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排泄小説 7

 はっと意識を取り戻すと、携帯がちゃぶ台の上でかたかたと音を立てていた。
 部屋が暗かったので一瞬わけが分からなかった。ちょっと昼寝をするつもりが、夜まで寝てしまったのだ。手を伸ばして携帯を取ってみると知らない番号が表示されていた。どうせスーパーの誰かがかけてきたのだろうと思い、おれは携帯を放り出した。何時間も寝たわりには目覚めはすっきりしなかった。
 何かもそもそ声が聞こえた。出所を探ると携帯からだった。うっかり通話ボタンを押してしまっていたらしい。相手の声を聞き取ろうとして顔を寄せると、やけに切羽詰まったような女の声がした。おれは携帯をつまみあげ、そっと耳に当てた。
「――もしもし、聞いてる?」
 南真南だった。それが分かってもおれは何も答えなかった。何の用か見当もつかなかったし、なぜあの女がおれの番号を知っているのかも謎だったからだ。
「死んだの。アイツが死んじゃったの」
 南真南はまるで人に聞かれてはまずいとでもいうように声を潜めて言うと、今度は急にしゃくりあげはじめた。何か聞き捨てならないことのようだった。
「どういうことだ?」
「あっ」
 南真南は驚いたような声をあげた。おれが突然喋ったからだ。
「ちょっと、いるなら――」
「万賀市のことか?」
 南真南は電話の向こうでうなずいたようだった。
「なんで?」
 おれは言った。万賀一が死んだと言われても、すぐには信じられなかった。
 南真南は答えなかった。やがて鼻をすすったあと何かぼそぼそ言ったが、うまく聞き取れなかった。
「なに?」
「首」
「え?」
「吊った」
 おれは南真南とファミレスで落ち合った。二日前にネットカフェに行く前に利用した店だ。同棲相手が自殺したとあってはつらかろうし、こちらが出向いてやってもよかったのだが、電話の時点ですでに駅前にいた南真南がこちらまで来ると言ったのだ。おれの番号は万賀市の携帯で調べたのだという。やつとは出勤日を代わってもらうときなんかのために連絡先を交換していたが、個人的なやりとりをしたことは一切なかった。
 おれはまたピザを頼んだが、南真南は何もいらないと言った。片方が何も注文しないのもおかしいので、おれはドリンクバーを二つ注文して彼女にもジンジャエールを取ってきてやった。南真南の前にいざグラスを置いてみると、こんなときにジンジャエールでもないかという気がした。だが、どうせ手をつけないかもしれないし、すぐにまあいいやと思い直した。
 万賀市が首を吊ったのは、バイトから帰ってすぐのことだったという。南真南がやつの帰宅と入れ違いで近くのコンビニまで買い物に出た、ほんの数分の間に行為に及んだのだ。こういうときなかなか思い切れないやつもいるが、やつは一発でうまくやってのけたのだ。
 南真南が買いに行ったのは牛乳とヨーグルトだった。いつもならちょっとした買い物はスーパーで働く万賀市に頼んでいたが、うっかり切らせているのを忘れていたのだ。おれとのことがあったりしてごたごたしていたせいかもしれなかった。
 南真南が買い物から戻ると、万賀市はロフトの柵にくくりつけられた配線ケーブルからぶらさがっていたという。入れ違いに部屋を出るときに聞いた言葉が、やつから聞いた最後の言葉になった。それは「いいやつ買ってきて」というものだった。安物ではなく、多少値が張っても味のいいものをという意味だ。死のうとする直前にそんなことを言うなんて普通に考えたら理屈に合わないが、いかにも万賀一らしいずっこけた辞世の句だった。
 南真南がじっとピザを見てくるのでおれは一枚勧めた。彼女は黙って首を横に振るだけだった。おれは遠慮なく例の油ぎったピザを食べた。チーズはまるで溶けたゴムのような歯応えだった。
「本当にいらない?」
「いらない」
 二回とも断ったということは、本当に食べたくないということだろう。おれはいよいよがっついた。思いがけず長々と寝てしまい、腹が減っていたのだ。
「なんか笑ってない?」
 南真南が眉をひそめて言った。
 おれは笑ってなどいなかった。万賀市のことを考えてちょっとおかしな気分になってはいたが、それだけだ。首吊り自殺なんて元芸人志望の死に様としてはいかにもありきたりで、それが逆に面白かったが、恋人を亡くしたばかりの女の前で笑ったりなどできるはずがなかった。
「ピザ食べてたから」
 おれはピザのせいでそんな風に見えたのだろうと言い訳した。おれとしてはかなり説得力があるように思えた。それにこの場所だ。ファミレスにいたら、どんなやつだってほんのいっときつらいことを忘れられるのだ。それで微笑んでいるように見えたとしても全然おかしくない。
「マジで笑ってないよね?」
「ないない」
 南真南はなおも疑り深い目でおれを見た。おれはそれ以上何も言わなかったが、ピザに手をつけにくくなり、それが冷めていくのを黙って見ているしかなかった。南真南はやがて追及をあきらめて話を変えた。
「今日泊めて」
「え?」
「うち帰れないし」
「なんで?」
「あんなことがあった場所で寝れないでしょ」
「おれの部屋?」
「ダメなの?」
 南真南はお互いになかったことにしたはずのことを言下に持ち出した。確かに、万賀市が亡き者となった今ではそのことを隠す必要はなかったが、まったくズルい女だった。
 なんとなく、こんなことになりそうな気がしていた。女というのは、ちょっと都合が悪くなると利用できるものは何でも利用してその場しのぎをするのだ。万賀市の死体がまだ温かいうちかもしれないことを考えると、これはずば抜けたやり口と言ってよかった。
 断ることはできなかった。おれは六百万をこの女の目につかないところに隠さなければとぼんやり考えた。うっかり見つかってしまえば、こいつは間違いなく妙な気を起こすだろう。
 万賀市の死体は警察だか救急だかが処理してくれるということだった。南真南は連中がひと仕事している隙に現場から黙って立ち去ったのだ。状況は誰がどう見ても自殺であり、万賀市は息を吹き返す見込みなどなかった。とすると、それ以上関わったところで仕方なかった。生きている万賀市と死んでいる万賀市は別のものだし、留まっていても余計な荷物を背負わされるだけなのだ。
「そうでしょ。だって家族でもなんでもないわけだし」
 南真南はそうやって自分を正当化したが、多分間違ってないんだろう。ほんの短期間一緒に暮らしただけの相手など社会的には何の権利も立場もないのであり、立ち去るなら早めが吉なのだ。それに、連中にいなきゃいけないと言われたわけでもないという。
 だからと言って南真南が嘆き悲しんでないわけではなかった。こいつは万賀市のために涙を流していた。あの愛すべきところが全然ない、退屈な間抜けのために。だが、この女は心のどこかで事が起きたのが求婚される前でよかったとも考えているはずなのだ。運命とは物事が起きる順番のことなんだから。
 ひとしきり話したあと、南真南は結局ピザを二切れ食べた。ジンジャエールも飲み干した。さらにコーヒーも一杯飲んだ。なんだか満足そうに見えた。
 その夜、南真南は当然のようにおれのベッドに入ってきた。おれは昼寝のしすぎでなかなか寝つけず、南真南もまた一種の興奮状態にあってなかなか寝られなかった。そこでおれたちはうまく眠れるように適度な運動をすることにした。その日の午前中にもやったことだ。一度しただけですっかり慣れっこになっていた。
「まさか、わたしたちのこと気づいたわけじゃないよね?」
 事が済むと南真南が言った。
「万賀市が?」
 南真南は神妙な顔でうなずいた。ピロートークとしては悪くない話題だった。罪悪感を餌に、思う存分自己愛に浸るのだ。おれは思わず笑った。
「なんで笑うの」
「いや別に」
「あの人、死んだんだよ」
「だよな」
 おれは言葉面で詫びた。おれと南真南のことに勘づいて自殺したというなら、それこそお笑い草だった。だが、それはありえなかった。
 南真南は、今朝家を出てから夜になって万賀市が仕事を終えて帰ってくるまで、やつとは会ってないのだ。携帯で連絡を取り合うこともなかったという。とすると、二人の接触は万賀市が帰宅してから南真南がコンビニに買い物に出るまでのわずかな時間だけということになる。その時間もせいぜい三分かそこらだというのだ。南真南が自ら浮気を白状したのでもない限り、勘づかれるはずなどなかった。
 おれからすれば、模糊山からのパワハラに耐えかねて死を選んだという方がよほど説得力があった。だが、南真南はスーパーでのやつの境遇を知らないようだったし、おれも一から説明してやる気などなかった。
 おれは万賀市の自殺の原因に何の興味もわかなかった。同情する気にもなれなかったし、やつが死んだまさにその日に南真南と寝ていたからといって何の罪の意識も感じなかった。おれとやつはたまたま同じ職場で働いていただけの間柄でしかなく、それには何の意味もなかった。
「明日仕事?」
「え?」
「人手不足なんでしょ。余計に大変だよね?」
 スーパーのことだった。確かにそうだ。万賀市がいなくなれば食品部門はかなり困ったことになるだろう。あの店をやめるつもりでいたおれだったが、そのことを口に出すのはためらわれた。やつが死んだ今では理由を問われるかもしれないからだ。
 なぜ急にやめるのか。なぜ同僚が自殺したのと時を同じくしてやめるのか。お前のような何の蓄えもないフリーターが仕事をやめてどうするつもりなのか。いったん引っかかると次々疑問がわいてくるかもしれない。
 おれがやめることと万賀市の自殺には何の関係もなかった。だが、おれは叩けば埃の出る人間であり、そのことはよく自覚していた。もしかしたら、しばらくはおとなしく今までと同じ生活を続けていた方が安全かもしれなかった。
 スーパーの方でも、万賀市が自殺したその日に同じ部門のバイトが急に連絡がつかなくなったとすれば、ちょっとは変に思うかもしれない。もし警察が万賀市の身辺を調べるようなことがあったら、そのことを関連付けて考えたくなるかもしれない。おれは誰にもおれのことを怪しんだりしてほしくなかった。
「あいつは働き者だった」
 おれは万賀市を追悼した。南真南は賛成し、また涙を流した。うそ泣きではなかった。南真南がもたれかかってきたので、おれは肩に手を回して抱き寄せてやった。おれは万賀市を呪った。


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