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仏教は#BlackLivesMatter とどう向き合うか

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#BlackLivesMatter
この2週間、誰もが一度はこのハッシュタグを目にしたのではないでしょうか?
2020年5月25日、アメリカミネソタ州ミネアポリス。
一般男性ジョージ・フロイド氏がタバコを購入する際に偽札を使用したという疑いで、警察官に身柄を拘束された際、およそ9分の間膝で頸部を圧迫されて死に至るという事件がありました。
警察官による不当な暴力で死に至ったという事実はもちろんのこと、この事件が「白人警官によって黒人が殺された」ものであったことが、アメリカ全土に留まらず国外でも「Black Lives Matter」運動に大きな火がつく起こる要因となったのです。
今回は、「人権・平和・環境」を活動のスローガンに掲げる曹洞宗の僧侶として、この「Black Lives Matter」との向き合いかた、ひいては人権問題とどのように向き合っていくべきかを考えます。

また、今回は問題を考える上で避けられない表現のため、「黒人」というワードを用いさせていただきます。

Black Lives Matterとは?

まずは今回、世界で広く知られることになったBlack Lives Matter(ブラック・ライヴズ・マター)とは、日本語にするなら「黒人の命は重要だ」もっと噛み砕けば「黒人の命を軽んずるな」を意味する、アメリカで起きた黒人差別への抗議運動のことです。
実はこの言葉自体は2012年、当時17歳だったトレイボン・マーティン氏が自警団員によって射殺され、その自警団員は無罪となった事件に端を発しています。
射殺する理由はおろか、逮捕をする権限さえない自警団員が法で裁かれず、殺されたのが黒人であったこの事件は、決して解消されたとはいえなかった黒人差別がアメリカに現前することを明確にしたのです。
その後、罪のない黒人が黒人以外の警察官などによって殺される事件が、今回に至る以前に何度も起こりました。
そしてこうした事件への抗議運動として、#BlackLivesMatterはSNSで拡散されていったのです。

ジョージ・フロイド事件が広がった要因

では、なぜこれまでの事件では今回のように大きな広がりを見せなかったかというと、ジョージ・フロイド氏が警察官によって殺害されるその一部始終が、動画に収められてSNSによって世界中に広がっていったからです。
私はその動画を最後まで観ることはできませんでしたが、そこには公衆の面前でポケットに手を入れたまま、フロイド氏の首を膝で圧迫する警察官の様子が収められていました。
相手が白人であれば、警察がこんなことはすることはまずないそうです。
一人の人間が、肌の色が黒いというそれだけのせいで、公衆の面前で命を奪われる。
そんな信じられない状況が多くの人の目に触れ、事件のあったミネアポリスでは警察署が放火されるなどの大規模な暴動が起きた他、各地でデモが行われる事態となりました。

差別解消と暴力

Black Lives Matterはこうした暴力を伴う抗議運動としての性質も持っており、これが非常に大きな問題となっています。
日本でも、#BlackLIvesMatterを掲げる人に対して、「差別はいけないが暴力で訴えかけるのもよくない」という意見が増えています。
実はこの点に関して、2015年にアメリカのケンドリック・ラマーというラッパーが暴力に頼らない抗議を曲で訴えかけています。

「Alright」というこの曲は、アメリカには納得の行かない差別や弾圧があることを認めた上で、それでも暴力や憎しみではなく、「きっとなんとかなる」と信じて希望を持って生きていこう、と仲間へ訴えているのです。
自身も黒人であり、貧しい中で育った彼の言葉は、多くの黒人の胸を打ちました。
そしてこの曲は、Black Lives Matterのアンセムとも言える曲となり、暴力ではなくこの曲をみんなで大合唱するというデモの形も生まれました。


こうした、抗議=暴力ではないという考え方は、実はかなり広がってきていて、今回は特にミネアポリスで激しい暴力が行使されてしまいましたが、必ずしも全ての場所で暴力が伴ったわけではありません。
こちらの記事ではダンスなどの暴力以外の手段で訴えかけるデモの様子がまとめられています。

外部リンク:ダンスや音楽、チャント…私たちは平和に抗議する。黒人暴行死に力強く声をあげる人々(動画)

なにより、亡くなったフロイド氏の弟が、暴力では解決しないと訴えかけているのです。

声をあげることすらできない時代を経て、差別を受けている人々の間では少しずつ暴力に頼ってはいけないという考え方が広まりつつあるのです。

では、私たちはどうする?

今回のアメリカの状況は、日本人にとって様々な見方ができます。
私自身はヒップホップという、いわゆるブラックカルチャーに大きな影響を受けたので、出来ることはほとんどありませんが、関心は持ち続けています。
一方で、先ほどご紹介したような暴動の様子に嫌悪感を示す人や、黒人差別に目を向けるならウイグルやチベットなどにも目を向けるべき、というような意見もあります。
つまり#BlackLivesMatterというこの一連の出来事も、人によっては全く見え方が異なるのです。
そこには肌の色、人種と呼ばれるものを理由にした差別を受けるという経験が多くはない日本人にとっては、共感しきれない部分があるのかもしれません。
そこで、私たちが目を向けたいもう一つの動向があります。

#AllLivesMatterの登場

#BlackLivesMatterの登場から間も無く 、アメリカ国内で #AllLivesMatter (オール・ライヴズ・マター)という運動が起こりはじめました。
直訳すれば「全ての命が大切だ」という意味のこの言葉ですが、ここには別の思惑があるのです。
実は、「黒人の命は大切だ」という主張に対して、この言葉には「黒人ばかり特別扱いするな」という意味が込められているのです。
つまり、差別解消のための運動を、優遇や特別扱いと捉えているのです。
これは、どんな状況であれ他人が何かを得ることが許せないという、非常に自己中心的で、煩悩で言えば貪とんの結晶とも言える心境でしょう。
日本においても、障害を抱えた方や、経済的に苦しい方、海外にルーツを持つ方々への支援を、不公平だと言う人がいます。
#BlackLivesMatterに全面的な共感をすることが難しい部分はあっても 、#AllLivesMatterが生まれた経緯については、私たちも胸に手を当てて考える必要があるでしょう。

仏教の視点からの人権問題との向き合い方

実は、曹洞宗は日本の仏教の諸宗派の中でも、人権問題への取り組みに非常に力を入れている宗派です。
そのきっかけは、過去に曹洞宗の僧侶がいくつかの人権問題を起こしたことでした。
今回その問題の一つ一つに触れることはできませんが、それらの問題の根底にある原因は共通しています。
それは、「自分に差別意識などないと思っていたこと」です。
差別というものは、他人を指摘することでは永遠になくなることはありません。
なぜなら多くの場合、差別をする人は差別をしようとしているわけではないからです。
自分の人生の中で形成された価値観や考え方が、他者を差別するものであることに気づかないことが多いのです。
カナダのトルドー首相は、今回の件について聞かれ、カナダにも制度的に組み込まれた人種差別が存在しており、多くの人がそれに気づかずに過ごしている、今こそそこに気づかなくてはならない、という旨の返答をしました。

そう、差別が起こった時、私たちがすべきことは他人の糾弾以前に、自身を省みることなのです。
自分に差別意識があるかどうかではなく、気づいていないだけで多かれ少なかれそうした意識が生まれていると自覚する必要があります。
仏教にとって煩悩は、断ち切ったり、拒絶をするものではなく、湧いてくることを前提にコントロールするものです。
差別意識というのは、特別に心がねじ曲がった人だけが持ち合わせるものではありません。
欲求やそれが満たされない不満の積み重ねによって、誰にでも無意識に湧いてくるものなのです。
差別をしてはいけない!と人に注意をしても変えられるとは限りません。
しかし、自分が意識をすれば自分を変えることはできます。
あらゆる差別を解消する鍵は、

私たち一人一人の当事者意識

なのではないでしょうか。


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