプリオによる新時代のヴァイオレンス映画。ワーナーのギャング映画の伝統をふまえつつ、「隣にいた仲間が殺される感覚」を味わう無機質な死の描写、冷徹な感覚は、ヴァイオレンス映画の新境地となった。

 ジョージ・クルーニーの『フィクサー』(2007年トニー・ギルロイ)の主人公も清濁合わせ飲んだ男。不正に加担しながら、最後は正義のために立ち上がる。クルーニーは、シドニー・ルメット監督の『ネットワーク』(1976年MGM)のピーター・フィンチのようだと語るが、『フィクサー』にはシドニー・ルメットが俳優として出演している。

   このアンソロジーの最後を締めくくるのは、クリストファー・ノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』(2005年)と『ダークナイト』(2008年)。クリスチャン・ベール扮するバットマン=ブルース・ウェインを単なるヒーロー映画の主人公とはせずに、苦悩する主人公として設定。さらに『ダークナイト』に登場する、ヒース・レジャー演じるジョーカーのキャラクターの邪悪さ! ヒース・レジャーの持つ狂気は、『白熱』(1949年)のジェームズ・キャグニーに通じる、行動予測不能の“邪悪な犯罪者”として描かれている。ここにもワーナー・ブラザース・スタジオの伝統を感じさせてくれる。

  ワーナー・ブラザースの伝統は、クリント・イーストウッド、マーティン・スコセッシ、そしてジョージ・クルーニー、クリストファー・ノーランといった映画人たちにより、今なお継承されて、映画の未来へと受け継がれてゆくに違いない。

よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。