82 遅延
男は職場へ向かう電車に乗っていた。乗り換え駅で急行を待っていると、事故のため電車が遅れるというアナウンスがあった。復旧の目処は立ってないという。
ホームで待っていると、駅のすぐ脇に突如として高層ビルが現れた。いつもは空が見える空間に、建設中のところを見た気もしないうちに建っていたのだ。
男は不思議な気持ちでビルを見上げた。ふと、ホームの中ほどの改札がそのビルに直接つながっているという案内がいつの間にか出ていることに気がついた。男は吸い込まれるようにビルに入っていった。
端まで見通せないほどワンフロアが広いそのビルには、多くの企業が入っていて活気があった。スーツ姿の人々が行き交う様子を興味深げに眺めていると、エレベーターホールの案内板に求人コーナーがあるのを見つけた。
何気なく条件を読んでいると、後ろからここで働きたいのかと声をかけられた。男は適当にかわそうとしたが、ちょうど人手が足りないからと半ば強引にあるオフィスに連れていかれた。ところが、デスクと仕事を与えられると、不思議とやる気が漲ってくるのを感じた。いずれにしろ、給与も福利厚生も条件は悪くないのだ。むしろ、よすぎるくらいだった。男はパソコンを立ち上げ、さっそく働きはじめた。
ビルの高層階は住居になっており、男はビル内に働き口を持つものの権利として一部屋を割り当てられた。食料品や衣料品などの商業テナントも入っており、娯楽施設も多く、生活はビルの中だけで事足りた。経済的な余裕も生まれて、男は今まで知りえなかったような満足のいく暮らしを送ることができた。
まもなく、昇進と恋愛が同時にやってきた。相手は同じビル内に勤める二歳年下の女性だった。男と同じ頃にここへやってきたという。ジムで出会った二人はすぐに意気投合し、一緒に暮らしはじめた。
仕事はますます面白くなってきた。男はチームを束ねていくつもの大きなプロジェクトに邁進した。職場環境もよく、仕事には刺激とやりがいがあった。忙しい毎日だったが、仕事も私生活も充実していた。
やがて、子どもが生まれた。元気な男の子だった。その子は育児の苦労など瞬く間に忘れてしまうほどに、日に日に大きくなった。休みになると、男は子どもと連れだって屋上庭園に出かけた。そこには最高の見晴らしと、小さな子どもが楽しめるいくつもの遊具があった。360度のパノラマは、まるでそのビルが世界の中心であるかのような感覚を起こさせた。
ビルは栄え、横にも縦にも絶え間なく増築されていった。仕事は増え、入居者は膨らみ、生活は豊かになる一方だった。男はさらに昇進するとともに、幸せな家庭生活を送った。二人目の子どもが産まれると、家族で広い部屋に移った。
ある日、事故で長らく運転を見合わせていた電車がようやく復旧したという知らせが届いた。我に返った男は、仕事をやめ、妻子に別れを告げ、半ばパニックになってもともと目指していた以前の職場へと向かった。あの朝からどれほどの時間が経ったのか、もうわからなくなっていた。
そこにはやりかけの仕事と新たに山積みにされた仕事、上司の叱責、取引先からの脅しのような要求、同僚からのいやがらせ、手当の出ない残業などがあった。上司は男が提出した遅延証明を破り捨て、男がいかに職場に迷惑をかけたかとねちねち文句をいった。しまいには、怒鳴り散らしながら物を投げつけてくる有様だった。
男は来る日も来る日も帰りの電車がなくなるまで働かされ、何一つ得ることのないまま、やがて深夜の職場で一人きりで死んだ。
いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。