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「中秋の名月」の起源と変遷を辿る【歴史にみる年中行事の過ごし方】

旧暦8月15日の夜に見える月を「中秋の名月」という。

古代中国から伝わった月を愛でる風習が、どのようにして現在の形になったのか。

その歴史を振り返りたい。


恋路を照らす道しるべ

雅趣に富んだ四季の美しさを表す言葉に「雪月花」がある。
いにしえの人々は雪や花とともに「月」に対して特別な思いを抱いた。

旧暦8月15日の夜の月、いわゆる「中秋の名月」を愛でる風習は平安時代に中国の唐からもたらされたもので、とりわけその夜の月を詠んだものではないものの、奈良時代末期の成立とされる『万葉集』には「月」の歌が数多く収録されている。

街灯のなかった時代、日が暮れたあと、暗闇を照らす月灯りは人々の往来に欠かせないものだった。

〽夕闇は 道たづたづし 月待ちて
  いませ我が背子 その間にも見む

これは名残惜しくも恋人を帰す女性が詠んだもので「月のない宵闇は暗くて足許が覚束ないので、どうか月が出るのをお待ちください。そのあいだ、もう少しだけ貴方の傍にいさせてください」と歌いかけている。

男性が女性の家に訪った「妻問婚」の時代、月灯りは2人の恋路を左右する道しるべのような存在でもあった。

文人たちの遊びが「中秋節」に発展

さて、「中秋の名月」である。

中国ではいにしえより観月の習慣はあったが、唐代(618~907)の文人たちのあいだで月を愛でながら吟詠する風流な遊びが流行し、それが宋代(960~1279)にいたって「中秋節」として定着した。

なぜ、8月15日だったのか。

唐の文人・欧陽詹の「月の詩」には「冬の月は霜繁くして甚だ寒い、夏の月は雲蒸して甚だ暑い、秋八月の月は暑からず寒からず、それに天氣も清澄で賞翫するに最もよいから人々之れを賞す」(『年中事物考』)とある。

その後、「中秋節」は庶民にも浸透し、明代(1368~1644)には満月をかたどったお菓子「月餅」を供えたり、贈り合うようになったという。

杯や池の水面に映った月を楽しむ

一方、日本では平安時代に遣唐使らによって唐代の文人たちの詩文がもたらされ、貴族を中心に「中秋の名月」を愛でながら詩宴が催されるようになる。

最古の例は平安前期の漢詩人・島田忠臣(828~889)の詩作といい、「八月十五夜の月を賞すること、島田忠臣の集にはじめて見えたり、その年記さだかならずといへども、齋衡三年(856)詠史百四十六首を奉り、貞観元年(859)調三百六十首を奉れるよし、家集の自注に見えたれば、その時代大概ゑられたり」(『古事類苑』)と記されていた。

文徳天皇の時代(850~858)には詩人たちが私的に集って詩宴を開いていたらしい。

また、公的の場における観月は寛平九年(897)が初めとされている。以後、天皇や上皇・法皇主催による華やかな詩宴が行われるようになった。彼らは杯や池の水面に映った月を愛でた、とも。

その後、時代が下るにつれて徐々に簡素化され、室町時代には月を拝してお供えものをする形に変化する。
室町幕府の年中行事を記した『年中恒例記』には「(八月)十五日 明月御祝參於内儀也、茄子きこしめさるゝ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調進之――云々」とあった。

見えないなら見えないなりに

「中秋の名月」を愛でる風習が一般庶民に広がりを見せたのは江戸時代のこと。秋の実りに感謝する祭りとして親しまれ、里芋などの農作物を供えたことから、いつしか「芋名月」とも呼ばれるようになる。

月見団子に関しては江戸中期までの史料には見られないという。
確かに江戸後期の風俗史家・喜田川守貞の『守貞漫稿』(1837~1853)には三方の上に置かれた団子と、その傍らに芒(すすき)がみえた。

どうやら中国・唐代の文人たちのあいだで流行した風流な遊びが平安時代の貴族たちに取り入れられ、時代が下るにつれて一般に広まり、日本独自の風習として現在の形になったようだ。

ちなみに旧暦8月15日の夜の月を「十五夜」という。江戸の俳諧では14日の夜を「待宵(まつよい)」、16日の夜を「十六夜(いざよい)」と称して前後の月も愛でた。また彼らは「十五夜」に雲で月が見えないことを「無月」、雨が降ることを「雨月」といって、その風情を楽しんでいる。

見えないなら見えないなりに詩宴や遊興に耽る姿は趣きがあった。

「十五夜」は古人に倣って「月」と戯れたい。(了)

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国立国会図書館デジタルコレクション

【参考文献】
・鈴木健一編『天空の文学史 太陽・月・星』(三弥井書店)
・高橋千劔破著『花鳥風月の日本史』(河出書房新社)

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