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私が人を撮らない理由。

私には、
「これ以上の写真は撮れないな。」
と確信するポートレートを撮ってしまった事がある。

そして、その時の条件はもう、2度と帰ってこない。

私は、その写真を公開できる時まで被写体を撮らないだろうし、あの写真を超えられるポートレートを今後、撮れる自信がない。

これからも写真は撮り続けていくけれど、被写体を撮ったとしても、モデルさんじゃなくて、残したい文化や営み、自然に付随するもの、友人や家族の姿しかうつさないと思う。

私が写真にうつる理由は、
作品の中で息をしているように表現をしたいから。
脳内の世界を作品として残すこと・表現することは、自分が1番形にする事ができると思っているし、他者へ任せられない。
そして、自分が、他人の表現を背負えるほど、残せるほど、優れた写真を撮れるかと言われたら、今は、イエスと言えない。うつってもらう相手に対して、責任を取る事ができないのだ。

そして、私が写真を撮る理由は、
いつかなくなるであろう営みや文化、情景を残したいからであって、うつる理由とはまた大きく異なる。そこにいて欲しい人は、演者ではなく、"そこに存在するそのもの"。フィクションではなく、ノンフィクション。

勿論、自分自身がフィクションでありながらノンフィクションのようにうつることもある。そういうのも大好きだ。

けれど、自分が"撮る"立場になった時、それを許容するのは難しい。人間は我儘だ。
私の中には、いろんな私が棲みついている。

もし、私が、超えられないというポートレートを公開する時。みんなはどんな顔をするだろうか。
でも、そんなの、ずっと来なくていいと思っている。その時、きっと、私は悲しみに溺れて目を真っ赤にしているから。

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