#263C|有益な"可能性"と有害な"可能性" (未完)

近頃、関東方面から関西方面に移動する時は必ず立ち寄るようになった宝塚北サービスエリア。宮殿のような建物を前にして車の中でnoteを書く23時。365日連続投稿チャレンジ263日目。


はじめに

今日の「1日をふりかえる会」で、くみさんが可能性を広げることの問題点について書かれた新聞記事をシェアをしてくれた。これはおもしろいし、とても重要な題材だ。

それを聞いて頭に浮かんだことを形にしたくて書きだしたのだけど、さっぱりまとまらず、タイムリミットが来たので今日のnoteはこれまで。

しかしこれを機会に、有益な"可能性"と、有害な"可能性"の違いを考えてみるのはいい時間だった。

くみさんのシェアは以下のリンクから。37分40秒くらいから40分までの3分ほど。「可能性は危険だ」「自分が自分自身の使用人に成り下がる」

たしかに「もっともっと」というように可能性を使ってしまうと、それはネガティブな効果を生みやすい。

「可能性」には正しい使い方がある。


有益な「可能性」の開き方 (未完成)

※以下は未完成。備忘録的な扱いとして残す

一般的に肯定的に使われている「可能性を開く」「可能性を広げる」といった言葉は、それによって①行動の伴わない非現実的な空想に浸る、②可能性と現実のギャップに欠乏感が生まれる、ということにならない限りにおいて有効だ。

特に「自分勝手な欲求で描いた可能性を現実にしようとする」ことは悲しいことになる可能性が高いが、逆に「現実に対して想像力を発揮して可能性を広げようとする」行為は常に有効だと感じる。

言い換えると「空想を現実に下ろそう」とする行為は"可能性"の誤用で、「現実に空想を取り入れよう」とする行為は"可能性"の有益な使い方だ、と表現してみるのはどうだろうか。

「現実」とはいつもの日常。半自動で展開される無意識の動きだ。その中で可能性を開くということは、意識のコストを払う必要のある骨の折れる作業だ。だがそれによって新しい発見を得られたり、新しい行動を起こすことができる。

そういう仕方においては、いつも可能性は無限大に開いていたい。逆に、ただ「やりたいことリスト」が増えていくような可能性の開き方は慎重に。「可能性を開く」ことが有益になるのは、たとえばやることリストを「実際にやる時」に対して、そのやり方の選択肢の可能性を増やすことなどがそれにあたる。

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