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音楽家と歴史・社会 -5: ショパンの前半生

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回は、私が最も好きな作曲家であるフレデリク・ショパン(1810-1849)の前半生についてです。

以下、ショパンの本名”Fryderyk Franciszek Chopin”のポーランド語の発音に近い日本語として「フレデリク」と表記します。

1.フレデリクの出自
父親のミコマイ・ショパンは、ロレーヌ(フランスに併合された元公国)から1787年にポーランドに移住してきた。18世紀前半まで神聖ローマ帝国の支配下にあった公国を、ルイ15世がポーランド王スタニスワフ・レシチニスキに譲渡させたことにより、ポーランド貴族達がこの地域に住んでいた。フランス革命直前、彼らがポーランドに帰還する際、優秀で目をかけられていたミコマイも同行し、フランス語を生かして、ポーランド貴族に対する教職者として道を選んだ。ワルシャワから約50km西方のジェラゾヴァ・ヴォラの伯爵夫人ルドヴィカ・スカルベクの邸宅に住み込みの家庭教師となり、侍女のユスティナ・クシジャノフスカ(没落貴族)と結婚し、4人の子供を授かる。2番目の子供フレデリクの生誕は、1810年3月1日だが1809年3月1日という説もある。

つまり、フレデリクは生粋のポーランド人ではなく、現在のフランスとドイツの国境地帯であるロレーヌの血も受け継いでいる。なお、当時のポーランド王国は名ばかりで、ロシア、プロイセン、オーストリアによる3次にわたる分割の結果、実際はロシア帝国の自治領であったことにも留意したい。

2.ワルシャワでの青春
父ミコマイは、ワルシャワ高等学校のフランス語教師として引き抜かれ、一家は同校の敷地内で暮らす。フレデリクは、幼少時からピアノ演奏や作曲で天賦の才能を示し、ワルシャワで知らぬ者はいない著名な少年となる。父の勤務する同校を卒業した後、中央音楽学校(後のワルシャワ音楽院)に進学。

1828年、18歳のフレデリクは、ベルリンに外遊し、メンデルスゾーンと出会う。その帰路に招かれたポズナン大公国総督のラジヴィウ公の屋敷で、同公及び二人の娘エリザとワンダの前で演奏する。チェロとピアノのための室内楽曲である「序奏と華麗なるポロネーズ作品3」は、ラジヴィウ公と娘たちのために作曲されたが、公式な出版は後となり、献呈先も異なる。

ちなみに、ラジヴィウ公は、ベートーヴェンやメンデルスゾーンを宮殿に招きコンサートを開いていた。ゲーテとの親交もあった。娘のエリザは、プロイセン王子ヴィルヘルム(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)との間の悲恋で有名である。

話をワルシャワに戻そう。
フレデリクは、19歳に中央音楽学校を首席で卒業し、「ピアノ協奏曲第2番作品 21」を非公式な演奏会で披露。翌年、国立劇場で「ピアノ協奏曲第1番作品11」を初演。先に作曲された第2番は、初恋の女性と目されるコンスタンツヤ・グワトコフスカへの想いを表現した曲だと言われている。

3.パリへの旅立ち
1830年、パリで7月革命が勃発。欧州全体が風雲急を告げる中、11月2日、フレデリクはオーストリアに向けて出発。11月29日にワルシャワにて、陸軍士官学校の下士官による蜂起。半年に亘る武力闘争は、ロシアに鎮圧される。フレデリクは、ウィーンでの音楽活動が困難になる中で、パリ行きを決断。欧州全土で活躍したいという大志とともに、ロシアのポーランド支配を嫌ったのだろうか。

パリでのフレデリクは、サロン(社交界)での寵児になっていく。ドラクロワによる絵画には、フレデリクに加えて、フランツ・リストも描かれた。

4.練習曲集作品10の出版
1833年、フレデリクは、12曲から構成される練習曲集を発表する。その一部は、ワルシャワ時代に既に作曲されていた。

第12番ハ短調は、左手の急速な動きと右手のオクターブの練習のためのものだが、「革命」と称され、上記の「ワルシャワ蜂起」の失敗に、フレデリクがショックを受けた時期のものと解釈されている。しかし、名付け親は、この練習曲集を献呈されたフランツ・リストと言われており、フレデリクが命名したものではない。

第3番ホ長調は、旋律とポリフォニーの練習のためのものであり、日本では「別れの曲」と呼ばれている。しかし、1934年に公開されたのショパンの伝記的ドイツ映画「Abschiedswalzer」の邦題であり、外国人には通用しない。ちなみに、私は、中間部の難所も、練習の時には何とか弾けたが、大勢の前では必ず失敗する。高校2年生の時と3年前に恥をかいたので、おそらく死ぬまで人前で弾くことはないだろう。

さて、「博覧会『ショパン 200年の肖像』」において、第8番へ長調のフレデリク直筆の楽譜(下の写真)を見たときには、死ぬほど感動した。軽快な曲で、上声部は急速なパッセージが正確な演奏を求める難曲。英語圏では『陽光(Sunshine)』の愛称で呼ばれるそうだ。

今回は、20代前半までのフレデリク・ショパンについて、時代背景等を含めて記した。ジョルジュ・サンドとの出会いなどについては、稿を改めたい。

練習曲集Op10-8の直筆譜

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