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徳川家康と藤堂高虎|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】

人手不足と人材不足は違う。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は全国的に“人手”不足が注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、“人手”は足りているものの、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も深刻な課題となっている。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”たちをいかに確保し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現代ビジネスでも変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


「功の成るは成るの日に成るに非ず」

歴史上の人物を扱った、漫画の原作や監修の仕事に携わるようになって15年になる。

「上様、謀叛にございます」

様々なストーリーを執筆するなかで、筆者が登場人物の1人として、本能寺で就寝中の織田信長(1534〜82)にこんな声を掛けたことも、彼の「是非に及ばず」という最期の言葉を聞いたのも1度や2度ではない。

その都度、〝信長死す〟の訃報を備中高松城の羽柴秀吉(のち豊臣、1537〜98)や、堺見物中の徳川家康(1542〜1616)もとへ届けては、彼らとともに右往左往しつつ、打開策を練った。

そして、あるときは梅雨どきの山陽道を足が不自由な黒田官兵衛(1546〜1604)の輿を担いで駆け抜け、またあるときは鈴鹿峠で主君の首を狙う野盗・野伏を相手に井伊直政(1561〜1602)らとともに戦った。

秀吉の中国大返しと家康の伊賀越え。まさに九死に一生――死地からの生還だった。

このとき主君の秀吉や家康の傍らに共通してあったものは、この先どうするかという明確なビジョンと、彼らが新戦力として獲得した官兵衛や直政といった優秀な人材だ。

中国は北宋の文章家・蘇洵(1009~66)は言う。

「功の成るは、成るの日に成るに非ず、蓋し必ず由って起こる所あり」

ある事柄の成功は、その成功した日に、突然、もたらされたわけではない。必ず、これに先立って、その成功をもたらすべき原由がある。

戦国乱世のなかで天下をとった秀吉と家康は、常日頃、いざという時のために新しい人材を獲得していた。そして2人は彼らに将来のビジョンを示し、あるいは議論し、それぞれの局面で自らの身の振り方を決断した。

すべては自らの“家”を存続させるため、ひいては自らが抱えた家臣たちを守るためだ。

「俺の価値はそんなものじゃない」

本能寺の変から3年後の天正13年(1585)は、家康にとって苦難の連続だった。第一次上田合戦で真田昌幸(1547〜1611)率いる真田軍に敗北を喫し、幼少から近習として仕えていた重臣・石川数正(?〜1592)が突然、秀吉のもとへ出奔。さらに領内では地震が相次ぐなど窮地に陥っていた。

その頃、秀吉は関白に就任し、天皇の権威を盾に全国の大名に停戦を命じることができる惣無事令を出す権限を獲得。彼のもとへは臣下の礼をとるために、全国各地から続々と大名たちが集まっていた。

当然、秀吉は家康に対しても上洛を促した。

家康は当初、秀吉からの呼び出しを無視していたが、客観的にみて秀吉に対抗できる状態ではなかった。

翌天正14年10月、家康は上洛する。彼は“家”を守るために秀吉に臣従することを決断した。

「この家康が家臣になったからには、今後、関白殿下に鎧は着させませぬ」

大坂城の居並ぶ大名を前で、家康が秀吉に陣羽織を所望した逸話は有名だ。

家康と藤堂高虎(1556〜1630)が出会ったのは、ちょうどこの頃のこと。秀吉の政庁兼邸宅として、京の伏見に建築中だった聚楽第の傍らに家康の屋敷が設けられることになった。このとき秀吉の弟・羽柴秀長(1541〜91)の配下にあった高虎がその屋敷の普請奉行をつとめることになったことによる。

殺るか殺られるかの〝弱肉強食〟の時代に、藤堂高虎は自らの生きる道を自らの力で切り開いた“戦国の武士”を代表する人物だ。

北近江の地侍の家に生まれた高虎は、15歳で初陣して以降、どの主君に仕えても武勇を認められず、仕官先を転々として流浪の日々を送っていた。

(俺の価値はそんなものじゃない)

やがて郷里へ舞いもどったところ、織田家の出世頭・秀吉が北近江の領主となり、羽振りいいことを知る。天正4年頃のことだ。ときに高虎21歳。

ここで高虎は秀長と出会う。高虎にとって秀長は5人目の主君だった。

秀長は高虎に武勇だけでなく、兵術や算術などの学問の大切さを教え、やがて高虎に築城術に才能があることを見出した。高虎の人生は、秀長と出会ったことで一変したといってよい。

そんな高虎が伏見の家康の屋敷を普請することになった。このとき両者の間にエピソードが残っている。

秀吉からもたらされた屋敷の設計図を見た高虎は、自らの懐から費用を負担して設計を変えたという。

後日、家康は高虎に問うた。

「この屋敷は、以前にみた設計図とは違うようだが、どういうことか?」

高虎は毅然と答えた。

「以前の公家風の造りでは警固に難点がございました。もし家康さまに不慮の事態が起こればわが主・秀長さまの不行き届き、ひいては関白(秀吉)さまのご面目に関わると思い、私の一存で変更致しました」

高虎の配慮に感激した家康は、労いと礼の言葉をかけ、名刀・備前長光を贈ったという。以後、高虎と家康の間で書簡が往復されるようになり、両者の繋がりも深くなっていったことは想像に難くない。

そして慶長3年(1598)に秀吉が没すると、高虎は急速に家康に接近する。

家康、最後の決断

秀吉の死後、当時、朝鮮出兵中だった日本軍の退却が議論された。

「全軍撤退が急務。さて、誰が引き揚げを指揮するか……」

豊臣政権五大老筆頭・家康は言う。

「藤堂佐渡守(高虎)よりほかに、適任者はおりますまい」

これ以前、高虎は天正20年(1593)の文禄の役で紀伊水軍を率いて朝鮮に渡海し、慶長2年(1597)の再戦では伊予水軍を指揮して活躍していた。家康は、そんな高虎をよく見ていた。

また高虎も、どうやらこの頃から次代の覇権を握るのは家康との確信を抱いていていたようだ。

やがて豊臣政権の守ろうとする石田三成(1560~1600)と、豊臣政権を掌握しようとする家康との間で対立が表面化する。

そんななか、一通の報せが高虎のもとにもたらされた。三成らによる家康暗殺計画だ。このとき彼は、すぐさま暗殺計画を家康に告げ、未然に防いでいる。

そして慶長5年の関ヶ原の戦いでは、高虎は家康率いる東軍勝利のためにすべてを賭ける。彼は西軍荷担の諸将の切りくずしを担当し、戦後、その功により伊予今治に20万石を領する大名となった。

以後、高虎は自らの居城のほか、家康の命により近江膳所城の築城、伏見城の修築、江戸城の天守閣の設計や二の丸、三の丸の増築に携わりつつ、家康の信頼を勝ち取っていく。この間、自らの正室と世子・高次を江戸に移し、住まわせてもいた。

そして慶長13年8月25日を迎える。

この日、駿府城内で高虎は、伊賀・伊勢安濃ほか計22万石への移封を伝えられた。ときに53歳。

これまで家康は重要な拠点には徳川一門を配置し、直轄領としていた。そんな彼が伊賀・伊勢という重要拠点に外様大名の高虎を置いた。

そして、徒手空拳で自らの地位を築いてきた高虎は、瞬時に何故、自分が伊賀・伊勢へ移封された意味を理解する。

(ついに家康公は、豊臣家討滅を決断された)

「今後、国に大事が起こったときはー」

 関ヶ原の戦いのあと、家康は豊臣家と良好な関係を築きつつ、その地位を逆転させることに成功する。また、秀吉の遺児・豊臣秀頼(1593~1615)を一大名として残そうと画策もしていた。

しかし、天下の巨城・大坂城に拠る淀殿・秀頼の母子には、その心配りが悟れなかった。

その一方で家康は、関ヶ原以来、懸命に積み上げてきた徳川幕府の実績、盤石の備えが、その実、自分1人の威名によって保持されていることを痛感してもいた。

(秀頼を大坂城に残したまま死ねば、天下は再び争乱の様相を呈しかねない)

この年(慶長13年=1608)、家康は67歳。それに対して秀頼は16歳。そして彼がいる大坂城は亡き秀吉が叡智のかぎりを尽くして建築した日本一の堅城だ。たとえ、日本中の大名を総動員しても容易く落とせるものではなかった。いかにすれば、大坂城を短期日に陥落させることができるか。

このとき家康が喉から手が出るほど欲しかったのは、大坂城内外の動静だ。

やがて高虎は伊勢の安濃津城、伊賀上野城の大改修をおこなう一方、丹波篠山城、丹波亀山城の修築にも携わっていた。これらはすべて大坂方を包囲する使命を帯びていた。

そして高虎は伊賀の“忍び”の統率に着手する。もともと家康と伊賀にはつながりがあった。家康の配下に伊賀に縁のある服部正成(1542~1596)がいた。信長による天正伊賀の乱のおり、傷ついた伊賀の人々の中には、半蔵を頼って三河に逃れた者たちがいた。このとき家康は、信長に黙って彼らを助けている。

高虎はまず、正成の血縁者であるという保田采女を召し出て「藤堂」姓を与え、家老に抜擢。彼らが培ってきた忍びの技術を活用し、大坂方の情報を家康のもとへ送りつづけた。そして慶長19年11月、大坂冬陣が勃発――約5カ月の講和を経て、夏の陣が開戦となる。

この戦国最後の戦いで、先鋒をつとめたのは高虎率いる藤堂軍だった。高虎は大坂方の長宗我部盛親軍と激突。生涯でもっとも激しい合戦を繰り広げ、多大な犠牲者を出しながらも大坂方の敗戦を決定的なものとした。築城、諜報、槍働き――大坂の陣における高虎の活躍は絶大だった。

翌元和2年(1616)4月、家康が75歳でこの世を去った。臨終に際して彼は側近にこう伝えている。

「今後、国に大事が起こったときは、先手を藤堂高虎とせよ」

家康は、信長や秀吉同様に採用する際に身分や出自を問わなかった。そして採用後は、日頃の立ち振る舞いや仕事ぶりをしっかりと評価した。

余談ながら高虎は二代将軍・秀忠の親政となっても、その傍らにいる。

“転職”経験が高虎の人を見る目を養ったのだろう。〝治国の要〟について彼は言う。

「国を治めるには何よりも、人を知ることが肝要でございます」

さらに長所と短所を見極めたうえで、使うときは信じて疑わぬことが大切だ、とも語った。

「上に疑う心があれば、下もまた上を疑う。上下互いに疑念を持てば、人心は離散し、国に大事が起きても力を尽くす者がない」

三英傑以外にも、歴史上の人物から学ぶことは、まだまだありそうだ。(了)

※この記事は2019年1月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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