#385C|1人でいる時どのようにあるか

カフェで向かいの席に座っているお兄さん。30後半〜40前半だろうか。

スマホをずっと見ている表情はむすっとし、崩れた姿勢で椅子にもたれている姿はちょっとふてぶてしい。服装はスーツスタイルだが、シャツのボタンの開き具合がちょい悪な感がある。

失礼ながら、「いろんなことに文句ばっかり言ってそう」な人に見えるな〜。という印象を抱いた。

待ち合わせをしていたようで、しばらくしてお相手の女性がいらした。そうすると一変、ふわっとした笑顔になり、声色もおだやか。聞こえてくる会話も丁寧な様子だ。なんだ。「いい感じ」の人じゃないか。


しかし私は「さっきは偏見を持って悪かったね」などとは思わず、この方の1人でいる時と他者といる時の大きな差にネガティブな気持ちを抱いた。いわゆる「外面はいいけど内側で何を思っているかわからない人だ」と思った。

これを受けて、自分自身の1人でいる時の姿や動きはどうだ?と緊張が走る。私も猫背でストレートネック、むすっとした顔でPCをたたいているだろう。カフェなどで作業している時、それに限らず、人の目につく時の姿が、他者を不快にさせている可能性が頭に浮かぶ。

こういうものは習慣であり、いくら「その時だけ」意識しても「行動」では変えることのできない領域だ。自分が無意識でどのような立ち居振る舞いをしているのか、そこには自分の思想や生き方が反映される。他者に向けて「自分」がどういう存在なのかを伝える、物言わぬメッセージになる。

実際にそのお兄さんが「外と内が違うタイプ」なのか「見た目で損するいい人タイプ」なのか、はたまたどんなタイプなのかはわからない。

そもそも真実は問題ではない。人は人であり、自分に測れるものではない。こういう時に、自分のモノサシを適応して他者の評価を確定的にするものではない。人を「鏡」とさせていただいて、自分を省みるのが吉だ。


が、「人の目に気を遣って、自分の過ごし方や姿勢まで意識するなんて窮屈だ」という気持ちもある。1人の時くらい、好きな表情で、好きなかっこうでやらせてくれや、と。

また、そんなところで評価判断されるような生き方はしない、という選択もできる。見た目でなく自分が生み出すアウトプットで勝負する、という人などは外面のよさなどどうでもいいことだろう。

そう。どう振る舞うかなんてのはある程度は自由だ。ぶすっとしている人であっても話せばいい人だったり、話してもいい人じゃなかったとしても素晴らしい生き方をしている人だっていくらでもいる。職人気質の人なんてのは典型例だ。

これは好みの話でもありまた、職能や役割の話でもあると思うが、どうあれ「私は何を選びたい」かというだけのこと。

先日、蒲田の蕎麦屋でめちゃんこ素敵な好青年がいたのだが、願わくばあのような「見るだけで心が動かされる」振る舞い、佇まいができるような人間になりたいと思う。青年についてはくみさんが記事にしていた。


私はどうありたいか。何を引き受けて何に応えて、何を表現し何を伝えたいか。そのための出で立ち、行い、そういうものにも意識を向けていたい。

今日はド直球な「人の振り見て我が振り直せ」事案で、それを思考する時間になんだか豊かさを感じた。お兄さんには好き勝手に書いてごめんね&ありがとうと密やかに念じながら、明日の我が振りを改めて行こうと思った。

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