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ザッツ・エンタテインメント! MGMミュージカルを支えた人々 アーサー・フリードとその時代 PART2

佐藤利明(娯楽映画研究家)


*1995年レーザーディスク「ザッツ・エンタテインメント !スペシャル・コレクターズセット」のブックレット解説に加筆修正しました。

「若草の頃」がシネ・ミュージカルを変えた 1944年

 1942年の半ば、フリード・ユニットは最初のビッグ・ヒットとなるテクニカラー大作『若草の頃』(1944年)の製作準備に入る。あの『オズの魔法使』(1939年)のメインテーマ“There’s No Place Like Home”「おうちがいちばん」の精神を受け継いだホーム・ドラマ・ミュージカルである。
 サリー・ベンソン女史の自伝的小説「ケンジントン物語」をベースに、原作者が家族と共に幼年期を過ごしたセントルイスのエピソードを脚色。この作品の叙情的な雰囲気を支えたのが、フリードが招聘したブロードウェイ出身の逸材たちだ。
 シナリオのフレッド・ウィンクルホフとアーヴィング・バチェラーによる心温まるストーリー。ヒュー・マーティンとラルフ・ブレインによるスタンダード・ナンバーとなる“The Trolley Song”(TE1),“The Boy Next Door”(TE1),”“Have Yourself A Merry Little Christmas”(TE2)が誕生した。
 ミュージカル脚色にはロジャー・イーデンス。ミュージカル監督にレニー・ヘイトン、衣裳にアイリーン・シャラフと、フリード・ユニットのベスト・メンバーが揃っている。
 これがデビュー三作目となったヴィンセント・ミネリ監督は、万国博覧会に沸き返る20世紀初頭の、古き良きセントルイスの風俗をゆったりとゴージャスに描き、ミュージカル・ナンバーがドラマを推し進めていくというスタイルは、それまでのバラエティ・ショウ的シネ・ミュージカルとは一線を画して、斬新なものとなった。
 撮影を通して、ジュディ・ガーランドとヴィンセント・ミネリのロマンスが生まれ、二人は1945年、M G Mスタジオの誰からも祝福されて結婚した。

フリード&ミネリの挑戦 1945〜1946年

 次にフリードはヴィンセント・ミネリと組んで、フレッド・アステア主演の異色ミュージカル『ヨランダと盗賊』(1945年・未公開)をプロデュースする。ジンジャー・ロジャースと組んで、1930年代にR K O映画で『トップ・ハット』(1935年)や『有頂天時代』(1936年)などでエレガントなダンス、超絶タップで黄金時代を築いたフレッド・アステア。M G Mにはデビュー作『ダンシング・レディ』(1933年)以来となった、『踊るニュウ・ヨーク』(1940年)は、M G Mのクイーン・オブ・タップ、エレノア・パウエルと共演。コール・ポーターの“Begin the Beguine”(T E1)を踊ってショウ・ストッパーとなった。この時のプロデューサーは、1930年代半ばからM G Mで数多くのミュージカルを手掛けていたジャック・カミングスだった。

 常に新しいダンス・ナンバーに挑戦を続けていたアステアと、今までにない斬新なシネ・ミュージカルを作ろうと、フリードとミネリは、映画でしか表現できないダンスを創造しようとファンタジックな『ヨランダと盗賊』を企画した。
 ミネリとフリードは、1940年代に入ってもR K O時代の焼き直しのままだった、アステアのロマンチック・ミュージカルからの脱却を目指したのだ。タップやエレガンスなデュエット・ダンスを身上としてきたアステアに、モダン・バレエを踊らせようという大胆な試みである。
 アステアのお相手は、ルシル・ブレマー。『若草の頃』で長女を演じたブレマーは、フリードのお気に入りで、個人的な関係でもあった。さて『ヨランダと盗賊』は、高額な予算をかけて豪華なセットを組み、製作日数は予定を大幅に超え、結果的には莫大な製作費がかかってしまった。公開は1946年にずれ込み、もちろんアステアのバレエなど、観客の好みではなく、フリード・ユニットとしては、初の失敗作となった。

 また1944年、フリードはブロードウェイの大プロデューサー、フローレンツ・ジーグフェルドのレビュー・ステージを、M G Mの豪華なスターで再現する壮大なプロジェクト『ジーグフェルド・フォーリーズ』を進めていた。
 M G Mは、1936年、ウイリアム・パウエル主演でジーグフェルドの伝記映画『巨星ジーグフェルド』(製作はハンス・ストロンバーグ)でアカデミー作品賞を受賞していた。フリードにとっては、ジーグフェルドはブロードウェイ・ミュージカル文化を創り上げた功労者で、自分はハリウッドでジーグフェルドのような成功を目指していた。

 1939年から、フリードはテクニカラー大作として温めていた企画で、ジーグフェルドのショウと同じフォーマットで、ドラマを排して、歌とダンス、スペクタクル・ナンバーと、人気コメディアンによるスケッチ(コント)の大レビューを、M G Mスターで製作しようというものだった。フレッド・アステア、ジュディ・ガーランド、ジーン・ケリーたち、スターを総動員。   

 1944年3月1日にクランクインした段階では、『世紀の女王』(1944年)や『錨を上げて』(1945年)などを手掛けるジョージ・シドニーが総監督として現場を指揮していたが、程なくフリードに協力監督の参加を要請した。
 そこヴィンセント・ミネリが5月11日に現場入り。ほとんどのシークエンスを演出することになる。しかし、この巨大なプロジェクトはフリードにも、コントロール仕切れるものではなかった。
 完成作は、三時間を超え、試写の観客には「退屈過ぎる」と散々な評判で、結局、スタジオは二時間近くに大幅カットすることに。アステアがコンガの上で踊る“If Swing Goes, I Go Too”もカットされた。1945年8月にボストンでロードショウ公開されたものの、評判にならず、M G Mはそのままお蔵入りにした。結局、1946年4月9日になってようやく全米公開された。


 このテクニカラー超大作は、最終的に製作費300万ドルのビッグバジェットとなり、『ヨランダと盗賊』とともに、フリードとミネリにとっては悪夢のような出来事だった。後年、フレッド・アステア、ミネリ、フリードによる『バンド・ワゴン』(1953年)での、シェイクスピアのミュージカル・ショウが大失敗するシークエンスは、この苦い経験をセルフ・パロディにしたもの。

 さて、第二次世界大戦が連合軍の勝利で終結した、この時期、フリードとミネリは、ジュディ・ガーランド初のノン・ミュージカル『時計』(1945年)を発表。ロバート・ウォーカーの兵士とガーランドが24時間の恋に落ちる、戦争メロドラマの佳作となった。


  しかし、野心溢れるフリードは、ブロードウェイ・ミュージカル「オクラホマ!」(1943年)の大ヒットにヒントを得て、西部を舞台にしたオリジナルのシネ・ミュージカルを企画する。
 ジョージ・シドニー監督『ハーヴェイ・ガールズ』(1946年・未公開)である。ジュディ・ガーランドがウエスタンで大暴れする趣向は、彼女のコメディエンヌとしての才能を最大限に生かし、ハリー・ウォレンとジョニー・マーサーによる“On The Atchison Topeka And The Santa Fe”(TE1)は、ケイ・トンプソンのヴォーカル・アレンジも素晴らしく、1946年のアカデミー賞で最優秀主題歌賞に輝いた。

 一方、フリードはブロードウェイで成功を収めた、レジェンドともいえるソングライターを次々とM G Mに招聘し、シネ・ミュージカルのための歌曲を依頼。アーヴィング・バーリン、アイラ・ガーシュウィン、コール・ポーター、バートン・レーン、ジョニー・マーサーたち。錚々たるメンバーが名前を連ねている。ソングライターとしても長いキャリアを持つフリードが次に手掛けたのが、ジェローム・カーンの伝記映画『雲流るる果てに』(1946年・未公開)だった。

 M G Mではこの後、ソングライターの伝記映画を連作していくが、これらの作品ではM G M専属スターのみならず、ジャズ、クラシックなどで活躍中のアーティストを揃えて、おなじみのスタンダード・ナンバーによるソング・ブックとしての価値、バラエティ・ショウとしての楽しさ、そして人間ドラマの魅力を盛り込んで、M G M名物となっていく。(PART3へと続く)


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