見出し画像

ハナ肇とクレイジーキャッツと、“クレージー映画”の時代

文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト・近藤こうじ

 1962(昭和37)年7月、『喜劇 駅前温泉』(東京映画/久松静児)の併映作として封切られたのが、ハナ肇とクレイジーキャッツの植木等が主演した『ニッポン無責任時代』(東宝・古澤憲吾)だった。前年、1961(昭和36)年の8月20日にリリースされた、デビュー盤「スーダラ節」のヒットで醸成された植木等=スーダラ男のイメージは、やはり前年6月にスタートしたヴァラエティ「シャボン玉ホリデー」(NTV)などで、さらに増幅。空前のイジーキャッツブームが席巻しつつあった。

 グループが結成されたのが1955(昭和30)年4月1日。ラテンブームのなか、ハナ肇とキューバンキャッツとしてスタートした。ドラムのハナ肇、ベースの犬塚弘のみが後のメンバー。当初は、「スーダラ節」など数多くのヒットを作曲・編曲することになる萩原哲晶などが参加していた。キューバンキャッツは、この年創立された渡辺プロダクションのタレント第一号でもあった。いつクレイジーキャッツに改名されたかは諸説あるが、渡辺プロの資料によると同年10月とされている。正式なバンド名はハナ肇とクレイジーキャッツ。映画ではクレージーと表記されることが多いため、本稿もそれに準じる。

 翌1956(昭和31)年には、トロンボーンの谷啓、ピアノの石橋エータローが加入。1957(昭和32)年にギターの植木等、サックスの安田伸が加入。ようやくメンバーが固定され、新宿コマ劇場や大阪・梅田コマ劇場などの大きなステージや、ジャズ喫茶を中心に活躍。1960(昭和35)年に石橋エータローが病気のために一時休養、ピンチヒッターとして三木鶏郎の音楽工房にいた三木雛郎こと桜井千里が参加。石橋復帰後も、リーダーのハナ肇の温情で桜井もメンバーに残留、こうして七人組となる。

 時はあたかもテレビ草創期。1958(昭和33)年には、ヴァラエティ「光子の窓」(NTV)、1959(昭和34)年には、フジテレビ開局と同時に生放送のコント番組「おとなの漫画」(CX)がスタート。一週間の帯番組で、その日のニュースやトピックをネタに、メンバーが風刺コントを演じるというもの。この番組の座付き作家として、連日、アイデアを絞り出していたのが放送作家の青島幸男。青島は彼らの座付き作家として、「シャボン玉ホリデー」などにも参加。「スーダラ節」「だまって俺について来い」などのノヴェルティ・ソングの作詞者として、植木等のイメージ作りに貢献することになる。

 所属の渡辺プロの戦略もあって、時代の波にのってテレビに活躍の場を拡げたクレイジーキャッツ。彼らが映画に出演することは必然でもあった。小林桂樹が山下清に扮した『裸の大将』(1958年東宝・堀川弘通)では、新聞記者の役でメンバー総出演。ハナ肇主演の『足にさわった女』(1960年大映・増村保造)へのメンバーの助演など、テレビの人気者のゲスト出演的な扱いで、映画にも顔を見せるようになった。ほとんど数シーンの客演扱いであったが、和田浩治主演のアクション・コメディ『竜巻小僧』(1960年日活・西河克己)では、キャバレーでのコミック演奏をする場面があり、当時のステージの雰囲気が味わえる。

 谷啓によると、この「CRAZY BEATS」のナンバーは、厳密にはステージでのネタに加え、映画でないと出来ない視覚ギャグなどを加えて編曲。撮影にあたって譜面にギャグを一つ一つ書き込んで、実験的に作っていったもの。この手法は、後の東宝映画での音楽コント場面へと発展していく。

 やはり、演奏場面が楽しめるのが『腰抜け女兵騒動』(1961年東京映画・佐伯幸三)。渡辺プロの人気デュオで、テレビでも共演の多かったザ・ピーナッツと共に、コミカルにジャズを演奏する慰問シーンも貴重な記録。テレビ局でのメンバーを多分にカリカチュアしながらも見せてくれるのが、『黒い十人の女』(1961年大映・市川崑)。

 他の人気タレント同様、映画へのゲスト出演中心だったが、1961年の「スーダラ節」と「シャボン玉ホリデー」によって、文字通りブレイクする。この年の大晦日、植木等は「スーダラ節」で日本レコード大賞企画賞を受賞。翌、1962年1月20日には、シングル第二弾「ドント節」/「五万節」(作詞:青島幸男、作・編曲:萩原哲晶)がリリースされ、人気にさらに拍車がかかる。

 渡辺プロダクションの渡邊晋社長は、ジャズプレイヤーや音楽アーティストのために、安定した仕事の場を供給するべくプロダクションを設立。夫人で副社長の渡辺美佐と共に、「日劇ウエスタンカーニバル」で大型劇場とのユニットを成功させ、続いて開局間もないフジテレビで「ザ・ヒットパレード」へ自社のタレントを供給するかたちでユニット製作を実現。番組で自社のアーティストをアピールし、レコード売り上げにつなげて行く、という画期的な方策で、50年代後半から60年代前半の日本のショウビジネスを発展させていった。渡辺プロのシンボル的存在がクレイジーキャッツだった。その渡邊晋の次の進出の場として選んだのが映画界だった。

「スーダラ節」のヒットに目をつけた邦画各社は、スーダラ男=植木等への便乗企画を次々と立て、人気にあやかろうとした。それが大映の『スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ』(1962年3月25日 弓削太郎)、松竹の『クレージーの花嫁と七人の仲間』(1962年4月15日 番匠義彰)や、大映の『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』(1962年5月12日 枝川弘)だった。内容はともかく3月〜5月にかけて三ヶ月連続公開されたわけである。

 興味深いのは、松竹大船で「花嫁」シリーズを巧みな話法で演出してきた番匠義彰の『クレージーの花嫁と七人の仲間』だろう。松竹グランドスコープ第一作『抱かれた花嫁』(1957年)以来、『のれんと花嫁』(1961年)などが連作されている。近年、プログラムピクチャーに造詣の深い、音楽プロデューサー・大瀧詠一らにより、番匠作品を評価する動きがある。これはクレージー映画というより「花嫁」シリーズとして評価されるべき作品だろう。

 やがて満を持して登場したのが、東宝の『ニッポン無責任時代』(7月29日)だった。植木等=スーダラ男のイメージに加え、“無責任男”という新たな概念を産み出した。それに貢献したのが脚本家の田波靖男。もとはフランキー堺主演で、東宝名物となっていた「社長シリーズ」などで描かれている滅私奉公的サラリーマン映画のアンチとして「無責任社員」というプロットを練っていたという。そこへ、プロデューサーの安達英三朗が「スーダラ節」をテーマにした「クレイジーキャッツものを書いて欲しい」と依頼をしたことが、すべての始まり。田波は「スーダラ節」で青島が描いた「わかっちゃいるけどやめられねぇ」という思想に、さらにドライな“無責任”という概念を加えて、悪漢小説的なヒーロー、平均(たいらひとし)を誕生させた。松竹が安定路線の「花嫁」シリーズにクレイジーを合体させたように、東宝も団令子、中島そのみ、重山規子の「お姐ちゃんトリオ」との共演作にしている。

 監督として抜擢されたのが、坂本九主演の「アワモリ君」三部作(61年)で、突如として音楽場面がインサートされる“突然ミュージカル場面”を確立させた古澤憲吾だった。渡辺邦男や、松林宗恵に師事し、数多くの現場を経験してきた古澤は、リズミカルなカッティングや、イントロを排除していきなり歌から始める演出など、独特の手法で映画をスピーディなものに仕上げていった。

東宝スコープの横長の画面せましと動き回る登場人物。カット変わりも、人物のアクションから始まる。問答無用という言葉が相応しい古澤演出を得て、スクリーンで植木が演じた平均に、パワフルな生命エネルギーが与えられた。

 植木が人の家に上がり込んで、いきなりギター片手に「ドント節」を、太平楽に歌う。「スーダラ節」を歌いながら階段を駆け上がる、その勢い。真っ暗なステージに浮かび上がるピンスポットに照らされた植木が、「ハイそれまでョ」を歌い出す。背景が赤と黄色のホリゾントで彩られ、画面分割され、植木が歌いまくる。これが宴会場だと観客が知るのは、座敷のリアクションショットが入ってから。他人の家だろうと、夜道だろうと、突如として歌い出す。

 主題歌「無責任一代男」の歌い出し「♪俺はこの世で一番/無責任といわれた男」は、青島によると、戦前にエノケンこと榎本健一が歌った「洒落男」と同じ手で作ったという。「♪とかくこの世は無責任/こつこつやる奴ぁ/ご苦労さん」という歌詞のインパクト。田波が提示した「無責任」というテーゼを、青島が見事に歌詞に昇華させて、植木が不謹慎にも笑いながら歌う。それを勢いのある演出で、古澤がビジュアル化。『ニッポン無責任時代』の魅力は、こうした歌唱場面に集約されている。

 ともあれ『ニッポン無責任時代』の成功により、引き続き『ニッポン無責任野郎』(1962年12月23日 古澤憲吾)が作られ、クレージー映画時代の幕が上がることになる。東宝クレージー映画は、『ニッポン無責任時代』から、1971(昭和46)年の『日本一のショック男』(坪島孝)までに作られた、植木等主演、あるいはクレイジーキャッツ出演の一連の作品のこと。植木単独主演の「日本一の男」シリーズ、メンバー総出演の「クレージー作戦」もの、『ホラ吹き太閤記』(64年/古澤憲吾)などの「時代劇」ものに大別される。

『日本一の色男』(1963年・古澤憲吾)から『日本一のショック男』(1971年・坪島孝)まで十作作られた「日本一の男」シリーズは、第五作『日本一の男の中の男』(1967年・古澤憲吾)まで、脚本を「社長」シリーズのメインライター、笠原良三が担当。『ニッポン無責任時代』とテイストは似ているが、明らかに異なるのは主人公の行動原理。『日本一の色男』では、どんな手でもいとわないドライな化粧品のセールスマンだが、実は恋人の手術費用捻出のため、という動機がラストに明らかになる。

 これはドル箱となった植木等映画の「無責任」からの路線変更であり、続く『日本一のホラ吹き男』(64年/古澤憲吾)も、無責任なホラ吹きではなく、有言実行のためのホラを吹くバイタリティあふれる主人公。しかし、パワフルな古澤演出、元気いっぱいにスクリーンを駆け回る植木等がもたらす印象は、高度成長時代の「個人主義」的「スーパーサラリーマン」像として受け入れられ、古澤&植木コンビによるパワフルなコメディとなった。

 一方メンバー全員が出演する「クレージー作戦」は、第一作『クレージー作戦 先手必勝』(1963年・久松静児)から、プロデューサーに渡辺晋が名を連ねている。数々のメディアとユニット製作を果たして来た渡辺プロが、ここで映画の製作に乗り出し、以後、東宝とのユニットでクレージー映画は量産されてゆく。また、第二作『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年・坪島孝)で、「無責任」の生みの親である田波靖男自身が「くたばれ!」と幕を引くこととなる。「無責任」という強烈なインパクトでスタートしたクレージー映画は、テイストはそのままで、明らかな路線変更をしながら1960年代にニッポンを駆け抜けることになる。

 古澤憲吾と共に、東宝クレージー映画を支えたのが坪島孝監督。ハリウッド・コメディをこよなく愛する坪島孝と、同世代の田波靖男のコンビによる『クレージーだよ奇想天外』(1966年)は、谷啓のハートウォーミング喜劇。谷啓の持つホンワカとした味と、坪島の資質がピッタリで、古澤&植木のバイタリティ喜劇と正反対のベクトルのファンタジックなコメディに仕上がった。その坪島の代表作の一つが、全米縦断ロケを敢行した『クレージー黄金作戦』(1967年)。上映時間が二時間半を越える大作で、ことにラスベガス大通りを封鎖して撮影された「ハローラスベガス」のナンバーが圧巻。

 こうしたクレージー映画のイメージをまとめあげたのが、萩原哲晶、宮川泰といった、クレイジーキャッツを支えた作曲家たちによる勇壮なテーマ曲や、歌唱場面の絶妙なアレンジ、映画オリジナルの挿入歌など。カラフルなサウンドが、レコードやテレビで醸成された歌のイメージをスクリーンで増幅させ、映画の印象を際立たせている。

半世紀以上経ても、スクリーンにとどまらず、CDやDVDといった様々なメディアを通じて、植木等や谷啓、ハナ肇たちのパフォーマンスが愛され、2007年には、植木等のフィギュアが発売されるなど、今なお新たなファンが生まれ続けている。こうしたブームは、作品の出来はともかく九年間に三十本も作られたクレージー映画のインパクトが核となっていることは、間違いないだろう。


よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。