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長宗我部は治水に困って浦戸城に移ったのではない。

よく、高知県の歴史好きだという方が口にするのが、
「長宗我部は治水に困って高知城から浦戸城に移った」
これ、なんとなく長宗我部は治水に失敗したけど、山内は成功したんや!
と言っているようでどうも気に入りません。
というか、これ、最近の城郭研究では否定的な意見が多いようです。

1 長宗我部氏の城の変遷
長宗我部氏代々の城は南国市岡豊町、いま高知県立歴史民俗資料館がある山にあった「岡豊城」です。
岡豊城は続100名城に選ばれており、草刈りした時期に巡るとまさに土の城の堅固な守りが確認できます。これはまたの機会に・・・・

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豊臣政権下に入っていた天正16年(1588年)頃に代々の居城岡豊城から大高坂城に移ったとされている(土佐の山城(松田直則編)では発掘調査結果からもっと早い段階だったのでは?と指摘している)。
で、その大高坂城から浦戸城に天正19年(1591年)に拠点を移しているんです。

2 司馬遼太郎さんの影響か・・・
この浦戸城移転について、高知県の歴史好きという方々が
「高知城ができる前は湿地帯で、長宗我部は治水に失敗して浦戸城に移った」なんて自分に教えてくれます。
これに対し、考古学関係の熱い方が、司馬遼太郎さんの小説でそのように書かれていたから、そう勘違いしている人が多い!
と憤ってました。自分は小説ほぼ読まないので真偽は分かりません。

3 朝鮮出兵を睨んだ秀吉の指示
で、城郭研究からの見解はズバリ!
『秀吉の指示』
ほかにも毛利とか、吉川とか、山城から移された方々がいたようで、まあそれと同じであろうと。
浦戸城は典型的な織豊城郭で、しかもあんな城下町形成難しそうなとこにわざわざ長宗我部氏が好んで移る?というのもあるのでそうだろうなというのはあります。

で、浦戸城に完全に移ったかどうかは見解の分かれるとこで、浦戸城にいたのは盛親で、元親は大高坂に残ってたんじゃ?
という主張をされる方もいます。

今後の研究を待ちたいところです。




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