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#194D|相手の求めているものを知る|中庸である

久しぶりにゴリゴリのビジネスマンと対話し、過去の自分の苦悩に納得できた出来事について。note365日連続投稿チャレンジ194日目。


相手の求めているものを知ろうとすること

私が人生で求めているものの1つは、心地の良い人間関係と、インタレスティングなコミュニケーションだ。

しかし過去の私は、無自覚的にどこでもそれ1本を求めて歩んでいたために、特にビジネスにおける人間関係はなかなか安定せず、その原因もわからず、苦しい思いをした。

よい人間関係を築いたり、楽しいコミュニケーションを生むためには、「誠実であること」や、「世の中に好奇心を持って生きていること」は重要なファクターだと考えていて、なので逆に、いつか出会うよき友や仲間のために、自分がまずそのような人間であろうと努力した。

そうした上でのコミュニケーションも、ビジネス上ではなかなかうまくいかず、「自分の何かが悪いのだ」と思い悩んでいる時間も多くあった。


昨日、ひさしぶりにゴリゴリのビジネスの現場で生きている人と接する機会があり、その活動の総括レポートみたいなものも読んだのだが、それを読んで、過去の自分の何がおかしくて、うまくいかなかったのかがわかった。

原因は書くとそれは当たり前のことで、「人それぞれ、求めているものが違うから」というだけだったのだが、レポートを読んでいてそのことが腑に落ちた時、過去の様々な人の顔が浮かんでは消えていき、「な〜〜んだ、そっか」と妙にスッキリした。

それはただのミスマッチで、自分を責める必要はなかったのだという安堵が残った。(どんな原因であれ自分を責める必要はないのだけど)


臨機応変・中庸・自由自在

私にとって、出会い・関わる相手というのは、どんな関わりであっても「友や仲間になりうる人」として接してきたけれど、過去にビジネス上で出会った人達にとっての出会う相手というのは、例えるなら「札束」だった。

なるほど、札束から丁寧に接されても、親密に接されても、困惑するだろう。札束に「人間味」を発揮されてもただただ「余計」だ。懐に入るまでは笑顔なだけで、私は無邪気でアホな部分があるので、その笑顔を見て「友達になれるかな」などと喜んでいたのだ。


それはビジネス上の取引関係においてまで、その中心に「人間」を置いていた自分が悪かった…いや、それはいいと思うのだけど、「それぞれ互いに求めているものが違う」ということを、きちんとわかっていなかった点が愚かだったと思う。(しかしそこは濁されてわかりにくいところでもあるから、いたしかたないと思いたい気持ちもある。誰しも口ではいいことを言うものだから)

私の方は、そんな気持ちで誰とでも繋がろうとしていたので、そりゃあビジネス相手にとっては「めんどくさい」ヤツだっただろう。「お金を稼ぐために効率と自動化を追求する」といったことを中心に据えて活動している人がいる、ということを理解していれば話は違ったのだ。

そんな私は、相手からすれば「ビジネスをする」約束だったはずなのに「ボランティア」を始めたぞ、という感じの意味わからなさだったのだろうなと想像する。

今はそのように極端なビジネスライクな人たちとの関わりはなくなった。以前は私も同じような極端さで「人間中心」的な考えに寄っていて、私は私で中庸ではなかったので、両極的な感じで引き合っていたのだと思う。


今でも私は「人間」が大切だし「プロセス」を重視するほうが生き方として好みだ。それでも、ご飯を食べていく必要がある、年老いて能力や機能は衰えていく、そんな集団(家族)を養う必要がある、といった生々しい現実を踏まえて、場面によってたとえば「人間より再現性」を、「プロセスより結果」を、追求することへのアレルギーもなくなりつつある。

譲れないコアみたいなものは変わらず大切にしながらも、しかしその場その場でかろやかに、結果とプロセスの、品質と売上の、人間味とシステマティックさの、いい塩梅を臨機応変に探りながら、気持ちは晴れ晴れ、自由自在にやっていきたい。



✑40分|1700文字

※この記事は1度、過去の具体的な失敗エピソードを3000文字1時間書いたものを削って抽象化したので、トータルは1時間40分

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