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意味の無い写真を撮り続ける僕は、

日々スナップを撮っていて、自分は何を得ているのだろう、とたまに思う。

気になる景色や出来事を求めて街を徘徊し、「出会い」があればカメラを構えると行った流れが、自分のなかで出来上がっている。

別にスマホでも写真は撮れるというのに、数百グラム、下手すれば1キロを超えるような塊を「重い、重い」と文句を言いながらも持ち続けているのだ。

いざ「気になる場面」が目の前に現れた時に、カメラを持っていなかったらとても後悔するだろう。

カメラを携帯してることの安心感
被写体を見つけた時の高揚感
それにレンズを向けている時の高揚感
実際に思い通り(もしくは予想外)の写真が取れた時の高揚感

どれも写真を撮っている人には理解していただけることのように思う。

しかし、傍から、特に写真に興味のない人間から見れば、自分のこのような行為はなんの意味もないことなのかもしれない。

以前に街を歩いていて、ただ良い感じの質感の壁があったから立ち止まって写真を撮っていると、同行者からドン引きされたことがある。

「なんで…そんなの撮ってるの…?」と言われて、自分は「なんか良いから」と説明になってるかなっていないか未だによく分からない返事をした。

同行者も趣味には理解のある人間なので「なるほど」と流してくれたが、心の奥底ではその行動の原理というか衝動はほとんど理解はできていないと思うし、自分もそれで良いと思っている。

だって、論理立てて「これがこうだから、こういう良さがあって、それを撮ることでこれが得られ、結果としてそれを使うことでさらに何が生まれる」とまで筋立てて説明ができないからだ。
というか、写真撮影なんていうそもそもが曖昧な行為に、そんな理論を真剣に持ち込んではいけないと思っている(趣味の範疇においては、だが)

単純に「レアな景色」があればドキュメンタリー的にその現場を写真で撮れれば誰もが納得できるコンテンツとなるだろう。
眩しいぐらいに煌めいている都会の夜景だとか、お魚咥えたドラネコだとか、誰が見ても明らかに「面白い」場面はみんなが目にして楽しめる。

しかし自分が撮っているのは何もそんな場面ばかりではないのである。

ただの壁の染みだったり、グシャグシャに潰されて朝の街に放置されたストロングゼロの缶だったり、くたびれて役割を成してるのか謎のカラーコーンだったり、折れ曲がって地面に頭が「こんにちは」してるタンポポだったり。

たまには「まるでファンタジーの世界のようだった」みたいなキャプションつけてSNSにポストしてみたいものだが、全然似合わない写真ばかりが僕の手元にあるのだ。

けど、結局自分はそれで良いと思っている。
仕事柄、普段から写真に意味を求めすぎているので、日常のスナップぐらいは自由にやろうと思う。

僕の撮る写真には意味があるだろうか。

僕の撮る写真には意味がないかもしれない。

そもそも、僕が撮る写真に、自ら意味を求めすぎてはいけないのかもしれない。

意味の前に「なんか好き」で撮り続けても面白いんじゃないかと最近は思っている。

花が綺麗だったら撮れば良い。
空が綺麗だったら撮れば良い。
壁が気になれば撮れば良い。
猫が可愛ければ頭を撫でればいい。

意味がある写真にばかり意味があるわけじゃないから。きっと。

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