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あの日、ぼくは永平寺の修行僧になった。後編

※この内容はブログ「禅活-zenkatsu-」に掲載した記事を再編集しまとめたものです。有料設定ですが最後までお読みいただけますので、ご支援いただける方はご購入いただけるとありがたいです。


前編

3月8日、朝

地蔵院にきて三日目を迎えたこの日、
私を含めた8人の上山者は、
参道を通って永平寺の山門へとむかうことになります。

地蔵院の戸が開くと、
2泊の間に違う世界に来てしまったかと錯覚するような、白銀の世界になっていました。

思えば私はそれまでの人生で、
どうにもならない厳しさ、
逃れられない辛さというものを経験してこなかったのかもしれません。

私の地元ではとっくに電車は止まり、
学校が休みになるレベルの積雪。

さすがにこんな雪の中を歩かされるわけがないだろう、そんな甘い考えが頭に浮かんでいました。

そこで無情にもかけられる
「足袋と草鞋を履いて準備しなさい」
という言葉。

言われるままに足袋を履こうと手に取りました。

冷たい。

地蔵院に着いた時には気づきませんでしたが、
どうやら福井駅からの道中で、
履いていた足袋はずいぶん濡れていたようです。

入り口で網代傘と草鞋と共に脱いだ足袋は2泊の間では乾かず、まるで洗濯したてのような状態でした。

これを履いて雪の中を歩いたらどうなるかなんて、考えたくもありません。

しかし、準備を終えて外に出ると、案内役の先輩僧侶の足元は裸足に雪駄(下駄のような履物)のみ。

ありえない。

どんな生活をしたらこの冷たさに耐えられるんだ…。

そんな恐れを感じると同時に、これから自分が雪の中を歩くという逃れられない運命を悟りました。

雪の中をゆく

私たち8人が地蔵院の前に並ぶと、
修行僧の指導をする和尚さんが言葉をかけてくれましたが、
あまりに足の冷たく言葉が耳に入ってきませんでした。

元から濡れていた足袋は雪の中であっという間に冷えて、割れずに張り付く氷のようです。

雪の中、先輩修行僧の後に続いて、永平寺の山門へとつづく参道を進みます。

網代傘をかぶっているため、目に入るのは足元とその先の数メートルのみ。

途中で、上山の記念撮影として一人ずつ写真を取りますが、当然その顔に生気はありません。

全員が写真を撮り終えると、再び参道を歩き、先輩の足が止まります。

山門に到着したようです。

「一人ずつ、木版(もっぱん)を三度鳴らしなさい。」

修行道場の玄関である山門をはじめ、
禅宗のお寺の玄関には厚さ10cmほどの分厚い木の板と撞木(しゅもく)がぶら下がっており、これが現代でいうインターフォンの役割を果たします。

「○番の和尚」と呼ばれるごとに、
それぞれが自身の不安や寒さを振り払うかのように全力で返事をして、木版を3回鳴らします。

「次、8番の和尚」

と呼ばれると、私は木版から伸びる取っ手をつかみ、撞木を振り下ろします。


コーーン、コーーン、コーーン…。


誰かがこれを聞いてるとは思えないほど、その音は永平寺の巨大な伽藍(がらん)と雪に吸い込まれていきました。


「これから迎えが出てくるまでそのまま待ちなさい。いくつか質問をされるが、素直に答えなさい。」


そう言い残し、ここまで連れてきた先輩修行僧の足音が遠くなっていきました。

いつからの風習かは定かではありませんが、曹洞宗では、こうして山門に立って待ち、迎えにきた先輩修行僧からの問答に答えてその覚悟を示すのです。

山門の前の8人


どれだけの時間が過ぎただろう。

歩いていた時はまだマシだったと、その時気づきました。

左手に坐蒲(ざふ)を持ち、右手は首から下げる行李(こうり)を下から支え持つ為、着物の袖から出た腕が寒さを逃れる術はありません。

四肢の先端から感覚が無くなり、いつまで続くかもわからないこの状況に、何度も心がくじけそうになりました。

すると突如、目の前に人の気配がします。

迎えの先輩修行僧がやってきたのです。

そして一人ずつ順番に覚悟を問います。

「尊公(そんこう[=あなた])は何をしにここにきた。」

それぞれが「修行をしにきました!」「自分と向き合いにきました!」と震えながら声を張り上げます。

それに対して「なぜここじゃなきゃダメなんだ。」など、淡々と続けられる問いに、ついに一人が答えに窮してにしまいました。


「それではまだ覚悟が足りない。もう少しよく考えなさい 。」


そう言うと、先輩修行僧の足が去っていくではありませんか。

待ってくれ!とすがりつきたくなるような気持ちで遠のく足音を聞いていました。

崩れて最後に残るもの

もし8人の中の誰かが踵を返したらあとに続こう、そう思いました。

もうどれだけの時間が経ったかはわからないが、修行の入り口でこれなら、自分はこの先耐えられないと思ったからです。

こんなはずじゃなかった。

こんなに弱いはずじゃなかった。

小学2年から高校まで柔道、大学ではブレイクダンスをやってきて、体力は人並み以上にあると思っていたし、わずかでも大学で曹洞宗の修行について学だ自分なら、耐えられると思っていました。

しかし、そんな自分への信頼はもろくも崩れ去り、私を支えるものはありませんでした。

そんな時、なぜか頭をよぎったのが、上山の直前に親友がくれた電話での言葉でした。


「頑張ってこいよ、帰ってきたら飯おごるからさ!」


顔は見えずとも浮かんだ親友の顔につられて、友人達や家族やお檀家さん…私を送り出してくれた人の顔が次々と頭に浮かんだのです。

この人たちの思いを裏切って、自分に帰る場所なんて無いじゃないか!

そう思った時、自分の背中を押してくれている何かを感じました。

自分は一人じゃない…。

なんとかその場に踏みとどまると、再び先輩修行僧がやってきて私たちに言います。


「草鞋と足袋を脱いで山門に上がりなさい。」


ついに山門をくぐる許しが出た瞬間でした。

しかし、凍えた足は、自分のものとは思えないほど感覚がなく、一歩を踏み出すことすらままなりませんでした。

かじかんだ手は草鞋の紐をほどこうにもうまく動きません。

剥ぎ取るようにして草鞋を脱ぎ、なんとか山門に上がると、山門からその正面に建つ仏殿にいるお釈迦様に礼拝をし、私は永平寺の修行僧としての入り口に立ったのです。

しかし、それから5日間はさらに徹底的に基礎を教え込まれる期間、その後5月になるまでは正式な修行僧としては認められません。


そう、これはまだ修行のほんの入り口に過ぎないのです。

9年後の今、考えること

上山の日、私はとても大事なことを学びました。

何かを成し遂げるには人の力を借りず、自力でできるに越したことはないと思っていた私。

しかし、地蔵院での2泊3日と山門の前に立ったあの時、それまで頼ってきた「自分」という存在のもろさに気づきました。

思うように作法ができず、大きいと思っていた声が小さいと言われ、山門で直面した寒さと孤独感の前に、体力や知識という今まで頼ってきた「自分」が音を立てて崩れ去っていったのです。

しかし、そうした根拠のない自信に支えられてきた「自分」が崩れ去ったとき、そこには「人に支えられ、生かされてきた自分」が現れたのです。

「一人であっても独りじゃない」

そう思えた時、私は自分の力で自分の為に頑張ろうとすることをやめ、人の支えの上に根を張ってどっしりと立ち、その支えてくれる人たちの為に頑張れるようになった気がします。

私の師匠はよく
「人間が自分の為に出せる力はせいぜい50~60%にすぎない。誰かの為に、何かの為になった時初めて100%、120%の力が出せるんだ。」

と言っていますが、今ならその意味がよくわかります。

それは柔道をやっていた頃、勝ったらゲームを買ってもらうと約束した時の試合より、団体戦の勝敗がかかった時の方が最後の踏ん張りが利いたのと近い感覚かもしれません。

「厳しさ」の正体

禅の修行・永平寺の修行というとよく「厳しさ」に注目されます。

「辛かった?」「厳しかった?」という質問は、永平寺から帰ってきてから何度も投げかけられましたし、確かにそういう場面もありました。

しかしよくよく考えてみれば、私が感じたこの辛さや厳しさというのは、修行生活そのものにあるのではなく、それまでの私生活とのギャップにあったのだと思います。

いつでも不足なく食べ物が手に入り、顔を合わせなくてもインターネットで人と繋がっていられた学生生活。

一方で曹洞宗の修行生活が成立した鎌倉時代には一汁二菜食べられたら質素ではなかったはずでしょうし、連絡手段の手紙だって今よりずっと不便であったはずです。

私が感じた厳しさの根源の大部分は、現代社会に生まれた私の「恵まれ慣れ」にあったのです。

「ゆとり世代」の私が歩む仏道

そう考えると修行生活自体を厳しいものとして一括りにして、それを乗り越えてきたと胸を張ることには、どうしても違和感を感じてしまいます。

誤解や批判を恐れずに言うなら、曹洞宗の修行を「厳しさ」というパッケージで包んで語る時代は終わったと、私は思っています。

僧侶の世界でも私の世代は「ゆとり世代」と呼ばれ、修行生活に厳しさが足りないと、諸先輩方にはお叱りを受けることもあります。

しかしそんな世代だからこそ、今まで以上に「どれだけ」修行道場にいたかではなく、「どのように」修行道場にいたかが問われているのだと思うのです。

私の修行生活は決して順調なものではありませんでした。

福井駅のトイレで一般男性に叱られてから、二年間でどれだけ先輩や同期から叱られたかわかりません。

差し入れのソーセージを食べ過ぎて怒られたり、誕生日に「もうハタチ越えてるんだろ?」と怒られたこともあります。

その時は辛かったり悲しかったり挫けそうになった出来事が、今になって私に様々な気づきをくれます。

特に作法や生活の規則に関しては、人に伝えるとなった時、社会に出た時に気づかされたことが数え切れないほどあります。

きっとこれから歳月を重ねながら振り返るたびに、永平寺での日々はまだまだ新たな気づきをくれるのだと思います。

もしその気づきが無くなるとすれば、私の中で上山の日や修行の日々がセピア色の思い出に変わってアルバムの中に収まってしまった時でしょう。

そうならないよう、私はこの季節になったら毎年、2014年3月8日の「あの日」の自分に失望されないだろうかと、我が身を振り返ろうと思います。

「あの日」から続く今日を

ここまで書いてきたことは2014年3月6~8日の3日間の出来事です。

この日、私は僧侶として本当の入り口に立ったような気がします。

それまでは「お寺に生まれた」ということが私の僧侶としてのアイデンティティの多くを占めていました。

しかし、自らの足で永平寺に向かったあの日、私は初めて自分から僧侶としての一歩を踏み出したのです。

肉体的にも精神的にも本当に追い詰められた時、私を救ってくれたのは親友をはじめ、大切な人たちの存在でした。

そんな人たちの力になりたいということが、今の私の原動力です。

そしていつしか私の僧侶としての目標は、
「自分の手の届く範囲の人だけでも安心させてあげたい。」になりました。

修行生活とは僧侶にとっての基盤であり、たとえ道場を離れても常にその経験は「今の自分」がリマスターして気づきを重ねていかなければならないものだと、私は考えています。

上山から5年が経った今、私はまた新たな岐路に立っています。

そしてあの日から続く一歩をまた踏み出していくのです。

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