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#179C|成長を手放す

「成長神話」はもういらないかもしれない。新しい閃きがあったnote365日連続投稿チャレンジ179日目。30分以内で書くチャレンジ11日目。時間もあり、全体的に詰めきれないまま投稿。下書き扱いで。


時代遅れの「成長」神話

いつでもいつまでも「変化できる人」でありたいとは思うが、「成長しようとする意識」はもはや手放した方がいいのではないかと閃いた本日。

「結果として起こる成長」は大歓迎だが、わざわざこちらから「成長しよう」と意識する必要はない、というか、その思い込みや熱量は、逆に行動を抑制したり、ほしい結果を得ることを遅くしたり、多様な可能性が展開していくことを阻害しているかもしれない。

価値観が細分化・多様化しまくっているこの時代に、成長を絶対視する価値観はもはや合っていないのではないか(それでは対応が追いつかないのではないか)という面もある。

その価値観とは、「成長は絶対的に必要なことだ」という考えや、「成長は狙って起こすことができる」といった思い込みを含む、「私ががんばってなんとかする」という価値観。私はそれを自分の内面に、1つの「神話」といったレベルで保持しているかもしれない。


「1人で生きる」のをやめる方向に向かうこと

「今の自分」では実現が不可能な(そう思っているような)望みを実現するには、自己の成長が不可欠だ。そう信じて生きてきたが、その道の先は行き止まりなのかもしれない。

それはどこまでも「自分が単独で努力して解決する」「1人」でなんとかする、厳しい世界だ。人に頼らずに自分でなんとかするために、人の手を煩わせずに1人でなんとかしたいがために、「ちゃんとしなきゃ」を実現するそのために、成長しようとしている。

はたまた、人から文句を言われないように、がっかりされないように、バカだと思われないように、笑われないように、失敗しないように、恥をかかないように、迷惑をかけないように、自分を叩き上げる。

そのようなタイプの成長欲求、成長意識は100%いらない。

(余談だが、「夢」タイプの成長欲求はいいと思う。純粋な、たとえばフルマラソンを2時間で走ってみたい!とキラキラした情熱が輝いているようなもの。しかし、それにしたって別にそれは「成長したい」のではなく「フルマラソンを2時間で走りたい」のであって、やっぱりそこに成長を求める考え方は不要か。たとえば子供は成長しようとしてではなくただ走りたいから走る。それを大人が「成長した」と言うだけだ)

物事は1人で成されることはほぼない。し、足りないものを自分が努力して補う、というのは厳しい世界だ。やりたいことが多い人生で、そんなことをしている時間はあるのだろうか?

この「1人でなんとかしようとする」世界は、もしかすると神話の世界じゃないか?人間には寿命がある。


「甘えあうことで成立する」関係性を築く

佐々木正悟さんのグッドモーニングボイス、最近の収録音声で非常に感銘を受けた回があった。

私に必要なのは「互いに甘え合うことで成立する関係性を作る」こと、それを模索するようなACTIONを起こすことかもしれない。そのために、「変化」はマストだが「成長」は必須じゃない。

ここからは音声の話を踏まえて書くが、「お相撲さんを指一本で倒せるようになるべく、努力して成長しようとする幼児」なんてのは辛い(そして不可能な)ストーリーだ。誰も求めてない。できるのなら見てみたいけど、それは神話(漫画)の世界だ。それによって失われる「世界」もある(お相撲さんが赤ちゃんに倒されて皆が笑顔になれる世界)。

「八百長はダメだから指一本で倒せるようになろう」と考えるのが成長神話だとして。現実寄りに考えれば、赤ちゃんが相撲取りを指一本で倒せるようになるころにはすでに赤ちゃんではなくなっているだろうし、もっといえば人間をやめないといけないくらいの「成長」が必要で、そんなことしなくても成立する方法や構造の方に目を向けることが現実的だ。

今の自分が思うようなプロセスではなくても、幸せを生み出すという結果にはたどりつくのではないか。プロセスにこだわるのは、手放せない頑固な何か。抱えている傷とか、昭和の考え方・ 頭の硬さとか。

またまた考え方の大転換の可能性。成長を手放し、人に甘える。むずいな〜。


✑55分|1700文字

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