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排泄小説 5

 スーパーを出たところの道端でうんこ座りになって恵野茶子に送るメールのことを考えていると、小汚い恰好をしたジジイとすれ違った。うちの店によく来る万引き常習犯だった。今まで何度となくGメンに現場を押さえられたことのあるやつだ。
 そいつはいいと悪いの区別もつかなくなっているような耄碌ジジイで、足も悪く、盗ったあとすばやく立ち去ることさえできなかった。金を持ってないわけではなかったからいつも盗んだ分の代金を払わせて放免になっていたが、引き取りに来てくれる身内もいないようだった。
 店に入っていくジジイをぼんやり横目に見送ると、おれはふいにあることを思いついた。うまくすれば、ネットカフェで連泊しなくても済むかもしれない素敵なアイデアだ。おれはジジイが出てくるのをそのまま表で待つことにした。
 この時間になると売り場にはもう管理職もGメンもいないから捕まって時間を食うことなどないはずだったが、たっぷり二十分もかかった。たかだか万引き一つするのにかかり過ぎだ。まったく、年寄りの相手はこれだからイライラする。この程度のことが我慢できないんだから、やはりおれには介護の仕事は向かなかったのだ。
 以前に一度、老人ホームみたいなところで働きかけたことがあった。一日もしないうちにやめたのだが、それで正解だった。あのまま続けていたら、連中にイライラをぶつける羽目になっていただけだろう。ボケ老人どもが殴る蹴るされようとやつらの自業自得だが、おれの心の平穏があんなやつらに無闇に乱されていいはずがなかった。普通に考えたって、あんなゾンビどもよりおれのような若者の生活の方が大事に決まってる。
 おれは万引きを成功させて帰っていくジジイのあとを尾けた。ばれないように気をつける必要なんて全然なかった。あちらの遅すぎるペースに合わせて距離を保つのがただつらかった。ジジイが人気のない道に入ったのを見計らって、おれは素早く前に回り込んだ。
「ちょっと待て」
 ジジイは立ち止まり、きょとんとした顔でおれを見た。
「警察のもんだ」
 おれのお気に入りの嘘だった。堂々と言えば案外それらしく見えるものだ。非番の警官みたいに。
「う、んが」
 ジジイは何か言おうとした。何か言い訳をしようとしている感じだった。ボケてはいても心のどこかで自分のしていることが分かっているらしい。つけこむにはちょうどよかった。
「ポケットの中を見せてみろ」
 おれは自分の口の利き方が気に入った。
 フロアではいつもマスクをつけているおかげか、ジジイはおれがスーパーで働いているやつだと気づく様子はなかった。すっかり警官だと信じていた。
 おれはジジイに詰め寄り、やつの上着のポケットに無造作に手を突っ込んだ。ジジイはうろたえて身じろぎしたが、抵抗しても無駄だった。小便の臭いがふんわり漂ってきたが、それは我慢しなければならなかった。思った通り、盗んだものが入っていた。三袋入りのカップスープだ。種類はコーンクリーム。ちょうど今日おれが品出ししたやつだ。どうやら運命がおれたちを引き合わせたらしい。
「あれあれあれあれ~、おかしいですねぇ」
 おれは一度やってみたかった物真似をして言った。昔見た刑事物のドラマで主演の俳優がこんな軽い口調で喋っていたのだ。こんなところで夢が叶うなんて思いもしなかった。そういえば、ずっと昔おれは大きくなったら警察官になりたいと思っていたものだった。
「んが、むも」
 ジジイは何か言おうとしたが、またしても言葉にならなかった。やつの老いて縮こまった脳みそは、とっさのやりとりに応じられる状態ではないのだ。
「これはちょっと許せないな、じーさん。ホントに何度言ってもダメだな。今から交番行こうか」
「やだ。やだ」
 ジジイは体をこわばらせて首を振った。まるで子供のようだった。
「盗んでおいてただで済むと思うなよ」
 おれはちょっと凄んで、ジジイの腕を掴んだ。
「うむぐ」
「あ?」
「い、行かない」
 ジジイは懸命に首を横に振った。やけに警察を嫌っているようだった。普段からひどい扱いを受けているのかもしれない。権力を持つと弱い人間をいじめたくなるものだから、そんなことがあったとしても驚くに値しなかった。おれも過去に何度か警察を騙った経験からそのことがよく分かっていた。こいつはまったく面白いゲームだった。
「分かった分かった。行きたくないんだな」
 おれは鷹揚に言って一人で飴と鞭を楽しんだ。
 ジジイは一瞬戸惑ったようだった。許されたのかと思ったのかもしれない。もちろんそんなわけがない。おれは今度は鋭く問いつめるような口調で言った。
「じゃあ、どうするよ。どうすんだ、え?」
 ジジイはうろたえて口を開いたまま首を振った。実に面白い。おれは大きく息を吸い込んで今度は物分かりのいい警官を演じた。
「よし。それじゃ、あんたの家まで連れてってもらおうか。色々話が聞きたい。どうしたら万引きがやめられるか二人で話し合おうじゃないか。交番に行くのはそれからでも遅くない。な?」
 おれはジジイに無理やり承知させると、歩けといって背中を押した。
 ジジイの家はそこから数分離れたところにあった。ジジイの足でだ。本当のところ、すぐそこだった。悪くない家だった。築年数は経っているが小さな庭のついた二階建ての一軒家で、独居老人にはもったいなさすぎた。
 表札に滑石とあった。
「なんて読むんだ?」
 ジジイは自分でもその漢字を見つめた。まるで初めて見る言葉でもあるかのように。
「あんたの名前だろ」
 そう言っても反応は返ってこなかった。この年になると名前を使うこともなくなるのかもしれない。そうするうちに忘れてしまうのかもしれない。
「なめ、なめらいし」
 それがジジイの名前だった。
 ゴミ屋敷に近い状態を想像していたが全然違った。家全体にうっすらとすえた臭いが漂ってはいたものの、思ったよりずっと片付いていた。すぐ近くに親戚か誰か住んでやしないだろうなと心配になって問いただしたが、そうではなかった。
 連れ合いのババアはすでに死んでおり、二人の子供は遠く離れたところに住んでいた。親戚との付き合いもとっくに途絶えていた。週に一回ヘルパーだか家事手伝いだかの人が来て細々したことをやってくれるのだという。それがちょうど昨日のことだったらしく、おれはベストタイミングで来たというわけだ。ようやく運が向いてきたらしい。
「ちょっと泊まり込みで様子を見させてもらうぞ」
 おれは決定事項であるかのように言った。ジジイは何かぶつくさ言ったが、面と向かって文句を垂れたりはしなかった。これだから権力はたまらない。
「いつも通りにしててくれ。おれも楽にさせてもらうから」
 おれはジジイをテレビの前に座らせると、家の中を好きに探索させてもらった。もともと人の家を調べて回るのは好きだったが、初めての場所ではいちいち引き出しや戸棚の中をすべて確認しなければ落ち着かない性質なのだ。ジジイには盗んだカップスープを入れてやるサービスもしたから、しばらくは放っておいてくれるだろう。
 まずはトイレだった。何をさておいても話はそこからしかはじまらない。
 トイレは悪くなかった。便器そのものはかなり年季が入っていたが、温水便座付きだった。暖房とウォシュレットの両方がついているタイプだ。紙もダブルロールの上等のやつだった。いつもごわごわの安い紙でこすられているおれのケツの穴も、これなら喜ぶというものだ。
 驚くべきことにトイレは二階にもあった。一人暮らしで二つのトイレなど絶対に必要ないものだが、まだ他の家族がいたときに使っていたのだろう。今のジジイには二階そのものが必要ないくらで、こちらは長らく使われた形跡がなかった。便座カバーもついていない。
 だが、今この家におれと滑石のジジイという二人の人間がいることを考えれば、二つ目のトイレが活躍することも十分ありえる話だった。ジジイがトイレの鍵を閉めたまま、中で発作か何か起こして死んでしまうことだってありえるのだ。
 おれはそのまま二階を見て回った。二階には部屋が三つあったが、いずれも雨戸が閉ざされていた。やけにじめじめしていて、ジジイはもう長いこと二階にあがってないと思わせるような感じだった。おれは真ん中の部屋にちょうどいい感じのベッドがあるのを見つけると、そこをこの短い滞在の寝室として使わせてもらうことに決めた。ジジイの子供の一人が使っていた部屋だろうが、荷物はほとんど片付けられていて子供の性別が男だということくらいしか分からなかった。
 奥の部屋を覗いてみると、使わなくなった家具や家電がでたらめに詰め込まれていた。ブラウン管のテレビなんかもあって、二十年や三十年かけて溜め込まれたものだと分かった。金を払って捨てるくらいなら空き部屋にぶちこんでおけということなのだろう。
 物置にされる前から置いてあっただろう壁沿いのタンスを調べてみると、中には女物の衣類が入っていた。上の引き出しから順に一つずつ見ていき、ようやく一番下にたどり着くと、そこには着物の帯が詰め込んであった。
 上等なものではなさそうだったが、おれは帯の列に不自然な盛り上がりがあるのを見逃さなかった。手を突っ込んで探ってみると、下からうっすら黄ばんだ茶封筒が出てきた。おれはそのいかにもな感じに頬を緩めつつ、中を覗いた。
「ほっ!」
 思わず声が漏れた。諭吉の束だった。見たこともないような額だ。万札なんてしばらく見てなかったから、人生ゲームの金と見間違えてるんじゃないかと一瞬心配になった。一枚抜き取って明かりに透かしてみると、ちゃんと諭吉の顔が浮かび上がった。これがタンス貯金というやつか。いちいちおれを面白がらせてくれる家だ。
 おれは腹の底から笑いが込み上げてくるのをなんとか押さえつけ、忍び足で階段口のところへ戻って階下の様子を伺った。テレビの音がかすかに聞こえてきた。ジジイが何かうめいたようだったが、二階に向けてではなかった。
 時間はまだありそうだった。おれはさっきの部屋に戻って床の上でざっと金額を確かめてみた。六百万は堅かった。何も言わずにこんなに恵んでくれてサンキュー。おれは思わず上の方にいるやつに感謝した。六百万といったら、おれの年収のおよそ四年分だった。こうなると、もう何かに導かれてここに来たとしか思えなかった。
 おれはちょっと落ち着いて考えた。もしかして、ジジイはこの金のことを知らないのではないか。もし二階に金が隠してあることを分かっていたら、かすかに残されたやつの本能がおれを一人で行かせようとしないのではないか。家について来ること自体にもっと強く抵抗していたっておかしくない。金が入っていたタンスは、この部屋の他の不要品と同じようにもう何年もいじった形跡がないように見えた。茶封筒の劣化具合にしてもそうだ。
 着物の帯の下に隠してあったことを考えるとババアの金かもしれない。事情は分からないが、この金のことを誰にも伝えないまま死んだのだ。へそくりとしてもリアルな額に思えた。あるいは、これはやはりジジイの金だが、ボケが進むとともに忘れてしまったという可能性だって全然ないわけじゃなさそうだった。
 焦って手をつけることはなさそうだった。夜遅くに大金を持ってうろつきたくなかったし、今夜のところは予定通りここに世話になるのがよさそうだった。おれは金をいったん元あったところに戻して一階に降りた。
 ジジイは椅子から一歩も動いた様子はなく、おとなしくテレビを見ていた。おれの嫌いなスポーツニュースだ。スープの入った器が倒れて中身が床にこぼれていた。さっき何かうめいていたのはこれのせいか。スープはジジイのズボンにもかかっていたが、当人はまったく気にしてないみたいだった。
 その光景はなぜか無性にかちんとくるものがあったが、おれは何とかこらえた。年寄りを殴りつけるにはもってこいの密室だったが、金のことがあった。別にそれが暴力をふるわない理由になるわけではなかったが、金のことを考えると少しだけ寛大な気持ちになれたのは本当だった。
 おれのようにきれい好きなやつには、こぼれたスープをそのままにしておくことなどできなかった。おれは替えのズボンを探してきてやり、着替えろと言ってジジイの顔に投げつけた。
 すると、ズボンは空中で一反もめんみたいに広がり、うまい具合にジジイの顔に巻きついた。全然狙ったわけじゃなかったが、まるで誘拐されて顔にすっぽり袋をかぶせられた人質みたいになった。
 ジジイはズボンをはぎ取ろうとしてもがいたが簡単にはいかなかった。おれは面白くなって成り行きを見守った。本当になかなか取れなかったので一瞬もしかしたらこのまま窒息して死ぬんじゃないかと思ったくらいだった。あいにくそうはならなかった。ジジイはようやくズボンをはぎ取ると、真っ赤な顔をさらけ出してあえいだ。おれはおかしくなってひゃっひゃと笑った。
「自分で着替えろよ」
 ジジイに言いつけると、おれはテレビのチャンネルを替えた。ジジイはプロ野球の結果を知りたかったらしく、しきりに「5チャン、5チャン」と言った。こいつにもまだ欲望が残っているのだと分かって興味深かったが、それがプロ野球の結果を知ることだとはまったく万死に値した。もちろん無視した。
 おれはこぼれたスープを掃除すると、使った雑巾をきれいにゆすいで流しの縁に引っかけた。まるで専任の介護士みたいな働きぶりだった。
「やだ……、いやだ」
 まだごちゃごちゃ言っているのかと思って見ると、ジジイは椅子に座ったままいつの間にか眠りこけていた。
「いーや、いーや、やだやだ……やー」
 ジジイは眉間に深いしわを作り、必死になって首を振った。新しいズボンが気に入らないわけじゃなさそうだった。とびきり手の込んだ悪夢を見ているようだった。
 おれは椅子の脚を蹴って起こしてやった。滑石のジジイはかっと目を見開いたが、身じろぎもせず宙を凝視するその様子は、まだ悪夢の中にいるかのようだった。やがて、ジジイは黒目をぎょろつかせて傍らに立つおれを見つけた。
「いやだ」
 ジジイはおれを見ながら何かを恐れるようにして言った。おれが天使か悪魔か、その中間の何かに見えたのかもしれなかった。人間、ボケてくると夢も現実もないのだ。
「死なせてくれ」
 ジジイは甘ったれたことを言った。初めてまともに口をきいたと思ったらそれだった。
 おれはおかしくなって笑った。まったく口数が多くて考えの甘い、大袈裟なジジイだ。そんなことをおれに言っても無駄だった。こいつはきっと、これまでたいして苦しい思いをすることもなくやってきたのだろう。恵まれた野郎だ。
「ゆっくり苦しめ」
 おれはそう言ってジジイをベッドに引きずっていった。それから明かりを消し、襖を閉め、やつがちゃんと問題に直面できるように闇と孤独に閉じ込めてやった。そうやって毎日震えながら向こう側の世界に少しずつ吸い取られていけばいいのだ。みんな同じなんだから。
 ジジイのうめき声が耳障りだったので、おれは勝手にシャワーを使わせてもらった。まったくはた迷惑なジジイだが、あの様子ならどっちにしても金などいらないだろう。おれの心の負担も少しは軽減されるというものだった。
 おれの中でバイトをやめてもいいかもしれないという考えがじょじょに大きくなってきていた。何しろ年収四年分だから、同じ生活をしていればしばらく楽ができるのだ。
 よく考えてみると、ジジイが今度またスーパーに来たときに、おれを見つけて何か思い出すようなことがあると具合が悪かった。さっきは焦る必要はないと思ったが、ジジイにおれの顔を印象づけないためにもさっさと出ていった方がいいかもしれなかった。そうでなければ、金をいただいたあとも安心してバイトを続けられるようにしておきたかった。
 そのためにはどうすればいいか、おれには分かっていた。やつの望み通りにしてやればいいのだ。やつがさっき言っていたことを叶えてやるのだ。駅の反対側にある別のスーパーを紹介してやるだけでは確実とは言えないのだから。寝込みを襲えば簡単にできるだろう。感謝だってされるかもしれない。きっとそうだ。
 おれはさっぱりした気分で風呂を出た。また同じ下着をつけなければならなかったのがちょっとばかり不快だったが、それも非日常感があると思えば楽しめないこともなかった。洗面所にドライヤーが見当たらなかったので、おれはバスタオルで頭を拭きながら家の中を探して歩いた。
 勝手口の手前の床にかりんとうが落ちていた。黒糖のやつだ。ごみ箱に捨てようと思ってひょいと拾いあげてみると、それはかりんとうではなかった。
「ぎゃっ!」
 うんこだった。犬猫のではない、人のうんこだ。
 おれは慌てて手を離し、歯軋りしながらそれを見下ろした。ジジイのくそに違いなかった。出してからまだ一日と経ってないようだった。大きさといい、曲がり具合といい、てかり具合といい、かりんとうそっくりだった。
 なぜごみ箱に捨ててやろうなんて気を起こしたのか自分でも分からなかった。多分、気の緩みというやつなんだろう。六百万の気の緩み。おれは洗面所に駆け込み、すぐさま手を洗った。石鹸をたっぷりつけ、火を起こせそうな勢いで手を擦り合わせた。
 ふつふつと怒りがわいてきた。風呂から出たばかりでこんな目に遭わされたのだ。どう考えても許せなかった。濡れたままの頭がだんだん冷えてくるのを感じた。風邪を引いたらどうしてくれる。それもこれもくそのせいだ。ジジイのせいだ。
 おれは、手を洗い終えると再び髪をがしがし拭きながらドライヤーを探した。それは結局見つからなかった。おれは決意を固めた。
 決心さえついてしまえば簡単なことだった。おかげでその夜は気分よく眠れた。

いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。